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恋人ごっこ

作者: hiroliteral

 講義が終わったあとの休憩時間に軽く愚痴を言った途端、宮永はほらみろ、という調子で鼻で笑った。俺は舌打ちして手元の原稿用紙と一枚の印刷物に目を落とす。遂に来た、所属する雑誌部のデビュー原稿の要請だ。

『入稿規程。四百字詰め原稿用紙で五枚以上の小説、取材記事、エッセイのいずれか。又は詩かイラストを最低一作品。イラスト以外は原稿用紙に手書き、MS-Wordファイル、TEXTファイルのいずれかで提出のこと』

 最後には手書きで「新人君、ビシバシ行くからヨロシク!」という期待されているのか面白がられているのか、たぶんその両方のコメントが青紫のペンで書かれている。筆跡以前に色だけで部長からだとはっきりわかる。すると宮永も印刷物を覗き込んで言った。

「お、姫様のメッセージか」

 俺は部長命令、と彼の言葉を訂正する。だが宮永はそれでも言い返した。

「でもさ、愛原さんってやっぱり部長っていうより姫様、ってイメージなんだよな」

 たしかに、俺の所属する雑誌部の愛原部長は小柄で普段なら穏やかな喋り方で、服装もかわいいものを着ていることがほとんどだ。たまに学内で歩いている姿を見かけるだけで、おまけに女っ気のなさ過ぎるラグビー部員の宮永から見ればまさに愛原部長は姫様なのだろうと思う。俺は部内の裏話を話そうかと考えたが、せめて彼の妄想ぐらいは守ってやろうと思い直した。

 だが、そんなことを言っている俺もこの雑誌部に入ったのは、愛原部長に惹かれたという点は否定できない。いや、そもそも小説もイラストもやらない上、大学入試でも国語が苦手教科だった俺が雑誌部に入るなんて全くおかしいと言えばおかしい話なのだ。

「だから言ったろ。文学じゃないから何でも書ける、やってみりゃ何か書けるなんて甘いって。どうすんだ、この超理系が」

 宮永はきついことを言いながら、俺の手元にある物理化学の教科書を指でぱらぱらとめくって見せた。たしかに、アレニウスの反応速度論だとかシュレーディンガーの方程式だとか、数式と実験中心で回っている俺が「文学じゃない」というだけで書けるだろうという考えはあまりに甘かったかもしれない。だが、だからと言って今ここで逃げ出すのも癪だと思う。愛原部長もそうだが、とくにこの宮永にそらみろ、と言われっぱなしだというのが何より悔しい。

 俺は立ち上がると、とにかく部室へ向かうことにした。


 誌面の原稿要請が出たせいか部室には部長しか残っていなかった。雑誌部は個人で原稿執筆するせいで、本格活動に入ると逆に人が来なくなる、とは以前に聴いていたが、まさか部長しかいないとは思わなかったので俺は立ちすくんでしまった。すると部室の入り口で挨拶したまま、黙って立っている俺に愛原部長がどうした、と声をかけてくれた。俺はええと、と呟いて真っ白の原稿用紙を背中に隠す。すると愛原部長はいきなり吹き出した。

「あー、ネタなき迷える子羊かあ。でも私が独りだからって血迷える狼はやめてよ」

 これだよこれ。部に入った途端、部長が姫様とは全く逆の人間だと気づいたのは。そもそもうちの看板ライトエッセイ「呑むほどに酔うほどに」の作者がこの愛原部長だなんて誰も思いはしないだろう。

 愛原部長はきひひ、と怪しい笑い声を上げると、背中に隠した純白の原稿用紙を取り上げ、俺の頭を撫でて言った。

「どうする。しばらく編集班で見習いでもしておくかな。あんまり私はすすめないけど」

 そう。うちの部にもあまり原稿を書かない人がいて、それが編集長の高田さん。編集班は手書き原稿をパソコンで打ち直したりワープロでレイアウトしたり目次を作ったりする仕事なのだが、基本的には編集長がこなして編集班の残りは下働きという格好だ。実際、編集長以外はみんな原稿を書いているわけで。おまけに「鬼編」と言われている高田さんの専属下働きというのは遠慮したい。

 愛原さんは俺の表情を見て当たり前か、とうなずいて黒革の手帳を開いた。覗いてしまわないように窓の方に目を向けると、愛原先輩は俺の襟を掴んで手帳を覗かせた。それは創作ノートなのか、断片としか思えない言葉がぐちゃぐちゃに青紫のペンで殴り書きしてあった。

『居酒屋? 激安スナック(モモっち)? 飲んだくれ街道まっしぐら。美術館、コンピュータウイルス一気飲み』

 俺がまじまじと見ていると、愛原部長は胸を張って言った。

「これさ、君と共著でやったろか」

「何をするのかわかんないんですが」

 俺の返事に部長は、うわセンスねえなおめえは、と知らない人が聞いたら驚くような口調で文句を言う。そうなのだ。この人は創作に入ると急に人が変わるタイプなのだ。

 部長は胸ポケットに挿していた愛用の青紫コピックをつまみ出すと自分の額をこつこつと叩く。コピックは本来イラストを描くためのペンなのだが、なぜか先輩はいつもこのコピックをボールペン代わりに使っている。それもなぜか、この青紫に決まっている。

 何も言えずに固まっていると、部長はいきなり立ち上がって俺の肩に手を置いた。

「お小遣い、余裕ある?」

 今日はまだ月初めだからまだそんなに減ってはいない。俺が曖昧ながらもうなずくと、先輩は小さく舌を出して言った。

「彼氏、弟、後輩君。どの響きが好き?」

 え、と俺は唾を飲み込む。色々と期待が渦巻くけれど、でもこの愛原部長のことだから変なことを考えているのかもしれない。とはいえ迷っているばかりも情けないので、思い切って言った。

「彼氏、が好きです」

 部長は微妙に眉を上げ、だがすぐに平静な顔に戻ると告げた。

「よし決まり。今夜から取材。コンセプトは『年上彼女とデート』で。オッケー?」

「はいっ?」

「だーかーらー、取材協力と企画はこのあたしが直々にやってやるんだから、文章はおめーが書くんだよこの小僧! とりあえず身ぎれいにしてペンネーム決めて夜七時に丸井前集合!」

「はいっ!」

「少し遅刻するか早めに来るのかはネタになりそうな方を考えて動きな! 良いね!」

「はいはいっ!」

「返事は一回にしろ!」

 俺は黙ってこくこくとうなずいた。これだから姫様だなんて絶対思えない。先輩はコピックを胸ポケットに戻し、視線をメモ帳と俺の間で上下させる。一分ぐらいそれを繰り返すと、やっと普段の穏やかな表情に戻って言った。

「ま、あんまり緊張しないで。私もちょっと勢いに乗っちゃった。ごめん」

 ありえないほど自然に小首をかしげる。素なのかやはり造っているのかわからないが、こういうのを見ると俺の何かがくらっとくる。いや俺に言わせれば、これにくらっと来ない男の方が変なのだ。

 先輩はゼミ室に帰る、と言ってバインダーを持つと部室を出て行った。独り取り残された俺は戸惑ったまま部屋の中を見回した。

 雑誌部の備品はこれまでに出版した雑誌のバックナンバー、家庭用コピー機、パソコンとデジタルカメラとスキャナの編集三点セット、他にイラスト用の紙とコピック144色セット、あとは雑誌類と文具類ぐらいだ。

 俺はパイプ椅子に腰を下ろすと、机に置いたままになっていたオレンジジュースの缶を手元に寄せてショートピースに火を点けた。煙を眺めながら、部長が俺の吸っている煙草をおじさん煙草、と馬鹿にしたことを思い出した。この煙草は他より高級で、と文句を言ったら今度は学生の癖に贅沢だ、と返された。まあ、煙草を吸わない部長にとっては端から理解する気もなかったんだろうけど。

 余計なことを思い出したら、吸い始めた頃のようになぜかむせてしまった。それでも勿体ないのでまた煙草をくわえ直し、部屋の中を見回す。漫画に手を伸ばしたがすぐに閉じてしまう。そんなことを繰り返しているうち、俺はやっと気づいた。

 俺は緊張しているらしい。


 いったん家に帰ると、鬼編の高田さんから電話が入った。

「締切、少しなら待つぞ」

 雑談も何もなくいきなりこんなことを言う辺り、さすが鬼編さんだと思う。俺は苦笑しながら、何とかします、と返して部長との取材について明かした。すると高田さんは少し戸惑った声を発した。

「どこ、行くんだ」

 場所は全て部長任せだと、今さらながら少し恥ずかしくなって小声で答える。高田さんは小さく溜息をついて言った。

「俺としてはとりあえず入稿してもらえれば問題ないんだけどさ。ま、無理すんなよ」

 はあ、と俺は高田さんの真意がわからず曖昧に返す。高田さんは変なこと言ったかな、と言って笑った。


 結局、俺は約束の十分前に丸井前に到着していた。ネタになる方を、と言われたので普通の男女逆で遅刻しようかと思ったが、そんなストーリー仕立ての小細工を俺が書けるとは思えなかったし、やっぱり部長を待たせるわけにはいかないと思ったのだ。

 ちょうど約束の時間ぴったりに、先輩は横断歩道を渡って俺の前に立った。

「待った?」

 俺は慌てて首を振る。良かった、と部長が微笑んだとき、白いブラウスから覗く銀色のチョーカーが妙に目に眩しかった。

 だが、俺が部長、と呼びかけると途端に部長の表情が不機嫌に変わった。

「あんたねえ、『年上彼女とデート』ってコンセプト忘れたわけ? 部長はないでしょ。それとも何か、変な趣味ある?」

 部長の指摘に俺は慌てて首筋を搔く。どうしようか。部長は駄目だから他に。

「愛原、さん」

 俺の恐る恐るの声かけに部長、じゃなく愛原さんは一転した笑顔で答えると、黒革の創作用手帳ではなく艶のある薄い桜色の手帳を取り出し、例のコピックで文字をなぞると言った。

「私、美術館に行きたいな」

 えっと、とだけ言って俺はまた固まる。美術館なんて高校の見学旅行か何かで行ったっきりだ。だいたいこの街のどこに美術館があるのかすらよくわからないぐらいだ。だが愛原さんは鼻で笑い、俺の手首を引っ張って歩き始めた。俺が慌てて手を引き戻すと愛原さんはにやにや笑って振り返る。

「あ、恥ずかしい? やっぱ」

「恥ずかしいというか、手首が痛い」

 俺の返事に、愛原さんはさらに意地悪に笑うと言った。

「手を繋ぎたいの? そりゃ贅沢」

 絶対にからかっている。だからと言って意地になって手を伸ばしたりしたらますます格好悪い話になってしまう。俺は色々考え、結局は黙って早足で歩き始めた。だがその背中に愛原さんの声が再び降りかかってきた。

「急ぎたいのは全然構わないんだけど、迷子ちゃん、こっちに左折だよ」

 俺は再び愛原さんに打ちのめされた気分になった。


 ミュシャというのは歌手の名前だとばかり思っていたのだが、有名な画家にアルフォンス・ミュシャがいると知ったのは今日が初めてだ。そして絵をこんなにじっくり見るのも、もしかしたら今日が生まれて初めてかもしれない。

 愛原さんの解説によると、この人の作品はアール・ヌーヴォーの代表的な作家だそうで装飾性が特徴だそうだ。現代からみると少しふくよかな、だが綺麗な女性の絵が中心でポスターのような絵が大半だ。ちなみにポスターのような、という感想は愛原さん曰く合格だそうで、というのもミュシャは結構ポスターや挿絵を多く描いている画家なのだそうだ。

 愛原さんは館の出口で俺の胸をつつき、良いもんでしょ、と自慢げに笑みを浮かべる。俺も今回は黙ってうなずく。でも、絵なんて普段全く見ない俺が、その良さを文章になんて書けるものだろうか。

「書けるよ。むしろ『絵を描かない俺が美術館に来ちゃって』みたいなの、面白いでしょ」

 言って愛原さんは土産物売り場のようなところで絵葉書を選び始める。五分ぐらい迷った末、先輩は六枚の絵葉書を買うと二つに分けて包装させ、一方を俺に突きつけた。俺が首をかしげると愛原さんは笑う。

「いちお、先輩だし。全部割り勘ってのも寂しいかな、とか思ってさ」

 良いんですか、と俺が聞き直すと愛原さんは少し慌てた表情になり、だがすぐにむくれた声に変わって言った。

「あげるって言ってんだから貰っておきなさいよー。執筆の資料、必要でしょうが」

 俺は思わず顔を曇らせる。次いで初めから俺の中で回っている不安を再び口にした。

「俺、本当に書けるんでしょうか」

 愛原さんは一瞬眉をひそめ、胸元のコピックを指先で二、三回つついた。だがすぐに表情を戻して言う。

「私より、君の方が案外書けるかもよ」

 まさか、と俺が笑うと愛原さんも一緒に笑いながら、それでも繰り返した。

「文章なんてね、ものづくりなんてね、やってみなきゃわかんないの!」

 俺が首だけで頭を下げると愛原さんは少し偉そうにうなずき、さっさとしまっちゃいなさい、と葉書を指差した。子供じゃあるまいし、とも思ったけれど、結局俺は先輩の指示通りバッグの奥に絵葉書をしまった。

 それにしても、せっかくのデート、という企画なのに俺の持ってきた鞄がDバッグというのは情けないと思う。実際家を出るときに迷ったのだが、どうしても取材ということが頭から離れなくて、そうすると結局動きやすくて物の入るこれになってしまったのだ。だいたい、愛原さんのように上手く手帳を使いこなす自信なんてあるわけがないのだから仕方のない話かもしれないけれど。

 だが、考え直せばこれはこれで良いのかもしれない。どう考えても今日は一日、愛原さんに振り回されっぱなしでいくような気がする。そうに違いないのだ。

 愛原さんは、どうかしたの、と言って俺の顔をじっと見つめる。俺は何だか気恥ずかしくなって、鞄をしっかり背負うと早足で歩き始めた。


「形だけで選んじゃ、やっぱ駄目だよねぇ」

 愛原さんは並んだパソコンを見比べて溜息をつく。次に来たのは大型電気店のパソコンコーナーだ。何でパソコンなのかと言うと、愛原さんが持っているパソコンがかなり古びているということで、その下見に付き合わせられたわけだ。とは言うものの、服のウィンドウショッピングに付き合わせられるよりはだいぶましだとは思うけれど。それにしても愛原さんの条件は目的がかなり偏ったものだった。

「ネットは記事集めで絶対必要。取材記事の写真編集と、部のWebサイト作成に管理、あと記事打ちに便利なソフト」

 完全に部誌編集機械といった感じだ。それなら編集長を連れて来れば良さそうなものだが、編集長に何も知らないと思われるのが悔しいらしい。とはいえ、愛原さんはかなり機械類が苦手らしく、結構言っていることが無茶なので、機械好きの俺はむしろ逆に頭が痛くなるわけだ。

「だーかーらー、素人にわかるように説明してよー。専門用語多すぎ」

 愛原さんってこんなに頭の悪そうなことを言う人だっただろうか。口を尖らしている顔を見詰めて俺はまた溜息をつく。

 俺はとりあえず休憩、と言って喫煙ルームへと逃げ出した。軽くふかしながら、これからの時間について思いを巡らせる。時間的にはそろそろ夕食だろう。その後は一杯飲む、というところか。激安スナック、とかメモに書いてあった気がする。ということはバーにでも連れて行かれるのか。スナックは寮の先輩に連れて行かれたことがあったが、何となく学生では肩身が狭いような気がして俺は嫌いなのだけれど。

 だがそもそも、愛原さんが何を考えているのか何となくわからない。編集のため、というより何か他に目的があるような気はするのだが、だからと言って俺と付き合いたい、なんて感じはしない。シャツの背中に販売タグが付いたままのような煩わしさをどこかに感じるのだ。

 色々と考えているうちに煙草が尽きてしまった。もう一本、なんてやったら愛原さんが怒って突っかかって来そうな気がしたので、俺は仕方なく元の販売ブースへと急いだ。

 歩く途中、パソコン専門誌の販売コーナーがあったので目を向けると愛原さんがそちらに移っていた。だが、その場所は愛原さんがいるはずのない場所だ。パソコンは苦手だと言ったはずなのに、慣れた調子でプログラミング関係の雑誌を眺めているのだ。例によって青紫のコピックで額をつつきながら。

 俺は混乱した。俺はからかわれているのだろうか。それとも「パソコンの苦手な先輩とデート」の方が記事にしやすいと踏んだのだろうか。俺は先輩に気づかれないよう反対側に周ると、先輩の目から見えやすい場所でわざと足音を立てながら歩き始めた。愛原さんは気づくと雑誌を慌てて閉じ、コピックを手に握ったまま俺の所まで駆け寄ってくる。

「ごめん、こっちぶらついてた」

 あはは、と笑う愛原さんに俺は思い切って直接訊くことにした。

「良いっすけど、何でプログラミングの雑誌なんて読んでるんですか?」

 瞬間、愛原さんはコピックを痛そうなほど握り締める。だがすぐに力を緩めて言った。

「数学科の子がね、『横書きならTeXって組版ソフトさえあれば無料でプロ並みにできるよ』って教えてくれたの」

 TEXか。アメリカの数学者が開発した、ワープロでは無理なほど複雑な数式までも綺麗に印刷できるソフトだ。俺も講座の先輩が使っているのは見たことがあるし、数学科ならそれがないとレポートも書けないという話は聞いたことがある。たしかに組版ソフトに愛原さんが興味を抱くのは不思議、というほどのことではないのかもしれない。

 それでもやはり、俺は不自然に思った。TeXは到底パソコン初心者が手を出すような代物ではない。使いこなすどころか起動すら難しい。そもそもTeXを主に使うOSはWindowsですらない。本当に、そんなソフトにパソコン音痴のはずの愛原さんが食いつくのだろうか。

 だが、愛原さんはこれ以上の説明もせず、腕時計に目を走らせると言った。

「今日行きたい店ね、七時までに入ると飲物半額でデザートも付くんだけど」

 俺に見せ付けた時計はもう六時半をとうに過ぎていた。愛原さんは俺の手を握ると出口を指差す。俺は愛原さんの手の暖かさを言い訳に、面倒な考えを放棄することにした。


 料理は結構旨く値段も半額で手頃。お薦めの店、といった記事になら俺でも書けそうだと思う。そういう店を上手く選んでくれた愛原さんには本当に感謝したい。だが、そんな観光案内の一枡程度でデビュー記事、というわけにはいかないわけで。

 俺は愛原さんに引っ張られ、細い小路を歩いていた。愛原さんご推薦のスナックがあるのだという。学生の女だてらスナック通いとは、本当に見た目の印象と実態の差が激しすぎて頭がぐらぐらしそうになる。

「もう少しだよ」

 言って彼女は道端に立つ大きな柳の木を指差した。小路ができる前からこの柳の木は生えていたそうで、色々と怪談めいた話もあるらしい。自分で言っておきながら、愛原さんは小さく肩を震わせて早歩きで小さなビルへと俺を招いた。

 細いコンクリートの階段を登ると、茶色の看板に「Miki」と書いてある。愛原さんは慣れた調子でその店の扉を開けた。

「いらっしゃいませー」

 あまり甲高くはない女性の声がした。まだ時間が早いのか、客は誰もいないようだ。愛原さんは迷う様子もなく、一番奥のカウンターに腰掛け、俺を手招きした。

「初めまして、ですよね?」

 濃い目の化粧と肌の露なワンピースに俺は気後れする。だがよく見れば俺と大した歳は違わないようにも見える。

「レミったら男連れなんだぁ」

 俺に初めまして、と言った女が愛原さんに声を掛ける。愛原さんは小さく首をかしげ、てへへ、と笑った。そこでやっと俺は、愛原さんの名前が怜美だったことを思い出した。

 彼女はまた俺の前に戻ってお菓子を盛った皿とコースターを置くと、俺の目の前に名刺を差し出した。

「モモでーす。よろしくお願いしまーす」

「よ、よろしく」

 思わず答えた俺の様子がよほど可笑しかったのか、それともこんな店にいるにはあまりに子供っぽく見えたのだろうか。モモさんは遠慮なく思い切り吹き出した。

「この子慣れてないんだからさ、そんな笑うんじゃないの。モモ、ボトルちょうだい」

 愛原さんが後輩を「この子」と呼ぶことは普段からよくあることだ。でも今だけは何だか気恥ずかしい気がした。間違って大人の会合に紛れ込んでしまった子供のときのような、そんな居心地の悪さを感じる。俺と愛原さん、そしてモモさんの前に焼酎のウーロン割りが用意された。乾杯、とグラスをぶつけて酒に口をつける。普段飲んでいるより薄めなように思う。

 モモさんがいるせいか、俺は愛原さんに声をかけにくくなった。せっかく二人でほとんど肩が触れそうになっているのに、俺は何も話しかけられなかった。そんな自分の不甲斐なさを誤魔化したくて、俺は手元に盛り上げられたポテトチップスの山を頰張った。

 やっと俺が一杯目を空けようとしたとき、愛原さんは四杯目を空けたところだった。愛原さんがいくら酒が強い上に薄めだとはいえ、少し速過ぎる。案の定、愛原さんは目尻を赤く染め、とろんとした目で俺を見つめてくる。俺は何を話しかければ良いのかわからず、黙ったまま愛原さんの視線を見詰め返した。すると愛原さんはコピックを取り出して蓋を外した。

「手、出して」

 明らかに俺の手に何か書く気だ。俺はグラスを持つ手を反対側にして、愛原さんから両手を遠ざける。だが愛原さんはテーブルをペンのお尻で叩きながら繰り返した。

「手、出しなさいよ。出しなさいったら」

 するとモモさんが俺に目配せをした。手を差し出す動作をしながら、片手におしぼりを掴んで見せる。ふき取れるから出しておけ、と言いたいらしい。たしかに愛原さんの目つきが次第に剣呑な色に変わりつつある。俺はしぶしぶ右手を愛原さんに差し出した。

 愛原さんは動物のように俺の手に飛びつくと、やはり手の甲にコピックを当てた。さらりと濡れた感触がした後、手の甲にはハート型の左半分が浮き出した。次いで愛原さんは自分の手の甲に、俺と反対に右半分のハート型を描く。コピックをしまい、俺の手と手をくっつける。するとぴったりと一つのハート型が現れた。

 俺は戸惑った。たしかに今日は「恋人」ということでの取材だ。だが、こんなことをされると俺も本気で気持ちが揺らいでしまう。俺は愛原さんに注意しようとする。しかし愛原さんは手を下ろして俯いてしまった。

 モモさんがレミ、と小さく声をかける。愛原さんは俯いたまま、小さく頭を振る。モモさんは小さく呻くと、烏龍茶を一缶開けて愛原さんのグラスに注いだ。

「薄くなるでしょ」

「薄くしたの」

 愛原さんの呟きに、モモさんはわかっていたように返す。再び愛原さんは黙り込んだ。俺は二人の顔を見比べたまま、どうにもできずにただグラスの酒をちびちびと飲む。

 愛原さんが顔を上げた。俺はグラスを置いて体を硬くする。愛原さんは俺に向かって座り直して言った。

「君ってさあ、好きな人、いる?」

 このぐらいで酔っ払う人ではないはずなのだけれど。目はたしかに揺らいでいるが、酔っているときのそれとは明らかに違う。俺は唾を飲んで、とりあえず首を横に振った。

 コピックが、愛原さんの手から音を立てて落ちた。一瞬、モモさんは眉を上げる。だがモモさんより先に、愛原さんが口を開いた。

「文章書くの、私も得意じゃないんだ」

 え、と俺は聞き返す。愛原さんのことだから自分に厳しく言っているのかもしれない。だが少なくとも、うちの部の中で軽快な文章でも重厚な小説でも両方こなせる人は間違いなくこの愛原部長だけだ。俺は取材の約束も忘れ、部長、と呼びかけた。すると部長は笑った。

「やっぱ私、部長なんだあ」

 まずいことを言ってしまった気がした。俺は慌てて頭の中で愛原さん愛原さんと繰り返す。思い切って怜美さんと唱えてみる。だがあまりに慌てたせいか、俺は声に出して怜美さん、と呟いてしまった。

「ごめん」

 いきなり愛原さんは頭を下げる。俺はますます慌てて答えを失ってしまう。愛原さんはコピックを拾おうともせずに話し始めた。

「私、部で初めて書いた文章、中学生の日記みたいだったの。どうしようもなくて、でも逃げたくなくて。そしたら当時の部長が、表紙絵を描いてたコピックをくれたんだ。それでコピックで手書きで提出したんだ」

 俺はうなずいて床に転がっているコピックに目を落とす。愛原さんは続けた。

「当時の部長ね、『この効果、面白いよ』って言ってそのままワープロに打ち直さないで印刷機にかけちゃったのね。で、なんか変わった表現のでき上がり、と」

 ようやく愛原さんは立ち上がってコピックを拾い、テーブルの上に転がす。

「当時の部長、色々褒めてくれてさあ、その部長って結構格好良くてさ。時たま美術館とか連れてってくれたり、簡単なスクリプトとかプログラミング教えてくれたり。ね?」

 言っていきなり愛原さんはモモさんに顔を向けた。モモさんは複雑なしかめっ面をして手元の酒を一口、ゆっくりと飲む。

「モモのねー、彼氏だったの。って言ったって取り合いしたわけじゃないけど」

 俺は急に渇きをおぼえ、手元の酒を一息に呷る。モモさんは慌てるように俺の酒を作り足した。愛原さんはマドラーの動きを見詰めながら話を続けた。

「部長ね、大学、辞めちゃった。どっか行っちゃった。気が付いたらいなかった」

 気が付いたら。俺は聞き返す。愛原さんはうなずいて言った。

「なんかね、部室に『バイバイ』ってだけ手紙があってさ。このコピックで書いた手紙。新部長選出の届け出せ、って紙っぴら一枚持って当然みたいな顔した事務のおっさんがやってきて」

 愛原さんは言葉を切って酒を一口飲む。グラスを置くと、モモさんが口を開いた。

「レミちゃんが来て、部長どこだって騒いだんだけど。私だって何にも知らなかったし」

 愛原さんはわざとらしく、あはは、と笑い声を上げて顔を手で覆った。

「コピック、手放せないんだ」

 愛原さんはコピックを握り締め、俺の肩に頭をくっつけた。

「君ならさ、書けるよ。きっと書けるようになるよ。私より書けるに決まってるよ」

 愛原さんは優しく俺の頭を撫でてきた。コピックを握り締めた小さな拳を、俺はそっと両手で包み込む。

 グラスの結露がコースターを濡らした。

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