表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/25

哲学者カント、教師人生を振り返る

「っしゃいませぇぇ」


 自動で開く不思議なドアを通り、私は黄色天使とコンビニに足を踏み入れる。


 ふむ。コンビニとは、要は何でも屋さんのようだ。広くない店内には食料品、生活用品、雑誌、それからタバコや酒といった嗜好品までがきれいに並んでいる。そしてこの店の形態、なかなか興味深いではないか。商品を棚に置いて、客に会計まで持ってこさせるとは、合理的である。しかしこれは客が万引きをしないという信用の元にしか成り立たない方法でもあるな。


 黄色天使は昨日あれこれ言っていたが、人類は着実に、道徳的に啓蒙されつつあることを私はこのコンビニを見てまた確信した。それにしても、店の名前にもなっている経営者のミスター・ローソンも、よくこんな方法を編み出したものだ。客の信用を得たければ、まず客を信用しろということか。いやはや、その道徳的態度、やるではないか。


「ちょっと先に用事があるので、タバコは待ってくださいね」


 そう言って、黄色天使は「コピー機」という機械に向かう。黄色天使がピッピッと何かを操作すると、そこからは文字が印刷された紙がカシャカシャ出てくる。この四角い箱、まさか印刷機なのか。グーテンベルクの活版印刷から進化したものじゃないか。


「……お待たせしました。じゃあ、タバコですね」


 印刷を終えた黄色天使はタバコを求めてレジへと向かう。


「うむ。私の身体は今や煙を欲しているぞ」



◇◇◇◇



「ぁりあとあっしたぁぁ」


「街中でタバコを吸うのはマナー違反なので、喫煙所のある僕の大学に行きましょうか」


「ほう、そうなのか」


 コンビニで一箱のタバコを得た私たちは、黄色天使の通う大学に向かうこととなった。まさか外でパイプもといタバコをふかすこともできんとはな。まあ確かに、周りの人からすれば迷惑かもしれんな。臭いとかな。そんな事まで気にするなんて、やっぱり道徳的になってるじゃないか。人類。


「そういえばイマニュエル、長いこと大学に勤めていらしたんですよね」


 大学へと向かう道すがら、黄色天使は私の大学勤めの日々のことを尋ねてきた。ふふ、知りたいか、「ケーニヒスベルクの輝けるすたぁ」であったあの日々のことを。


「ああ、そうだな。私講師や教授としていろいろ講義を持ったが、私の十八番は論理学と自然地理学だった。40年間、私はこの二つの講義を欠かしたことがなかったのだ」


「40年間?!同じ講義を?!」


「ふふ、しかも私は、論理学では40年間同じ教科書を使用したのだ。終いにはその教科書も書店で入手不可能になってな。学生は苦労していたぞ。わはは」


「……いや、イマニュエル、それ笑いごとじゃあないんじゃあないですか」


「なに、学生もかえって集中するというものだ。私の言葉の一語一句を聞き逃すまいと、必死になって勉強していたぞ。そうして、40年の月日はあっというまに過ぎ去ったのだ」


 哲学の教壇に立った最後の日のことを、私は今でも思い出すことができる。


「あれは忘れもしない1796年7月23日。私は72歳。当時の平均寿命をとうに超えていた。朝の7時から8時。40年間続けたいつもの論理学の授業だった。あの日を最後に、私は哲学の教壇に立つことはなかった」


「朝の7時って、ずいぶん早い時間に講義を持っていたのですね。それにしても、そんなに長く続けていらっしゃったのなら、終わった時の感慨もさぞ深かったでしょうね」


「それな。授業に登録した学生は40名ほどだったが、あの日だけは大きな講堂が超満員になるくらい溢れたのだ。あの後、もうさすがに年で講義を受け持つことは不可能になってな、気力はあったのだか、体力が続かなかった。そういうわけで、一年後の1797年には教授の任を解かれたのだ」


 ああ、あれは、それはそれは愉快な日であった。


「あの1797年の夏の日、私のためにケーニヒスベルク中の学生が集まって、音楽隊を結成してな。街のプリンセス通り(Prinzessinstraße)をゲリラ的に行進したのだ。うるさいのなんのって、君にも聞かせてやりたかったぞ」


「ふふ、ずいぶん愛されていたのですね」


 そう言って、黄色天使はにこやかに笑った。お蔭で私はまた口が乗ってきた。


「ああ、私は学生達を愛し、学生達もまた、私を愛したのだ。そしてあの日、とある20歳の伯爵家の若造が私の家に乗り込んできてな。『学生、そして世界の代表として、貴君の50年に及ぶ真実の探求と啓蒙活動に捧げる』とか言って演説と自作のポエムまで披露したのだ。笑えるだろう」


「水を差すようで悪いですが、でも50年って、おかしくないですか?イマニュエルが大学で講義を持ったのは、40年間なのでしょう?」


 黄色天使の「いい質問」に、私はニヤリとした。


「そこだよ。笑えるのは。私が講義を受け持ったのは40年間。普通に考えれば計算が合わないのだが」


 ふふっ、と。あの時の事を思い出すと、私は一人でも笑ってしまう。


「あんなことにすぐ気づくのは、まさしく私くらいだろう。大学で講義を受け持つ前から、私は既に学者としては知られていたのだ。私の手による論文が初めて出版されたのは1749年。つまりあのゲリラ演説からは48年前になるのだがな。その論文の前書き。そこには確かに、1747年4月22日と、そう書いてあるのだ。私が引退した1797年から遡って、ぴったり50年だ。あの20歳の子倅、スピーチのタイトルのためだけに、わざわざ私の最初の古い論文を引っ張り出して調べたのだ」


 まったくあの若造。今でもあの「してやったり」の顔を思い出すことができるぞ。味なことをしてくれたよ。ぴったり半世紀。なんとも区切りのいい数字じゃないか。学者生活を終えようとする私への、最後の手向けとして、あいつなりの心遣いだったのだろうな。


「そうして、あの伯爵家の倅、学生と世界の代表を自称するハインリッヒ・レーンドルフ青年は『イマニュエル・カント教授の50年に及ぶ大学への貢献に捧げる演説』を仰々しく述べたのだ。私は興奮で、演説の内容はもう覚えてはいないが、彼の自作のポエムははっきりと頭に残っている」


 

◇◇◇◇


"Mehr denn achtzehntausend Tage schon

Sind als Lehrer ruhmvoll Dir entflohn,

Und noch blickt Dein Geist mit Jugendfülle

In das Heiligtum der höchsten Wahrheit,

Hellt das Dunkelste mit lichter Klarheit,

Trotz dem Schwanken seiner schwachen Hülle."


「一万八千日を超える、

誉れ高い教育者としての歳月は過ぎ去って。

しかし未だ生気溢れる君の精神は神聖なる真実の探求へと向かうだろう。

無知の暗闇を、光の明晰さで照らしたまえ、

その靄が君を惑わそうとも」


◇◇◇◇



 ああ、あれは本当にいい日だった。あの「いきな」青年のことを思うと、今でも目頭が熱くなるというものだ。


 と、そんなことを話しているうちに、私たちは黄色天使の通う大学に到着した。


「今はいないのか?ゲリラ音楽隊とか、予告なしに家まで乗り込んでくる熱血青年とか」

「……いや。それはちょっと迷惑じゃないですかね……」

「(しょんぼり)」


※40年使われた論理学の教科書ですが、実際は、カントは学生が困っていることを「知らずに」使い続けたそうです。ヤバい。


※ハインリッヒ青年の詩は、筆者による意訳です。原文はドイツ語の方。この「ぴったり50年の話」、筆者は大好きです。引退していく老教授へのスピーチ。そのタイトルのために昔の論文の前書きにまで目を通す根気。感動ものです。ヤバいです、当時の二十歳の学生。カント愛されすぎ。それに偶然ぴったり50年っていうのもカントっぽい。大好き。


Graf von Purgstall, Wenzel Johann Gottfried (1795) In; Hugelmann, Karl (1879) Ein Brief über Kant. In: Altpreußische Monatsschrift 16. S.607-612


Vorländer, Karl (1924) 3.7. Kant zu Hause, 4.6.Ende der Amtstätigkeit. In; Vorländer, Karl (1924/1992) Immanuel Kant - Der Mann und das Werk. 3. Auflage. Fourrierverlag.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ