ep.16 土砂降り
学校を出て坂道を登る最中、色んな想いが頭の中を駆け巡った。
奈央が落ち込んだり、怒ったり、笑ったりしていたのは、恋をしていたからなのか。
奈央が朝一で部活に行った時は、いつも隣のコートに男子バスケがいた。
初めて部活に行ったあの日、俺と別々で体育館に入ったのも——。
好きな男子に、俺と一緒に入るところを見られたくなかったから?
そう考えると、全ての辻褄が合ってくるような気がした。
俺と出会ってから、奈央は沢山の表情を見せてくれた。
でも何故だか、その全てが壊れてしまうような不安を覚えた。
奈央はバレーが大好きな女の子。
俺に、もう一度前を向くきっかけをくれた人。
何がどうなろうと、俺にとってはそれが全てだったのだ。
それが全てで、他のことはどうでもいい。
だから俺は、無我夢中で坂道に向かってペダルを踏み込んだ。
きっと奈央は——ボールを持って待っているに違いない。
あの芝生の庭で……。
家に着く頃には息が上がってしまって、俺は朦朧としていた。
山の方から聞こえてくる蝉の声が、頭の中で反響する。
水道と花壇の間に自転車を立てかけて玄関に走ると、
そこには奈央がボールを抱えて座りこんでいた。
俺は「いた…」と言って膝に手をついて息を整えた。
奈央は驚いた様子で俺を見上げた。
「そんなに急いで来たの……?」
「だって、対人したいんでしょ? やろうぜ」
俺はぜえぜえと息を上げたまま答えたが、自分でも質問の答えにはなってないなと思った。
俺は奈央の肩を叩いて「来いよ!」と庭へと誘った。
奈央も「うん……」と申し訳無さそうに立ち上がった。
奈央が打たずにボールを抱えたまま立ち尽くしていたので、俺は「来い! 思いっきり打ってこいよ!」と声をかけた。
奈央はそのまま、黙ってボールを打ち込んできた。
そしてそのまま、会話を交わすこともなく黙々と対人を続けた。
レシーブする。トスを上げる。打つ。レシーブをする。トスを上げる。打つ……。
そんなことを何周繰り返した頃だろうか。
ぽつぽつと、雨が降ってきた。
小雨というわけではなく、すぐに勢いのある雨となった。
ただ奈央は、雨が降ってきても対人をやめる素振りは見せなかった。
なので俺も濡れることを気にせず、それに付き合った。
サアア——と雨の音が辺りを包み、蝉の声が消える。
「あは、やったぁ。これだけ雨が降ったら今日の花火は中止かもね」
不意に奈央がしゃべり始めて、雨の中で力のない笑顔を浮かべた。
「まあ、そうかもね。花火、行く予定はなかったの?」
俺がそう質問しても奈央は答えず、再び黙って対人を始めた。
奈央は、俺とラリーを続けながら話し始めた。
「ねえ。#NULL!は花火大会とか行ったことあるの?」
「そりゃあ、あるさ」
「女の子と一緒に?」
「それは言いたくないな」
言いたくないというよりも、女の子と一緒に行ったことはなかった。
だが、そんな事を真正直に言うのも気が引けた。
「聞いてよ。私ね、ふられちゃったの」
突然核心に触れる言葉が飛び出し、俺は動揺を隠せなかった。
なぜ急に、そんなことを言い出すのか。
「そっか……まあ、そういうこともあるよ」
「何それ。もっと気の利いたこと言えないの?」
俺は何て言えばいいのか分からなかった。
ただでさえ雨の中で対人をしていて、頭が回らなかったのだ。
奈央を助けてやりたい。でもどうすれば?
この目の前にいる子の顔を——どうにか晴れにできないか?
そして無意識に、想いが溢れ出た!
「じゃあ、打ってこいよ!」
雨に打たれながら、俺は声を張り上げた。
「気が済むまで! 思いっきり打ってこい! 俺が全部、受け止めるからよ!」
叩きつける雨の中で、奈央はこちらを見て立ち尽くしていた。
その姿は、何かに怯えているように見えた。
俺はそれを見て胸が張り裂けそうになった。
「大丈夫だ。俺は絶対ここにいる。全部、受け止める!」
奈央は黙ってボールを掲げた。そして俺の方に向かって思い切り打ち込んだ。
俺はそのまま奈央が打てるように、高々とレシーブを上げた。
天高くボールが舞い上がり、再び、そのまま奈央が腕を振り下ろす。
何度も何度も、奈央の渾身のボールを受け止める。
打ち続けるうちに、奈央は鼻をすすり始めた。
そして、打ったかと思うと、ボールを真下に叩きつけた。
奈央はそのまま「うああああっ」と声を上げて泣き始めた。
叩きつける雨音の中に、奈央の泣く声が入り混じった。
目の前で、雨に打たれて嗚咽している奈央。
手の甲で何度も何度も顔を拭った。
俺はそれを、唇を噛んで見ていることしかできなかった。
奈央は泣き続けた。
泣いても泣いてもおさまらないようで、ずっと声を上げて泣いていた。
しばらくして、不意にボールを拾い上げたかと思うと、そのまま俺に向かって打ち込んできた。
俺は突然のことで反応できず、ボールを弾いてしまった。
「やった。私の勝ち、だ」
降りしきる雨の中で、奈央は俺に向かって満面の笑顔を見せた。
服も髪も、びしょ濡れになってぐしゃぐしゃの奈央。
けど、その笑顔は俺が今まで出会ってきた中で、飛びきり一番の笑顔だった。
「奈央」
俺は思わず、奈央の名を呼んだ。
「へへ、なんかスッキリした」
奈央は両手で目元をこすり、俺の方を向き直った。
「まだまだ、悲しいけどね」
「そりゃ、そんなすぐには全部忘れられないよ」
「あれ、まるでそういうことがあったっていう口ぶり」
俺はそう言われて「ないよ」と笑った。
奈央の元へと駆け寄り、「風邪ひくから中に入ってすぐ着替えな」と言った。
奈央は俺の顔を真っ直ぐに見上げた。
「ありがとね。こんな事に付き合ってくれてさ」
そう言う奈央の目は真っ赤に充血して、涙が溜まっていた。
「そんな事、気にするなよ。俺はただの居候だ」
俺がそう言うと、奈央は笑って「そんなことないよ」とつぶやいた。
その言葉が——するりと——俺の心を解きほぐしたことを、奈央は知っていただろうか。
失恋した奈央を励ますつもりが、本当に救われたのは、もしかして。
「なんかめっちゃ鼻水出ちゃった」
「きたねえな、顔も洗っとけ!」
へらへらと笑う奈央の表情には、少しだけ元気が戻ってきたようだっだ。
俺はそんな様子を見て、心の底から安心した。
この日この時——俺の前で見せた奈央の表情はずっと忘れることができない。
ただ、この出来事があったから、俺の新しい夢への想いは確信へと変わりつつあった。
もう、昔を思い出して嘆いているだけの俺はいなかった。
前を向こう、これからの未来を考えよう、そんな想いがふつふつと湧いてきていた。
夕方になると分厚く空を覆っていた雲は立ち消え、気持ちの良い夕空が広がっていた。
東の空は暗闇に溶け込み、西の空は橙色の波が寄せていた。
これなら花火大会も予定通り行われるだろう。
きっと——この町で見る花火は綺麗なんだろうな、なんて思いながら。