哲学者カント、タバコを買いに街に出る
「ひとまず、おはようございます。よく眠れましたか?」
「うむ、お蔭様でな。よく寝ることができたよ。ありがとう」
「ゆっくりしてくださいね。僕も少し準備が必要なので」
そう言ってトイレに行ったり顔を洗ったりとあれやこれやの身支度をしていた黄色天使は、食事の準備にかかろうとする。
「ライスとパン、どっちがいいですか?」
おう、親切な黄色天使よ。気を使ってくれるのはありがたいが、私はその申し出を断らねばならんのだ。すまんな。
「私は朝食はとらない主義なのだ。食事は一日一回、昼食のみと決めているのでな」
「でも、朝食をとらないと元気が出ませんよ?」
「いやいや、むしろ朝食をとった方が元気が出ないね。頭に血が回らなくなって、眠たくなってしまう。私にかまわず、君一人で食べてくれたまえ」
黄色天使はなにやら朝食の有用性についてあれこれ言ってきたが、私にも習慣というものがあるのだ。最後にはわかってくれたようだ。
◇◇◇◇
「いただきまーす」
手早く準備を済ませ、謎の呪文を言い放った後、黄色天使は朝食を食べ始めた。テーブルの上には、ライス、具の少ない茶色のスープ(味噌汁というらしい)、それから発酵してやや臭う豆と野菜(それぞれ、納豆とキムチ、というらしい)。
ふむ、若干質素ではないか?昨日の夜はラーメンと肉の詰まったペリメニ、そしてライスワインを楽しんで、未来の日常食は随分こってり系だなと思ったものだが。臭う豆や野菜、それから具の少ないスープをおいしそうに食べているところを見るに、どうやら普段の食事は質素めなようだ。黄色天使よ、君も大変なのだな。
しかし私は朝食は取らない主義なのだが、どうしても、どうしても欠かすことのできない習慣がある。一人朝食を食べる黄色天使に、私は質問を試みることにした。
「なあ黄色天使、パイプはあるか」
私の質問に、黄色天使は箸を口に入れたまま、目を見開いてポカンとした表情を浮かべた。
「パイプ?なんのパイプです?」
え?パイプも通じないのか?ポリスも通じない、パイプも通じないなんて、現代日本のパピプペポはどうなっているのだ。
「パイプといったら、あれだ。木とか陶器で作られた筒に、乾燥させた特殊な葉っぱを詰めてだな、火をつけてふかすのだ。煙が出て、口から吸って、肺に満たしたりして満足するのだが」
私はパイプを吸うジェスチャーをしてやる。頼む。伝わってくれ。あれがないと困るのだ。
……
パーフェクトなボディランゲージのおかげか、黄色天使はわかってくれたらしい。
「あー、はいはい、映画とかで見たことがあります。ダンディでヒップなおじ様が書斎とかでぷかぷかふかすやつですね。でも今日パイプをふかす人なんてほとんどいませんよ」
おいおい、まさか、パイプないのか?パイプのない一日なんて、レウキッポスを知らないデモクリトスのようなものではないか。
「駄目なのだ。一日一回のパイプ。この習慣を変えてしまうと、私は死んでしまうのだ。一生のお願いだ。頼む、何でもするから!」
「……一度死んだくせに」
なにか諦めたような表情で、黄色天使は続けた。
「パイプはありませんが、紙たばこならコンビニで簡単に買えます。朝食が済んだら買いに行きましょう。あなたも、準備をしてくださいね。洗面所とトイレの使い方は、昨日教えた通りですから」
なんだ、パイプはなくても、似た物ならあるのではないか。考えてみればそれは当然か。パイプは人類の友だからな。
「あ、それと」
うん、なんだ?
「僕の服をお貸ししましょう」
ほう、この時代の服装か。それは興味深い。
◇◇◇◇
「イマニュエル、なんだか昨日よりも若返って見えますね。見た感じ、40歳くらいでしょうか」
そう、20XX年の日本で目覚め、それからラーメン、ペリメニとライスワインで満たされた私の肉体は、どうやらちょっと若返っているらしかった。
「ジーンズはちょっと合わないかな……」
なにやら一人でブツブツ言いながら、黄色天使は私に服を見繕ってくれる。
白い厚手の肌着(Tシャツというらしい)、ベージュの細身の綿のズボン(チノパンとか言うらしい)、紺色の上着(テーラードジャケット、又は普通にジャケットというらしい)、そして茶色の皮のブーツ(これは普通にブーツというらしい)、それから新品のパンツと靴下が私にあてがわれた。
鏡で自分の姿を確認すると、そこに映ったのは紛れもなくナイスミドルなおじさん、すなわち私であった。今や髪はフサフサ、肌はつやつや、腰も真っ直ぐ。……いけいけ、じゃないか?
「似合っているじゃないですか。モデルとまではいきませんが、知的なおじさん、くらいには見えますよ」
ふふ、黄色天使、君もそう思うか。
「しかし何だ、昨日も街の人々の服装を見たが、この200年で随分変わったもんだな。特に女性の服装が、私が生きていた頃とは比べものにならんほど解放的になっている」
私が生きていた時代、女性たちは腰にコルセットを巻いて、お世辞にも動きやすいとは言えないドレスなどを着ていたのだ。
「そうですね。僕はファッションの歴史については詳しくはないのですが、だいたい20世紀の初めころ、フランス人のココ・シャネルという女性がシンプルなファッションを流行させたことが大きいそうですよ」
聞けば、贅を凝らした上流階層の服飾文化がシンプルかつスポーテイに作り替えられ、一般層にまで広まったらしい。シンプルなのは、私も好きである。
「考え方の変革(Revolution der Denkart)が、近代の自然哲学だけでなくファッションでも起こったということか。ふむ、なかなか興味深いではないか」
さて、準備もできたことだし、今や私の身体はパイプを欲している。
「よし、街へ繰り出すぞ、黄色天使」
「はいはい……」
「朝食よりニコチンだろう常識的に考えて」
「服も現代風に着替えて、レッツゴーだ」
こんな話でした。
Das sind die Rituale genialer Menschen
https://www.fr.de/ratgeber/karriere/sind-rituale-genialer-menschen-11253875.html
2019.7.6
ポール・モラン(2007)『シャネル 人生を語る』山田登世子訳、中公文庫