とある日本の大学生、哲学者カントと遊ぶ
ゴン。ゴロゴロ。ゴトッ。
慎重に、キューで突かれた無地のボールは、僕の数学的、物理学的計算とは裏腹に、あらぬ方向へと飛んでいく。ナンバー1の黄色のボールに向かうはずのそれは、なぜかその右隣を通過。そのままポケットの奈落に消えた。はい、ファール。
ここはとあるバー。店の中には、緑のラシャが張られた台が三台。
カントおじさんと倫先生、それから僕はその内の一台を陣取り、台の上に散らばる色とりどりのボールと格闘している。
早い話、三人でビリヤードをしている。いろいろルールはあるみたいだけど、僕が知っているのはナインボールだけだ。単純に、楽しむために、三人持ち回りで玉をついていく。
僕はたった今失敗したので、次はイマニュエルの番だ。
「イマニュエル、あなたの番ですよ」
「もうか、弱いな。黄色天使」
倫先生とおしゃべりしていたイマニュエルは、会話が中断されたというのに、それでも嬉しそうに、200年ぶりのビリヤード台に向かった。
◇◇◇◇
「……それにしても律君、オンブル知らないなんて、驚きだったわ……あなた、それでもカント哲学を勉強しているのかしら?」
右腕とキューの角度は90度。グリップを深く握り、腰を落とした広めのスタンス。お手本のようなフォームで、スナイパーのようにキューを構えるイマニュエルを眺めながら、倫先生はあきれ顔で不平を漏らす。
本当は、イマニュエルも倫先生も、オンブルとかいう謎のゲームをしたかったのだ。
ネットで調べてみると、それは17、18世紀に流行して、そして既に廃れたカードゲームのようだった。三人でプレーするらしいのだけど、説明を聞いても、僕にはルールが理解できなかった。意味不明だった。
そこで僕たちは、イマニュエルがオンブルの次によく遊んだというビリヤードに興じることになったのだけど。
「そもそも、その、オンブル?ですか?おじさんの趣味だったってだけで、哲学と何の関係もないじゃないですか」
二人とも、当たり前の常識のように言うその単語。僕の知らないその単語。知っていろと言われても、無理があると思う。呆れられても、困る。オンブルなんて、日常生活でも、そしてカント哲学を扱う上でも、まったく必要のない知識だ。
しかし倫先生は「やれやれ顔」を崩さない。
「……何言ってるの。本気で勉強したいなら、『全て』。そう、『全て』を把握するくらいの気持ちで取り組まなきゃ、だめなのよ?完璧は無理でも、それを目指して努力するの。そうすれば、努力は知識になって、知識は自信につながるわ」
無限の努力をせよ、と、イマニュエルも著作の中で書いていた。でも、その硬すぎる信念は、先生とイマニュエルにとって、重荷ではないのだろうか。
「いやぁ……でも、趣味のことまで調べます?普通」
でも倫先生は、さも当然のことであるかのように続ける。
「調べるのよ。当然でしょう?あのカントおじさまだって、専門外の、どうでもいいことまでよーく勉強したのよ?そうして、フリードリヒ一世の逸話なんかを周りの人に楽しく語って聞かせるの。年を取って、自分の名前を書けなくなるくらい身体が弱っても、ケプラーの法則とか、そんなことはすらすらとそらんじることができるほど、勉強していたそうだわ」
そう言って、倫先生はイマニュエルを見つめる目を細めた。
「だからこそ、その知識が自信になって、あんなに広い心をを持つことができるのだわ。それが態度になって表れているわ。お昼に大学で、律君と一緒にいるあの方を見たとき、直感したのよ。あの方、『ほんもの』よ」
……確かに、イマニュエルには常人には出せない、懐の深さを感じさせるオーラ、人格の発露、のようなものがある。それは、実際に見た人にしか伝わらないけど、見た人にはしっかりと伝わるものだ。
「カント哲学の理論上の欠点を学ぶことも、もちろん大事だけど。私たちは、おじさんのああいう態度を学ばないとね。それは、他人からしか学べないの。放っておくと、人は怠けてしまうことが殆どだから。ああいう人から影響を受けて、私たちは元気づけられるのだわ」
他人から学ぶ。人は、人によって教育される。人は、人を通じて人になる。
それは確か、カント教育学における基本テーゼだったような。プライベートでは哲学の話なんてしないと、食事の席ではそう言った倫先生は、しかし数時間後、あっさりと会話の中に哲学の話を混ぜ込んできた。そういうところが、哲学者のずるいところだ。
『あちゃー、失敗失敗』
イマニュエルがポケットミスしたみたいだ。今度は、倫先生の番。
◇◇◇◇
「イマニュエル、勉強大好き人間だったんですね」
さっきの倫先生との会話を、そのままイマニュエルにも振ってみた。
「ん?ああ、そうだな。私はとにかく勉強したな。哲学だけでなく、特に他の分野もだ。死ぬまで勉強した。勉強するために生きたと言っても、過言ではないな」
「そんなに勉強して、なんになるんです」
疲れるだけ、じゃないのかな。
「終わりのない勉強。学校を卒業しても、学んで学んで学び続けて、自分を育てること。自分自身と、他の人たちと、それから世界への興味を失わないこと。いつだったか私は、そうして一歩づつ進むことで将来、人間という種が完成するだろうと、そんなことも書いたような気もするが、実際、人類云々よりももっと大事なことがあるだろう」
「人類の未来よりも大事なことですか?なんです?それ」
「なんだ、わからんか。そんなの、決まってるじゃないか。お前自身がいつか死ぬ瞬間に、『ああ、価値のある人生だったな』って思うためだ。人生に満足するためだ。そのために、お前は死ぬまで勉強しなけりゃならんのだ」
人生に満足するために、学び続ける。少しおちゃらけるところはあっても、その言葉には、さすがは啓蒙思想の巨人と言われるだけの重みがあった。
「実際、私は『これでいい……』とかなんか呟いて、満足してケーニヒスベルクから召されて来たのだぞ。どうだ、学び続けることで人生に満足すると、この私が身をもって証明してやったのだ。すごいだろう」
そうしてイマニュエルは、えっへん、と、手を腰につけてカッコつけてみせた。
「学び続けることで、人生に満足する、ですか……」
それは自然科学的に証明可能な事実ではなくて、自分の意思でもって信じるしかない事柄だった。それを、イマニュエルはほんとうに信じぬいたのだった。
そんなことを、話していると。
『いえーい!』
倫先生がノリノリで叫んだ。どうやら、一ゲーム目は倫先生が取ったみたいだ。そうして僕たちは、二巡目、三巡目と玉つき遊びを楽しんだ。
結果、ビリヤードは倫先生の連戦連勝。ゲームを終える頃、あたりはもう暗くなっていた。
◇◇◇◇
「楽しかったですね」
倫先生とは別れて、僕たちは家へと帰る途中だ。
「ああ、楽しかった。オンブルは、そうだな、頭を空っぽにするための、唯一確実な方法であるが、ビリヤードはまた違った楽しさだな。頭を使う、知的なゲームだ。私も、年甲斐もなくちょっとはしゃいでしまった」
確かに、イマニュエルはちょっと浮かれていたように見える。特に、倫先生と話している時。遠い目をして、昨日みたく、夜空を眺めながらイマニュエルは呟いた。
「……あの女性、倫先生といったか。なんだか似ているのだ」
「もしかして、例のケイザーリン伯爵夫人、ですか?」
こくっ、と、イマニュエルは少し恥ずかしそうに頷いた。
「でも倫先生、結婚してますよ?」
「……ホントか?」
やっぱり、気づいてなかった。
「結婚指輪、この国では左手の薬指につけるんですよ」
確か、イマニュエルの国では右手の薬指に結婚指輪をつけるのだった。イマニュエルは、倫先生の右手を、よく観察していたように見えた。
「カ、カルチャーショック……」
少しの落胆と共に、哲学者カントとの二日目は終わった。
「オンブルできないなら……ビリヤードだな」
「人は教育を通じて、人を通じて、『人間』になるのよ?」
「人生の終わり、その価値を計る時。満足して逝けるように、ちゃんと大事なことを学んでおくのだ」
「うわぁ、べんきょうりゅうが二体も……」
※哲学っぽくなってしまいました。今回の話ですが、本当のところは、三人でワイワイ楽しくオンブルをさせたかったのです。が、カントの愛したカードゲーム、オンブル。筆者はそのルールを理解するに至りませんでした。わけわかりませんでした。
「理解できない、もうオンブルについて調べたくないし書けない。勉強したくない」という筆者の気持ちを利用して、急遽、カント教育学の回に変更しました(これがコペルニクス的転回!)。いやぁ割とうまくいった。なんとか乗り切った感があります。
※カント教育学は、子どもへの教育が大きな主題になっていますが、当作品では、その対象を大人にまで拡大して書いています。
※カントおじさんのお話、そろそろ終わりが近いです。
Kant, Immanuel (1803) Über Pädagogik. Herausgegeben von D. Friedrich Theodor Rink. Königsberg.
Vorländer, Karl (1924) 2.2 Zweite Periode der Magisterzeit. 4.8 Die letzten Jahre.Tod und Begräbnis. In; Vorländer, Karl (1924/1992) Immanuel Kant - Der Mann und das Werk. 3. Auflage. Fourrierverlag.




