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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
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1話

初めてハットリに会った時、私はボロ雑巾のようにだった。頬には痣ができ、手足は擦りむいて血が滲んでいた。しかし、そういった傷よりも青ざめた唇と怯えた目の方が何倍も私を憐れに見せていた。……と、後にハットリは語った。


 私はこの町に思い出を持っていなかった。よく遊んだ公園や馴染みの駄菓子屋、川沿いの桜並木、神社の夏祭り。そういったものを何一つ持っていなかった。海が近くこぢんまりとした町で、坂の上には裕福な人々の住まう瀟洒な住宅街があり、坂の下には小さな港と人口の砂浜。波は穏やかで、海沿いを走る電車の車窓から見る風景だけが一枚の絵のように美しかった。


 私がこの町に来たのは十五歳の時だった。中学三年での引っ越しはキビシイものがあったけれど、仕方なかった。両親の仲があまり良くないというのは子供心にもうすうす感じていたけれど、実際にそれが破綻するとまでは思っていなかった。父は仕事人間で土日もほとんど家にいたためしがなく、平日の帰宅も深夜帯だったので、私は同じ家に住まいながらも父のことはほとんどなにも知らなかった。父のことで印象的なことがあるとしたら、それこそ、離婚を告げた時のことぐらいなものだった。


 父はあの日珍しく早く帰宅したかと思うと、私を呼び、書斎で衝撃的な告白をした。


「ナツ、実はお父さんとお母さんは離婚することになったんだ」


 私はぼんやりと父を見つめながら、この人はなぜこんなことを他人事のように言うのだろうと思った。当事者であるにも関わらず、淡々とした調子で、悪びれもせずに、こちらがなんと思うかを考えもしないで。

私が黙っていると、父は、

「ナツ、お父さんと暮らしたいか?」

 と尋ねた。私は、父が私と暮らしたいなどとは思っていないことを感じ、それでも返答に迷って曖昧に頷いた。


「そうか」


 父は私の微妙な返答を勝手に解釈すると「わかった」と付け加え、私を書斎から追い出した。私は呆然とするばかりだった。自分の身に何が起きたのかまるで把握できなかった。


 その翌日、父が出勤した後の食卓で母はコーヒーをいれてくれながら本当のことを話してくれた。父には女の人がいて、母と離婚してその人と暮らすのだということ。私と母は母の実家の近くに引っ越さなければいけないということ。これまで母は専業主婦だったけれど働かなくてはいけないし、私も勿論転校しなくてはいけないこと。五歳から習っていたピアノもやめなくてはいけないこと。父とは会いたければ会ってもいいけれど、そう頻繁には無理だろうということ。これからは、今までとまるで違った暮らしになるということ。次々と繰り出される母の言葉に私はやはり呆然とするしかなく、それでは父は一体何のために昨晩私に自分と暮らしたいかなどと尋ねたのかますます混乱するだけだった。


 小学校からすでに私立のエスカレータ式の女子高だった私は、それこそ同級生の全員が幼馴染という慣れ親しんだ環境を離れることが淋しくてたまらず、特に親友だったミサとカナと別れる時は抱き合って泣いた。


「絶対メールしてよ?」


 ミサは私の手を握りそう言った。その手には三人で作ったお揃いのビーズのブレスレットが巻きついていた。


「電話もしてよ。ね、いつでも遊びにきてよ」


 カナも口を揃えた。私は何度も頷き、この年でなにもかもを捨てなくてはいけない人生を恨んだ。そうして私はミッション系のお嬢さん学校の制服もピアノも、小学校から一緒だった親友も、お気に入りのクレープ屋さんも、出窓のついた自分の部屋も、父親も捨てて引っ越したのだった。


 両親の離婚で一番変わったのは、出席番号だった。一学期の中頃に転校した私が新しい公立の中学で貰った番号は「相沢」の名字が常にもたらしていた「一番」ではなく、母親の旧姓「渡辺」の「三十八番」だった。奇妙な話しだけれど、私はその番号によって初めて自分の身辺の劇的な変化を実感できた。引っ越しのどたばたと、新生活のどたばたで私と母は感傷に浸る暇もなかった。


 私は新しい制服を、それも一年しか着ないのに新調せざるをえない制服を準備し、教科書を揃え直し、転校の手続きを自ら行った。その一方で母は結婚前にやっていたという医療事務の仕事を見つけ、久しぶりの仕事に備えて予習復習をし、合間に2DKのアパートの片付けをした。


 父と暮らした家が広々とした庭付きの一戸建てだったのに比べて、今度の住まいのみすぼらしさときたら無闇なみじめさを誘い出す。母がほとんどの家具や荷物を処分したのは正解だった。このアパートに巨大なクローゼットや靴箱や本棚が収まるわけがないだろう。といっても、母がそれらを処分したのは新しい家の狭さのせいではなく、父と暮らした事実を根こそぎ払拭する為だったのだと思う。


 私は知っている。母が、私と父が写っているものは別として、母と父とが二人で写っている写真を捨ててしまったことを。アルバムから丹念にはがし、ゴミ箱に投げ入れていた後姿を。泣いているのかと思ったけれど、母の目はうつろで冷たく、青白い炎が体から立ち上っているようだった。私はもう二度とアルバムを開いてはいけないような気にさせられ、母と暮らす手前、父に買って貰った物なども母の目に触れないように引越しのダンボールに入れたまま押し入れに突っ込んだ。クマのプーさんも、外国土産の凝った装飾のオルゴール付き宝石箱も、グローバーオールのダッフルコートも、夏目漱石の箱入りの本も、全部。そうやって始まった新生活は、文字通り「ゼロ」からのスタートだった。



 新しい制服は紺色のブレザーにプリーツスカートで、小さな校章のバッヂを襟につけることが決められていた。私は「共学」というのに幾分緊張と興奮を覚えていた。これまで、あけすけで居心地のいい女だけの学校だったので、そこは未知の世界であると共に好奇心を刺激してやまない場所だった。


 転校初日、私は職員室に行き始業のチャイムがなるまでそこで待機させられた。自己紹介をさせられたら、なんと言えばいいのだろうか。みぞおちのあたりがきゅうっとひきつる。先生の後について入った教室では、すでに転校生の情報が行き渡っていたらしく三十七人の視線がいっせいに私めがけて浴びせられた。私は緊張が絶頂に達していて、どこに目を向けていいのか分からなかった。整然と並べられた机、誰一人知った人のいない顔、顔、顔。黒板に書かれた私の名前。渡辺夏。夏に生まれたから、夏。その名をつけたのは、父だった。


「渡辺です。よろしくお願いします……」


 私は小さな声で、教室の反応を窺うように頭を軽く下げた。私の席は窓際の一番後ろに用意されていて、窓からは校庭が広々と見渡せた。授業の進み具合については担任からおおまかに聞いていたので、不安はなかった。前の学校の方が進んでいたので当面は楽できそうで、私はぼんやりと窓の外を眺めた。


 校庭を囲むように銀杏の木が何本も空に向かって高く伸びており、その緑が空の青によく映えていた。体育の授業で他のクラスの一団がトラックをぐるぐると走らされている風景は取り立てて珍しいものではなかったけれど、そこに男子生徒の姿があるのだけは新鮮だった。


 女子校でも勿論男の子達との交流はあった。通学の電車で顔見知りになる男子校のグループや、おませな女の子達がセッティングする合コン。ミサやカナが連れてくる男の子達はみんな優しくて明るくて、健康で、垢抜けていた。誰もが名の知れた私立校でそれなりに裕福な家の子ばかりだったから、それこそ私の学校の生徒には「適当」な相手だった。……もう、あそこは「私の学校」ではないけれど。


 紹介されて仲良くなった男の子達にも引越しのことはメールや電話で伝えた。誰もが一様に驚き、大袈裟に残念がり、淋しがり、でもまた会おうと言った。私はそれらの言葉が「適当」な、挨拶みたいなものだと知っていたし、それは結局自分がそういう付き合いしかしていなかったからだというのも分かっていた。


 誕生日やクリスマスのデート。プレゼント。冗談みたいなキス。その一つ一つを私は対岸の火事を見るような気持ちで受け止めていた。私のそういったどこか冷めた姿勢は、父のそれと同じだと思う。離婚のことさえも他人事のように切り出した父の冷静な、いや、冷酷なまでの横顔。私は父を責められない。私のそういう態度を時々ミサは「冷たい」と言って責め、カナは「クール」だと褒めた。そのどちらが本当なのかは分からない。


 二人とは昨夜もメールをやりとりした。新しい学校での初日を迎えるにあたってミサは「がんばってね」と寄越し、カナは「ナツがいなくて、超つまんない」と寄越した。携帯電話には三人で撮ったプリクラが貼ってある。


 一時間目が終わると、最初は遠巻きに珍しい動物を、それもなにか危険な動物を見守るようだった女の子達がそろそろとこちらにやってきた。


「ねえ、渡辺さんって、家どこー?」


 髪を二つに束ねた背の高い女の子が果敢にも最初の一言を発した。


「えーと、大橋町の八丁目」

 私はできるだけ明るい声で答える。


「ああ、じゃあ、斎藤医院の近く?」

 斎藤医院……。一瞬町内の様子を頭に思い浮かべる。

「門の両脇に桜のある内科のこと?」

「なんかレトロな建物のさあ」

「あ、うん、わかった。その近くのロイヤルハイツってとこ」

「そーなんだあ」


 今度は別な女の子が、

「渡辺さんって前の学校でクラブとかなにしてた?」

「コーラス部で伴奏してた」

「じゃあ、こっちでもコーラス部入るの?」

「……ううん、クラブには入らないつもりだけど……」


 三年の今頃からクラブに入ったところで大した活動ができるわけもないし、なによりも私はピアノを手放してしまった。アップライトの古いピアノ。黄ばんだ鍵盤。父方の祖母が使っていたというそのピアノの古さを私は愛していた。調律にお金がかかって困ると母はボヤいたけれど、タッチの柔らかさや滑らかさは私の手によく馴染んだし、音色は優しく、弾くほどに心に染みてくるようだった。


「渡辺さんの名前、かわいーよね。あだ名とかないの?」


 背の高い女の子がにこにこしながら言う。随分と朗らかで、人懐っこいんだなと思った。二つに束ねた髪はぱさぱさに傷んでいるけれど、ふっくらした頬は滑らかだった。


「前の学校ではナツって呼ばれてた。あだ名、つきにくいんだよね」

「じゃあ、あたし達もナツって呼んでいい?」

「もちろん」


 私は最大級に感じのいい笑顔を作った。慣れていかなくてはいけない。この暮らしに。このクラスに。ここのやり方に。


 背の高い女の子は玉島さんといって、みんなからはタマと呼ばれていた。猫みたいだ。けれど、彼女は猫みたいというには大柄すぎ、きゃあきゃあとはしゃぐ声も様子も教室で一番目立つ女の子だった。それから、玉島さんの作るグループには吉田さんという太った女の子と、久保さんという勝気な顔をした女の子、東田さんという髪の茶色っぽい細眉の女の子がいた。玉島さんはその後、休み時間の度に私の机のところへやってきて、前の学校のことや好きな音楽や、好みのタイプのことなんかを質問しまくった。私はそれらににこやかに答えた。けれど、彼女が「タマでいいよ」と言うのに対してはどうしてもそう呼ぶことができず、玉島さんと呼んだ。私は人見知りするタイプじゃないけれど、こんなにもいきなり馴れ馴れしいのは本当は苦手だったし、どうも教室でのイニシアチブを握っているらしい彼女のグループに逆らわない方が身のためだと思っていた。なんにしても上手く自分を教室に馴染ませるには他に手段もないので、ただただ愛想よく接した。


 カナに話したら絶対にげらげら笑って「どあつかましい」って言うだろう。ミサも「ちょっと、うざいよね」と言うに違いない。こんなにも力ずくで仲良くなろうなんて、まるで合コンでテンパってるさえない男の子みたいだ。そんな風に考えるなんて我ながら随分意地が悪いと思ったけれど、玉島さんのどこか一方的なお喋りの明るさや無邪気さには妙に戸惑わされる。そもそも、転校生に近付いてきてやたら喋り捲るなんてことが私には信じられない。ここに来た以上、彼女と絶対に友達にならないといけないとでも言うみたいで、まるで無言の圧力をかけられるようだった。


「あー、ナツ、その時計かわいー。見せて?」


 玉島さんは早速私をナツと呼んでいた。私は腕に嵌めていたベビーGのブラックモデルを外して、彼女に手渡した。それは父が誕生日に買ってくれたもので、私のリクエストがピンクやシルバーホワイトじゃないのにちょっといやそうな顔をしたのを覚えている。こんなのもうとっくに時代遅れになったけど、これはベルト部分に蝶の刺繍が入っていてすごく気に入っているし、プレゼントは母との連名でもあったので「お蔵入り」にはせずに今も使っていた。


 玉島さんは私の時計をちょっと嵌めてみてから、すぐに返してくれた。


「ナツって、もしかして、すんごいお洒落?」

「そんなことないよー」

 私は手を振りながら言った。


「だって、ピアスもしてるんでしょー。穴あるの分かるしー。髪も超キレイだよね」


 彼女が久保さん達にも同意を求めるように振り向く。

「ねえ、そう思うよねー」

「そうだよー。てか、ナツ、睫毛長いし、かわいーよね」

「モテそう~」


 口々に誉めそやされるのに私は困惑していた。この人たちはなんだってこんなにも「好意的」なんだろう。私がおしゃれなんてことはないし、睫毛だってミサやカナの方がずっと長かった。髪も別にいじってないし。モテたためしもない。これが転校生への歓迎の意なんだろうか。


「ねー、山田もそう思うでしょ。ナツ、かわいーよね」


 玉島さんが突然くるりと振り返って、私の隣りの席の男の子に声をかけた。この子、山田っていうのか……。私はまだほとんど誰の名前も知らないので、顔と名前を覚えるべく彼をじっと見た。ちょっとたれ目で人のよさそうな顔をしている。眼鏡をかけていて、真面目そうな印象だった。


「んー? うん」

 山田くんは別に興味もなさそうに生返事を返した。


「あー、山田、照れてる」

 玉島さんが妙にはしゃいだ声で、山田くんの肩をぱしっと叩いた。

「別に」

 山田くんはそれを避けるようにしながら、困惑したような笑いを浮かべた。


「玉島さんはクラブとか入ってるの?」

 私は話題を変えるべく、彼女に話し掛けた。子供の社交って、もしかしたら大人のそれよりも気を遣うかもしれない。大人達は距離を置けるけれど、私達は距離の置きようもない。教室は狭く、学校という世界もまた、狭い。物理的な意味じゃなく、本質的な意味で。逃れらないのだ。玉島さんは机によりかかりながら、

「一年の時、バレーやってたけど辞めたの。なんかねー、先輩とかちょー怖かったんだよ。スパルタ。ってか、いじめ? みたいな」

「運動部ってそういうとこあるよね。前の学校でもバスケ部とかすっごい上下関係が厳しくて、よく泣いてる子いたもん」

「やっぱりー? そういうのってマジむかつくよね」


 転校初日。一日中彼女たちが休み時間のたびに私のところでお喋りをし、お弁当をひろげ、校内を案内してくれ、トイレに行くのにも誘いにきた。そのせいか、他の女の子たちはあまり話し掛けてこなかった。友達は選ぶのではなく、選ばれるのだ。少なくともここではそうらしい。とりあえず、この日私は玉島さん達に選ばれたらしかった。集団生活というのは概ねそのような大きな波や流れで、個人の意思は関係ないものなのだ。楽しいことも悲しいことも、流行も、全部幼い私達を巻き込むようにしてうねりとなっているだけなのだ。そこに身をまかせなければ、溺れ死ぬだけだ。私は足のつかないプールで不安に足を動かしているような気がした。

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