哲学者カントの仕事術
「さて……早いもので、もう三日目か」
現代日本で目覚めてから、いろんな事をしたようで、実は何にもしていない気がする。沢山のことを話したが、具体的にしたことといえば、ラーメンとペリメニを食べて、星座が変わっていないことを確認して、タバコをふかして、倫先生と楽しいひと時を過ごした……
だけか。
私、なんにもしていないではないか。おしゃべりして、遊んでるだけではないか。このままでは、哲学者カントの名折れだ。
なにか、しなければ。
生きねば。
「なあ、黄色天使。前にも言ったが、何か私にしてほしいことはないのか。礼がしたいのだ。私は他人に施すことには慣れてはいるが、施されることには慣れていないのだ。食事に寝床まで用意してもらって、私はもう、申し訳なさでいっぱいなのだ。このままでは私、罪の意識で死んでしまうぞ」
「一度死んだくせに……でもそのことですが、一つ、お願いがあります。これなんですがね……」
私に起こされたせいで未だ眠たそうな目をこすりつつ、黄色天使は数十枚の紙を取り出した。
「それは確か、お前が昨日コンビニで印刷していた資料ではないか。なんなのだ、それは」
「僕の、大学の卒業論文の下書きです。実はあなたのことがテーマなのです。せっかくあなたを拾ったのです。添削と、アドバイスをお願いできますか」
ほう、それはいい。読んで書いて批評すること。私はその道のプロである。それは誇張でもなんでもなく、自信をもって言えることである。まして、私の著作に関してなど。喜んで、しようじゃないか。
◇◇◇◇
黄色天使から手渡された草稿を見て、しかし私はまた驚いた。これ、私の嫌いな英語で書かれているではないか。
「英語?なぜ英語?お、黄色天使。お前、なぜ英語で書いているのだ」
「なぜって、今や英語こそが世界の言語ですよ。ほぼ全ての学問分野の最前線、それからイマニュエル、あなたの研究だって、大部分は英語でなされていますよ」
おいおい、冗談はよせ。英語で学問、だと?しかも私のことまで?どこへ行ったのだ、私の愛するドイツ語は。
「英語など、ゲルマン語に従属するしかない『方言』ではないか。偉そうなラテン語などは消えて然りだが、インターナショナルな言語といえば、フランス語、それからもちろんドイツ語だろうに。いったいなにがどうなっているのだ」
私との知識のギャップにはもう慣れっこの黄色天使は、ごくあっさりと、ドイツ語の敗北の歴史を語って聞かせた。
「そうですね、僕のあやふやな記憶を頼りに、おおざっぱに振り返りますと、二十世紀前半までは、ドイツ語も学問における国際言語として頑張ってはいました。しかし二度の世界大戦の間、ドイツは戦争に力を込めるあまり、純粋な科学研究への金銭的・人的投資が滞りました。多くの優秀な科学者は、亡くなるか国外に逃げましたしね。そして戦争には負け、ドイツ語は学問における国際言語としての地位も追われたと聞きます。フランス語はその後も頑張っていたようですが、アメリカとイギリスが世界の覇権をがっつり握っていたので、アリと象、とまではいきませんが、猫とライオンくらいの力の差はありました」
結果、今の時代は英語なのだと、黄色天使は念を押した。そういえば、私がここ日本で目覚めた時も、黄色天使はそんなことを言っていたな。ポリスはPoliceであって、もはやπόλιςではないのだ。
いやはや、時代は変わったのだ。もう、知識のアップデートが追いつくかわからん。
◇◇◇◇
ぱらっ。
じーっ。
ぱらっ。
じーっ。
大嫌いな英語で書かれた資料にしょうがなく目を通している私だが、さっきからどうも見られている。黄色天使からの、熱い視線を感じる。
「おい、黄色天使」
「なんです、イマニュエル」
「お前、こっち見るな。なんか気が散るだろう」
「す、すいません。イマニュエルの『読み方』が、どうも面白かったものですから。ずいぶん、読むのが早いですね」
ふむ……私の読み方、か。しょうがない、そんなに気になるなら、私の仕事術でも教えてやるか。
「本でも論文でも、何か読むときは、まずは一字一句理解しなくていいから、最後まで素早く読みとおすのだ。そうして少し時間を置いてから、また読み返す。するとあら不思議、一度目よりもちゃんと理解できるのだ」
「あー、二回読むんですね。その方法、今日でも使えそうですね」
「ああ、この方法はおすすめだぞ。それから、私は本に書き込みながら読む派だ。えんぴつくれるか」
「はいはい、どうぞ」
……
……
……さて、一度目は読んだことだし……黄色天使はどうやら朝食を済ませたようだし……
「おい、黄色天使よ」
「なんです?」
「休憩だ。タバコ吸いたい。それからお茶も」
私がそう言うと、黄色天使はあきれ顔で窓の外を指さした。
「……お茶は僕が持ってきますから、タバコはベランダで、どうぞ」
ん、そうか。
◇◇◇◇
夏空を眺めながらベランダでタバコをふかしていると、黄色天使はグラスに注がれた一杯のお茶を持ってきた。昨日飲んだ緑のお茶とは違う、しかし紅茶とも違う、冷たいお茶だった。むぎ茶、というらしい。麦で茶を淹れるとは、古代ギリシャの病院か、ここは。
「休憩をとることって、そんなに大事なんですか?」
「ん?休憩か?」
ふふ、どうやら黄色天使、私の仕事術について、まだまだ知りたくてたまらんらしいな。確かに、他人がどう読み、書いているか。それは読書家ならば気になるところだろう。
「休憩、そしてメモ。この二つはとても大事なことなのだ。読む時だけでなく、何かを書く時もな」
「書くときも、ですか」
「ああ、論文でも小説でも、報告書でも。何か書きたいときは、いきなり本文を書くんじゃなくて。少しだけ、想像力を育てるための時間を取るのだ。頭の中に一つ、大事なアイデアが浮かんだら、それに関連する事柄を一枚の紙に書き留めていく。書かれた事柄を線で結ぶように繋げていけば、おのずと全体の流れというものもまとまるのだ」
「テーマを決めて、いろいろ連想してみて、紙に書き留めて、使えそうなアイデア同士を繋げていくのですね」
「その通りだ。私は根っからのメモ魔でな。科学の事とか、仕事のこととか個人的な悩みとか、そうやってなんでも一枚の紙に書いて、解決してきたのだ」
「毎回、そんなに簡単にいきますかね」
「問題がとっても大きい時は、メモ用紙も二枚、三枚と増えていったし、もちろん、アイデアがまったく浮かばない時だってある。そんな時こそ、ちょっと休んで、まったく関係のない本や面白話、旅の経験とかからアイデアを借りてくるのもよしなのだ」
ちょうど今、私が小休憩をとっているようにな。
さて、休憩も済んだことだし、黄色天使の草案、二度目を読んでやるか。
「私はドイツ語が大好きだ。ラテン語とか英語はあんまり好きじゃない」
「インプットは二回に分けるのだ。一回目はさらっと、二回目にじっくりだ」
「アウトプットのためにはメモを書いて、アイデアを練るのだ。休憩を挟んで、他の事も楽しみながらな」
「それもうビジネス書になりそうです。『カントの仕事術』とか銘打って。あなたの逸話も入れて、さっきのむぎ茶のように文章を水で薄めて、200ページにして売り出しましょう!」
※当物語は、書き溜めなしメモなし休憩なしで書いております。そのためか、あとから不安になって二回どころか何度も読み返してこっそり書き直しとかしてます。効率が悪い。
※ドイツ語フランス語英語の歴史は、資料を参考せずにおぼろげな記憶を頼りに書きました。事実に合わない恐れがあります。
※カントはドイツゴスキーでした。1781年、当時の政府は「大学ではラテン語で講義をせよ」とケーニヒスベルク大学に命令しますが、それに反対する嘆願書にカントは署名し、1783/84年冬学期以降は、ドイツ語でのみ、授業を行ったそうです。
ドイツゴスキーのカントですが、彼によって書かれた文章、それから本の構成はドイツ人にとっても分かりやすいものとは言えず、ショーペンハウアーは『純粋理性批判』を「ゴチック建築のようだ」と評しています。
※日本語版Wikipedia「麦茶」のページには、麦茶と似たような飲み物は古代ギリシャのヒポクラテスが薬としても使っており、西洋では戦時中、コーヒーの代用品としても飲まれた、と書いてあります。欧州でも飲まれてはいそうですが、カントは麦茶を知っていたか、それは定かではありません。ちなみにそのままドイツ語版のページに飛ぶと、「Gerstentee(大麦茶)は日本ではMugichaとしてHeian時代から愛されてきたお茶のような飲み物である」といったことしか書いてありません。どこ行ったヒポクラテスとコーヒー代用話。
Vorländer, Karl (1924) 3.9 Kant als Schriftsteller, Stilist und Briefschreiber. In; Vorländer, Karl (1924/1992) Immanuel Kant - Der Mann und das Werk. 3. Auflage. Fourrierverlag.
麦茶
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E8%8C%B6
2019/8/2




