とある日本の大学生、哲学者カントを拾う
とある大学生視点
「なあ、親切な黄色天使よ、君が何を言っているのか、よく分からないのだ……『この国』とは、どの国のことを言っているのだ?ここは神の国で、人生を終えた私はここへ運ばれたのだろう?」
……困ったことになった。
この変なおじさん、どうも唯の酔っ払いのコスプレ旅行者じゃないみたいだ。
自分のことを哲学者カントだと言い張っているし、おじさんの言うとこ全て、実際、かの哲学者じみていている。そして何より厄介ことに、ここが死後の世界で、僕が天使だと本気で信じているみたいだ。
このおじさんが本当は誰なのか、それはぜんぜん分からない。もしかしたら、現代に生き返った本物のイマニュエル・カントかもしれない。それとも、もしかしたら、僕の理解が及ばないほどに理性のタガが外れているただの狂人かもしれない。
……他の可能性は思いつかない。
狂人か、哲学者か。
普通に考えれば超頭のおかしい人なのだけれど、どうもこのおじさんが本物のイマニュエル・カントだという可能性を、僕は捨てきれないのだった。
◇◇◇◇
それにしても、どうやってこのおじさんにここが20XX年の日本だとおじさんに納得させよう。
そもそも、ここが死後の世界だと信じて疑わない人間に、その認識は間違っていることをどのように納得させればいいのか。僕が生きるこの世界が死後の世界ではない「客観的な証拠」、そんなものを示すことは、僕にはできない。この世界がもしかしたら2秒前に始まったかもしれないことを、否定できないように。
そんなことを疑い出したらキリがないことは、デカルトとかがすでに論じていたではないか。そういう宗教っぽいことは「信じるしかない」、そのようにかのイマニュエル・カントも言っていたはずだ。
ここが未来の世界だと示すために、このおじさんに「カント哲学のその後の敗北の歴史」を伝えるのは憚られた。現代に生きる僕たちは知っている。カントがその著作の中で延々と議論した事柄のほとんどは、今日は通用しないのだけれど、そんな込み入ったことを話すのは骨が折れる。それに、そのようなことを話したとして、おじさんの考えを改めさせる決定打になるかというと、それも怪しかった。
それ以外の方法、例えば周りの建物や人が18世紀のプロイセンとは違っているはずだ、とか、そういうところから攻めていくしかない。
「ほら、この街の建物、プロイセンとは違っているでしょう。ここは、アジアの日本なのですよ」
「いや、この荘厳な背の高い建物。ここが神の国だという証拠ではないか」
「ほら、周りの人たち、明らかにアジア人ではないですか。ここは、日本なのですよ」
「周囲の人々には少々驚かされたな。まさか、天使が黄色だったとは。いやはや」
「それに、言葉だって。アジアっぽい響きだと、そう思いませんか」
「私はアジアの言葉を聞いたことないぞ。それにこの『抑揚のない穏やかな感じ』、神の国の言語っぽく聞こえなくもないな」
ああ、どうしたものか。
「……ちょっと、この辺りを歩きませんか(もしかしたら、何かいい案が浮かぶかも)」
「そうだな、君に付いていこうではないか(やっとポリスか。もったいぶらせてくれるじゃないか)」
◇◇◇◇
「ここは公園。子どもが遊んだりする場所です。どうです。人間ぽいでしょう」
「ほう、天使も遊んだりするのか。それはなかなか、興味深いではないか」
……だめだこりゃ。
と、僕が軽い絶望を覚えていると。
僕たちの前を、犬の散歩をしている女性が通りかかった。
「ほら、犬の散歩なんてしている人もいるじゃないですか。ここはやっぱり、人間界なのですよ」
「まあ犬だって星座になるくらいだからな。理性に欠ける動物とはいえ、天界にいたっておかしくはあるまい」
犬も駄目か……と僕が落胆した、その時。奇跡が起こった。
「あぁ、もう。こんなところでしちゃって。しょうがないんだから」
犬の散歩をしている女性が、そう呟いた。見ればリードで繋がれた犬は僕たちの目の前で足を止め、お座りのポーズをしながらお尻から「ぷりぷりっ」と茶色の物体をひり出しているところだった。
「はは、ちょっと汚いところを見てしまいましたね」
「……」
「……えっと、おじさん?」
「……」
カントを名乗るおじさんの反応がない。しかしその顔には、驚愕の表情が浮かんでいた。「ガーン!」という感じだった。
おじさんは、ようやく理解した。ここが、現実世界であるということを。
◇◇◇◇
そう。もしここがおじさんの考え通りに、肉体を捨てた不滅の魂が行き着く世界なら、ここは物質が意味をなさない精神の世界、ということになる。精神体として存在する魂は、物質の食事はいらないはずだ。食事がいらないなら、排泄もいらないはずなのだ。
でも僕たちはいま、排泄をする犬を目撃した。排泄をしたということは、この犬は食事をしたということだ。食事をした、食事ができる、食事をする必要がある、ということは、論理的に考えて、ここは物質世界というとこになる。
僕たちの精神も肉体の檻に囚われたままだ、というとこを、おじさんは犬の排泄を見ただけで一人で納得してしまった。
僕としては不本意ながら犬のフンに助けられた形になったけれども、おじさんはとてもとても大きく失望したようだ。
神と、八百万の神々を信仰するこの国を呪う文句を天に向かって叫んだ後、途方に暮れてしまった。
聞けば今日寝る場所も、お金もないという。どうにも放っておけない気がして、ひとまずは僕の部屋に案内することにした。
それから、僕は付け加えた。
「黄色天使という表現は、今日では人種差別に当たるかもしれません。黄色、という部分が。天使は白人であることを前提にしていることを思わせるので。そういうのを滅多切りにしたがるポリティカルコレクトネスとかいう考えがありまして。僕の名前は律といいます。天使ではなくて、人間の、日本の大学生です。僕も、あなたをイマニュエルと呼ぶことにします」
「なんなのこのおじさん。こっちの言うこと聞かんし」
「あー犬の糞最高」
「おっさん面白いから泊めたげるわ」
こんな話でした