ep.17 ストローハット
奈央はもしかしたら、夕飯の場に顔を出さないかもしれないと思っていたが、俺が居間に下りると、その団欒の中には奈央がいた。
奈央は少し目を腫らしているように見えたが、家族の中でいつも通りにご飯を食べていた。
ただ、テレビを見ながら力なく笑っている奈央の姿が、俺の胸をざわつかせた。
自分でもよく分からないが、”つとめて”いつも通りにしている奈央を見て、少しだけ辛くなった。
夕飯を食べた後、部屋で窓を開けて扇風機を回して勉強をしていた。
すると、外から「ドドドン!」という音が聞こえて、麓の方角で花火が打ち上がるのが見えた。
こんなによく見えるんだな、と感激して、すぐに一階へと駆け下りた。
「花火、始まりましたね!」
「そうね、よく見えるでしょ」
台所にいたおばさんに、思わず話しかけてしまう。
縁側では、おじさんとおじいちゃんがガラスの灰皿を置いて、二人でビールを飲んでいた。
テレビの前で、奈央が浮かない様子でスマホをいじっていた。
「そういえば、今朝ぶどうが取れたんだけど食べてよ」
そう言っておばさんは居間のテーブルにぶどうを3房ほど出してきた。
「これって、もしかして隣の畑のやつですか?」
俺が興奮して聞くと、おばさんは「そう。#NULL!君が奈央と一緒に水あげてくれたやつ」と言って笑っていた。
目の前に出てきた瑞々しいぶどうを見て、なんだか嬉しくなった。
横にいた奈央に「な、これなんてぶどうなの?」と聞くと、「巨峰だよ。一番美味しいやつー」と力のない返事をされた。
「これって、俺らが水あげたやつだよな? それが食べれるって凄くね!」
俺が興奮してそう言うと、奈央は笑っていた。
「何言ってんの、大げさだなぁ」
でも俺は確かに、奈央と二人で水をあげた日の事を思い出していた。
あの時、奈央は無邪気爛漫に笑っていた。
すごく楽しそうだったと思う。
ここに来てから、本当に色んな奈央の表情を見てきた。
大口を開けて楽しそうに笑う姿や、いたずらっぽくにやにや笑う顔、
バレーに対する真剣な眼差しや、落ち込んで影を落とした表情、
そして土砂降りの中で見せた泣きっ面に、満面の笑顔……。
その全てが俺の心に強く残っていて、その全てが奈央だった。
そして、その沢山の表情に、俺は動かされ、変わってきていた。
でも今の奈央の表情は…いつもと変わらない様子を見せている奈央の表情は…
俺の心に残したくないな、と感じた。
そんな瞬間、奈央の口からぽろっと言葉がこぼれ落ちた。
「花火……行きたかったな」
その言葉を聞いて、心臓が大きな音を立てたのが分かった。
色々と考えてしまう前に、すぐに口から気持ちを吐き出す。
「じゃあ、行こうよ」
「は? 何いってんの?」
奈央が、右手にぶどうの実を持ったままこちらを見た。
「行きたいんだろ。まだ全然間に合うじゃん」
こちらを覗き込む奈央の瞳をじっと見て、俺は言い放つ。
「一緒に行こう」
奈央は俺から視線を外して下を向いた。
「で、でも……#NULL!だって勉強があるし、もうこれ以上色々迷惑かけれないよ」
「そうじゃないんだ!」
俺は強い口調で言い切った。
「俺が行きたいんだよ。誰でもない、俺が。俺が奈央と一緒に行きたい。だからさ、一緒に行こうよ」
「う、うう……?」
奈央は返答に困ったららしく、目をきょろきょろと泳がせた。
「行こうぜ。自転車で下ればすぐだろ。な、奈央?」
奈央は少し「んー……」と首を傾げて考えてから答えた。
「いい、よ……」
俺はそれを聞いた瞬間、ぱっと心が晴れて「おっしゃ!」と口走ってしまった。
「いいけどさぁ……ちょっと待ってね」
「どうしたん?」
「準備するから、待ってて。分かるでしょ」
そう言われたものの俺は落ち着かず、一人で外の玄関先に座って、遠くに打ち上がる花火を眺めていた。
ドン……パラパラ……という音が光から数秒遅れて聞こえてくる。
遠くで小さく瞬くだけの花火は、見ていて物悲しく感じた。
リリリリ……という虫の声と、縁側で話すおじさんたちの笑い声も聞こえた。
蒸し暑くて、Tシャツ1枚とステテコという軽装だったのに汗が滲んだ。
俺はぼんやりと、考え事をしていた。
これから奈央はどんな格好で出てくるんだろうなぁとか。
奈央と二人で花火を見るのはちょっと照れ臭いなぁとか。
これから、俺はどうしていこうか……とか。
頭の中がこんがらがって、これから麓の花火大会に行く、それも奈央と二人きりで……というのが信じられなかった。
しばらくすると、玄関の戸が開いて奈央が出てきた。
「おまたせ……」
そこには、気恥ずかしそうに立つ奈央がいた。
その姿を見て「おおっ」と声が漏れた。
奈央はシンプルなカットソーとスカートで出てきて、長い髪に帽子を被っていた。
普段は部活着か制服、部屋着しか見たことがなかったので、私服を着ている奈央は少しだけ垢抜けていて、新鮮だった。
「なんだ、その帽子は」
「ハットだよ、ストローハット。バカ」
「それを被ってくのか?」
「もう、あんま茶化すなら行かないよ」
そう言って奈央がむくれてしまったので、俺も「嘘だよ、似合ってる」と気恥ずかしい事を言ってしまった。自業自得だ。
「そんなにオシャレして行く必要あるか?」
「だって学校の誰かに会うかもしれないし。変な格好してるの見られたくないでしょ」
俺は確かにな……と思いつつ一つ引っかかった。
「え、でもさ。俺と一緒にいるとこ見られていいの?」
「大丈夫でしょ別に。それに#NULL!は学校の人じゃないし、東京に戻っちゃうんだから」
「ああ、そうか……」
俺はそれを聞いて思い出してしまった。
最近は過去を振り返って落ち込む事もほとんどなくなっていた。
その全てが今の暮らしが充実していて、楽しかったからだ。
でも、俺は夏が終わったら東京に戻らないといけない。
ここでこうしていられるのも、あと少しだけだった。
こんなまったく知らなかった田舎の世界で、のびのびと笑って、ぶどうなんか食べて、奈央と一緒に過ごせるのも、奈央とバレーができるのも……。
あと少しだった。
この夏が終わったら、俺はどうなるんだろう?
俺にはまだそれが分からなかった。
自転車を出そうとすると、おじさんに声をかけられた。
「お、どこに行くで?」
「ちょっと、花火を近くで見ようと思いまして」
そう言うとおじさんは酔っているのか。
「奈央が襲われないように守ってやってくれよ! あ、#NULL!君も何もすんなよ!」と声をあげて笑っていた。
隣にいたおじいちゃんは神妙な面持ちで「気をつけて行くだぞ」と言ってくれた。
俺はそれに「はい」と返事をし、奈央に「いくぞ」と声をかけた。