哲学者カントは馴れ合わない
誤字報告が一件、ありがとうございます。
「童貞回」「栗色の髪のお姉さん回」「教師人生振り返り回」のあとがきに数行の要約を加えました。
「はぁ……あのフィヒテが。大学の設立に関与するとは。しかも帝都ベルリンにか。人生何が起こるか、分かったもんじゃないな」
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ。あいつは私より一世代若い哲学者だ。年は、そうだな、私からすれば遅く生まれた息子くらいの……いやいや、あいつを息子だなんて、そんなおぞましいことは考えたくはない。
そうして私はあのツンデレ、いや「デレツン」の若者、フィヒテのことを思い返した。
「あいつと初めて会ったのは、確か、1791年。私が精神的に最も充実していた時期だ」
「というと、イマニュエルが『ケーニヒスベルクの輝けるすたぁ』であった頃ですか」
ふふ、私のおだて方が分かってきたじゃないか、黄色天使。
「それな。で、フィヒテの奴は30歳くらいだったか。ワルシャワでの家庭教師の職を辞めて、しかし学問的野心に燃えていたあいつは私の街を訪れた。聞けば私の著作に感動したと言う。褒められると嬉しくなってしまう私だから、それなりに親切にしてやったのだ。昼食会に招いて、地元の学者を紹介してやったりな」
「イマニュエル、いい先生だったのですね。面倒見がいいといいますか」
「いやホントだよ。しかしあいつは歯に衣着せぬ、破天荒な奴だった。せっかく連れてってやった私の同僚の公演、それを批判したりしたのだ。まあ、他の学者を批判するのは学問上仕方のない事としてだ」
ああ、今でも思い出すことができるそ。あの「奇妙な瞬間」のことを。
「それで二か月近い滞在も終わり、九月の頭にさぁこれから故郷に帰るか、という時になってから、あいつは私に言ったのだ」
『私の全ての学問的確信、原理、そして私の、努力を惜しまないこの性格にまで影響を与えるあなた様。一つ、お願いがあります。あの、お金貸してください。実は地元ザクセンに帰る金子が足りんのです。地元に帰ったら牧師になります。そしたら絶対、そう、たぶん。来年の春までには、ぜったいに!きっと!返しますから!』
私に会いに自分からケーニヒスベルクまで来たのに、その私に金を貸せとは。まあ、見るからに金のなさそうな男であったし、相当困っていたのだろうが。しかしさすがの私も、「何言ってんだこいつ」と呆気にとられてしまった。
黄色天使も私の驚きをわかってくれたようだ。
「まあ、そんなこと、普通は言えないですね……あなたのファン、というか追っかけみたいなものだったのでしょう?」
「だろ?それに21世紀の今日の旅費のことはわからんが、当時の移動費、それもケーニヒスベルクからザクセンの田舎町って、結構なもんだぞ?」
まったく、しょうのないやつだった。
可哀想に思った私は、ローンなしで金を貸してやり、それどころかフィヒテの論文を出版社に紹介したり、家庭教師の職を見繕ってやったりもしたのだ。
その出版された論文、なぜか私の著作として世間では知られるようになってな。私はあわてて、「違う違う、この論文は『優秀な男』フィヒテによるものだ」という声明を出したのだ。
そんなこともあって、フィヒテは図らずも私の名を借りて有名になった。あいつがその後、牧師ではなくイエナ大学での職を見つけることができたのも、間接的にではあるが私のおかげとも言えるのだ。
「イマニュエル、あなたもはや人生の恩人ではないですか」
「そうなのだ。あいつも一応、恩というのを感じる心は持ち合わせていたのだろう。その後、奴は自分の一人息子にイマニュエルと、私の名を付けたのだ」
「一人息子に、あなたの名前ですか。それは嬉しかったんじゃないですか?美しい師弟愛、手のかかる弟子ほど可愛い、というやつですね」
……ふむ、美しい、師弟愛か。
その言葉を聞いて、私の心はチクリと痛んだ。
「いや……あいつが私の事を慕っていた時期もあったのだがな。終わりには、私と彼の間に、そのような暖かなつながりはなくなった。残念なことだが」
ああ、慕われた人間と決別しなければならない。これほど悲しいことがあろうか。
「次第にあいつは、学問のことで私とは違う道を歩むようになった。それでも一応、プライベートな関係は続いたのだがな。しかしいざ議論になれば、はっきり言わなければならない。私だって学者だからな。その後私は、あいつの科学論文に厳しい評価を下したことがあった」
私からの批判に驚いたフィヒテに、彼と仲のいい学者だったシェリングは言ったそうだ。
◇◇◇◇
『なあフィヒテ、もうカントとの関係を断つ、いい機会じゃないか。あの老人はもう終わりだ。頭は空っぽ。何にもできやしない。関わっても、お前さんには毒にしかならんぜ』
◇◇◇◇
「シェリングに影響されたかどうかはわからん。しかしそれ以降、彼との個人的な関係を続けることも不可能になるほど、私たちの仲は悪くなってしまった」
残ったのは、あいつとのケーニヒスベルクでの思い出、やり取りした手紙、それからイマニュエル・ヘアマン・フィヒテ。私の名を受け継いだ、あいつの息子だ。
もし私がフィヒテを批判せず、あいつの歩む道をゆるやかに見守っていれば。若者を見守る唯のおじさんであれば、私たちは生涯の友人たり得たかもしれん。
しかし、私にそんなことはできないのだ。わたしはおじさんだが、哲学おじさんである。学者である。相手が誰であろうと、学者である限り、真実を探求する限りは、己の存在をかけて本気で議論すること。それは当たり前の事なのだ。たとえ、それで自分が傷つこうとな……
◇◇◇◇
私は人生を通じて、他人と我慢して馴れ合いの関係を続ける、というのがどうしてもできなかった。
フィヒテの他には、そう、私の従者ランぺだ。ランぺは学はなかったが、私の身の回りの世話を40年間してくれた、誠実な従者ではあった。彼の身の回りの世話なしでは私の生活は破綻してしまうだろうと、そう思ったことさえあった。
のだが。
私が年を取ってくると、あやつもだんだん人が変わってきた。私の財産を勝手に、「理性的でない」事に費やしたり、時間通りに働かなかったり、仕事中に酒を飲んだりエトセトラ。その素行は目に余るようになった。
再三の警告も、意味をなさなかった。40年の付き合いだ。まさかランぺも、私が奴を解雇するなどとは思わなかっただろう。
しかし、40年来の付き合いの、気のしれた友人とも言える人間であっても、他人であることに変わりはないのだ。していいことと悪いことの区別もつかんような人間と我慢して関りを続けることなど、私にはやはりできなかった。
まさに断腸の思いで、そして十分な恩給と共に、私はランぺとの40年に及ぶ関係に終わりを告げた。それは私がこの世を去る二年前、1802年のことだった。
◇◇◇◇
私にだって他の学者や友人知人への愛着はもちろんある。これでも心を広く持とうとはしてきたのだが、長い人生、いろいろあるってものなのだ。そんなことを黄色天使と話していると。
おや。
大学の建物の方から一人の女性がこちらにやってきた。あまりに美しいので、私は少し緊張してしまった。
「あれ、律君じゃない。卒論の方は、うまくいってるのかしら?それに後ろでタバコとお茶を嗜まれているそのお方……もしかして、イマニュエル・カントの……そっくりさん?」
「あっ、倫先生。実はですね……」
どうやら、黄色天使の指導教官らしい。栗色の髪の、少-しだけ年齢を感じさせる、美しい女性だった。
カントとフィヒテを見て筆者が思うのは、夏目漱石と森田草平ですね。フィヒテも森田草平も、せんせいの熱烈なファン、そのくせ金をせびる、そしていつの日かせんせいを批判し始める……手がかかりすぎて逆に可愛く見える弟子、そんな感じ。傍から見る分にはおもしろい。
若い学生から熱烈に愛されたカントですが、特に学問的野心に燃える若い学者にとってカントは「哲学上の超えるべき壁」として立ちはだかっていたことも事実です。
シェリングはかなり辛辣なことを言っています。多くの若い哲学者たちはカントとは完全に決別しますが、フィヒテはそれでもデレ要素を捨てきれなかった可愛い後輩、という印象です。実際、フィヒテはカント哲学の真の継承者であると評価する学者も多いです(vgl. Asmuth.2009)。
Asmuth, Christoph (2009) Kant und Fichte – Fichte und Kant. In. Fichte-Studien; Bd. 33. Amsterdam. S.1-6.
Schelling, F.W.J (1799) An Fichte, In: J.G. Fichte-Gesamtausgabe der Bayerischen Akademie der Wissenschaften. III/4,S.69.
Vorländer, Karl (1924) 4.5 Weitere Ausbreitung der Kantischen Philosophie in den 90er Jahren. Beginnende Gegnerschaft. 4.8. Die letzen Jahre. Tod und Gebrägnis. In; Vorländer, Karl (1924/1992) Immanuel Kant - Der Mann und das Werk. 3. Auflage. Fourrierverlag.