哲学者カント、現代日本で目覚める
「……うん?」
目が覚めると、私はどこかの街の通りに横たわっていた。我が故郷と比べると空気は多少湿気があり生温いが、ケーニヒスベルクの新鮮な空気は何物とも比べることはできんだろう。
私は起き上がり、周囲を見渡す。
……これは驚いた。ここは、まさしく神の国に違いない。ここに立ち並ぶ建物はその一つ一つが教会を思わせるほど高く、しかし無駄な装飾は排除され、機能的に設計されている。
ふふ、何かと装飾を加えたがるカトリック文化圏ではこうはいかんだろう。簡素さこそ正義。やはり私が信仰する敬虔主義こそ、より神の理性に近しいと確信する。そしてこの歩道。石畳とは異なる洗練された黒い物質で固められたこの道は、かつてのローマ帝国を思わせる。
そして私は、周囲の人々を見渡す。
ふむ。
通りを行き交う人々のなんと奇妙なことか。大半がおかしな服装をした黄色人種で占められている。ここは神の国、のはずだな?まあ、敬虔主義ほどではないにせよ、東方の国々にも理性的な宗教があるとは聞いている。もちろん、彼らにも神の国に足を踏み入れる権利はあるだろう。
しかしどういうわけか、周りにいる全員が黄色人種である。そしてみな、私の方を見ている。新入りの私は、どうやらここでは目立っているようだ。
よし、近くにいる二人の男に会話を試みることにしよう。
「Verzeihung, bitte, ich habe eine Frage. Sind wir im künftigen Leben? Also, ich meine, "jenseitige Welt"」
……反応は薄い。黄色人種は、なにやら二人でぼそぼそと喋り始める。
「え、何この人。道路に寝そべって、急に立ち上がってキョロキョロしだしたと思ったら何か話しかけてきたんだけど」
「旅行者……じゃないかな……酔っ払って、そのまま道路で寝てた、とか?」
どうも、彼らは意味の分からない言語を話している。そうか、マルティン・ルターの業績があれど、我が言語は神の国ではまだ通用しないと見える。これは私の思い上がりであった。ここは神の国なのだ。
わかったわかった。教会の言葉ならば、通じるのだろう?
「Qui nos in regnum caelorum?」
「ちょっと……何言ってんだろ、このおじさん。なんか服も変だし、ヤバい人なんじゃない?」
「警察に連れてく?」
どうしたことだ。この男たち、なにやら相談している。こちらの言葉は通じているのだろうか。
と、片方の男が私の目を見ずに、言った。
「ポリス?ポリィース?」
ポリス……?もしや、古代ギリシャで栄えたという、都市文明におけるπόλιςか!失われた文明がなお生きている。よかった、やはりここは神の国であった!そしてこの黄色人種、どうやらこっちへ来いというジェスチャーをしている。
ポリスといえば近代文明の啓蒙の場、学校のモデルとなったスコレー文化があるではないか。そこではソフィストのみならず、伝説の哲学者達が思弁を論じ合ったりもしたという。
もしやこの二人、私をかのエピクロスやストア派の哲学者の許へと誘う黄色天使であるか。そうならば、是非ともかの哲学者達に直接会い、道徳の最高善についての私見を述べてみたいものだ。
なんという僥倖。私はるんるん気分でこの二人の黄色い天使の誘いに応じ、彼らについて歩き始める。
おや?
するとなにやら三人目の、ひ弱そうな黄色天使が現れ、話しかけてきた。
「Entschuldigung. Du bist so lustig angezogen, siehst aus wie der Philosoph Immanuel Kant. Was machst du? Cosplay? Oder was??」
……ほう、これは歓迎すべきことだ。神の国の黄色天使にも、我が母語を解す者がいるとは。いかにも、私は哲学者イマニュエル・カントである。しかしこの者の言うことはいまいち要を得ない。私の服装はいたって普通であるし、コスプレ、とは何を意味する言葉なのか。
その時の私は知る由もなかった。よもや私がこのひ弱な黄色天使の若者の世話になろうとは━━
「神の国きたで」
「ほほ、天使までおる。なんか黄色いけど」
こんな話でした。