とある日本の大学生、変なおじさんを見つける
とある大学生視点
━━少し時を遡って━━
僕の名前は律。どこにでもいる、普通の大学生だ。
名前の由来は、かの有名な哲学者が説いた倫理学の名著の中の「道徳律」という言葉から来ているらしい。「自律した人間でいて欲しい」という両親の願いからだそうだ。ちなみに、「自立」ではなくて「自律」だ。微妙に意味が違うらしい。
名前のせいかどうか、今となってはもはやわからないけれども、大学では不幸にも哲学という学問を専攻してしまった。規定のカリキュラムを消化して、現在は「『純粋理性批判』における議論の前提とヨハン・ゴッドフリード・ヘアダーのメタ批判」をテーマに、卒業論文に取り組んでいる。
取り組みはじめたのはいいのだけれど、なぜ自分がこのような分野のこのようなテーマに取り組んでいるのか、実のところ自分でも分かってはいない。このテーマに取り組むことが学問的に、それから僕の将来においてなんらかの価値があるのか、自分で言うのも何だが、それはとっても疑わしい━━
◇◇◇◇
ある日のこと。芋づる式に膨れ上がる参考文献の大海に溺れて、僕はもう卒業論文なんて手に着かず、本のページをめくる気も、パソコンで何か文字をタイプする気もなくなってしまった。放任主義の指導教官は「私はちょっと忙しいし、そもそも論文は『自分の力で書く』ことが大事よね」と、僕に救いの手を差し伸べてはくれない。
自室に籠もりっきりでただパソコンに向かい、文書作成ソフトの画面と動画サイトとの間を行ったり来たりするだけでは心の健康も害してしまう。気晴らしになるかと思い、散歩に出かけてみることにした。
散歩というのはいいものだと思う。散歩と哲学は切っても切り離せない関係にあることは、哲学を志す者にとっては常識なのだ。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まり、ルソー、キルケゴールにウィトゲンシュタインまで、哲学の天才たちは散歩の中で自らの議論を構築してきたのだ。そして、僕が取り組んでいるかの哲学者も、散歩好きとして知られている。
日本のどこだかには京都学派の有名な哲学者が思索しながら散歩したという「哲学の道」があるというけれど、なにもそこだけが哲学の道という名誉を預かる理由はない。誰かが哲学っぽいことを考え、そして散歩していれば、そこが生きた哲学の道なのだ。人、それを実存主義という(いわない)。
◇◇◇◇
ただぷらぷらするだけの散歩も、そうやって哲学史に名を轟かせる巨人たちに自分を重ねることで、なんだか意味ありげになるじゃないか。そんなことを考えながら足を進めていると、道端になにやら人だかりができているのを発見した。
哲学する者野次馬せずの精神ですたすたと通り過ぎるのが僕の信条なのだけれど、今日はどうも、その人だかりが気になる。野次馬に加わって他の人たちの視線の先を見てみると、何やら外国人のような、変なおじさんが道路に寝そべっている。
あ、立った。周りをキョロキョロしている。
あ、近くの人に話しかけた。
しかしあの変なおじさん、肖像画で見たかの哲学者にそっくりだ。青白い不健康そうな肌、鷲鼻、頬はこけ、白い髪はオールバックなのに両サイドはクルクル巻いている。あの時代の欧州の富裕層にありがちなあのヘアスタイルである。服装は当時の正装を意識しているのだろう。白いシャツにフリフリのネクタイのような物に、カーキのジャケットを羽織っている。
見れば見るほど、「あの」哲学者だ。もしかして、理由はわからないけれども、コスプレをしているのだろうか……
その変なおじさん、明らかにドイツ語で宗教染みた変なことを言っている。「ここは死後の世界なのか?」とか。絶対頭おかしい人だ。話しかけられた人も、どうやら困っているみたいだ。
大学の語学の授業で覚えた付け焼き刃のドイツ語で、試しに話しかけてみよう。
その時の僕は知る由もなかった。まさかこの変なおじさんが、本当にかの哲学者であろうとは━━
「あの、すいません、なんだか面白い格好をしてますね。もしかしてそれ、哲学者のイマニュエル・カントの、コスプレ、ですか?」
「学生ですが、散歩行ってきます」
「なんか頭のおかしい外人さんいるし……」
こんな話でした