ep.15 ほころび
俺は、次の日も奈央の部活に行った。
もう顧問の先生の姿はなく、俺と三年生が中心になって練習を進めた。
体育館の半面はバスケ部の男子が使っていたので、バスケ部の先生が時折様子を見に来てくれた。
その日の練習も好調で、みんなが俺のアドバイス一つ一つをひたむきに受け止めてくれるのが、とても嬉しかった。
一人の二年生の子に冗談まじりではあるが「#NULL!さんが来てくれてホント助かった!」と言われてしまい、すごく照れくさかった。
千景、という女の子だった。
ショートカットで淡褐色肌の、とても元気の良い子だった。
奈央以外で、この子が一番俺に懐いてくれていたように思う。
この部活の中にも、段々と溶け込めてきたのかもしれないと実感できた。
このまま夏季大会まで、何もかもが上手くいって、奈央の部活動が大団円を迎えたらいいなと思っていた矢先。
大会まであと数日という時に、思わぬ出来事が起こった。
その日も俺は、午前中から奈央の部活に行った。
みんなも俺も、すっかり慣れてきていて、いつも通りに部活が始まった。
そして、問題なく練習が進んでいた。
しかしその中で、朝から奈央の様子だけがちょっと変だった。
もちろん一番最初に部活に来て——奈央はいつもそうだった——いつも通り精一杯声を上げて頑張っていた。
でも、心なしかいつもより笑顔が少ない気がした。
当然それを感じ取っていたのは俺だけではなく、何となく部活全体に、不安な雰囲気が漂っている気がした。
奈央に笑顔が少ないと、自然とチーム全体の笑顔も減っていく。
奈央のモチベーションは、そのまま部活全体のモチベーションに直結していた。
今まで、この部の雰囲気を作っていたのは奈央の笑顔だったのかもしれない、と俺は感じた。
スパイク練習になると、それはより如実になった。
いつも調子よく決まる奈央のスパイクが、この日は全然決まらなかったのだ。
何度やっても、ネットに引っ掛けてしまう。
奈央自身それが納得できないようで、悔しそうな顔をしては下を向くだけだった。
失敗しても明るい、いつもの奈央ではなかった……。
それに呼応してか、他の子たちの調子も良くない方に向いていく気がした。
ここまでくると、流石に俺も心配になって、スパイク練習の列に並んでいる奈央に声をかけた。
「調子悪そうだけど、大丈夫?」
俺がそう言って励まそうとしても、奈央はただ「うん」と言うだけだった。
何かがおかしい。それはもう明らかなことだった。
休憩時間に他の部員に、「奈央は大丈夫?」と聞いてみたが、「今までにあんまりこういうことはなかったです」と動揺していた。
その間も奈央は、体育館の隅に座ってタオルを被り、俯いていた。
俺がそれを気にかけていると、例の二年生の千景ちゃんに声をかけられた。
「#NULL!さんは、花火見に行くんですか!」
「え、花火って?」
「今日、すぐそこで花火大会があるんですよ。知らないんですか?」
そういえば、おばさんからちらっと聞いていたような気がする。
あの家の庭からも花火が見える、ということを話していたような——。
「花火大会って、今日なんだね」
「そうですよ! 二年はみんなで行こうかって話してるんです」
そう言っていると、他の二年生の子たちも寄ってきて、
「なになに花火?」「でも今日雨降るらしいよー」と話が膨らんでいった。
俺には、千景ちゃんが一生懸命この場の雰囲気を和ませようとしているようにも見えた。
その後慣例であるレギュラーメンバーによる試合形式の練習になっても、奈央の様子が変わることは一向になかった。
それと比例して、チームの調子もどんどん下向いていくような気がした。
俺にはどうしたらいいか分かるはずもなく、ただ外野から励ますことしかできなかった。
楽しいはずのバレー。
こんな時、どうすればいいんだろう?
俺は、自分の経験を手繰り寄せて考えていた。
今のケガ以外で、バレーに手がつかなくなったことはあっただろうか?
いや、ない。ただの一度も——。
だから、どうしても奈央の気持ちが分からない。
何をしてあげたらいいのか、雲をつかむように、まるで分からなかった。
一生懸命の奈央。バレーが好きな奈央。
俺にもう一度バレーと向き合うきっかけをくれた奈央。
どうにかして、助けてやりたい。
だって、バレーは楽しいものだろう?
でも——今の俺には、奈央を救ってやれるだけの力も、経験もないんだ。
部活のコーチだなんて息巻いていたのに、こんな時助けてやれないんじゃ、何の意味もないんだ。
やっぱり、俺にバレーは……。
そんな事を考えてしまって、体育館のステージに腰掛けていると、千景ちゃんに声をかけられた。
「どうしたんですかっ」
「いや、あの。すこしだけ考え事をしてて」
気づけば、練習後のダウンも終わって、ほとんどの部員が帰り支度を始めていた。
当然、奈央ももう帰っていた。
「良かったら、居残り練習付き合ってくれませんか?」
笑顔の千景ちゃんは、俺にそう水を向けた。
「いいけど」
「ありがとうございます」
千景ちゃんはボールを持ってきて、俺の方に投げた。
「お願いします」と言ってにこにこ笑ったので、俺もなんだかほっとした。
「レシーブ練習がしたいので、テキトーに打ってきてください」
「オッケー。あ、でも……部室、閉まっちゃわない?」
「奈央先輩に言って、鍵を預かってるので大丈夫です」
「それならいいね」
俺は千景ちゃんに向かって、軽めにボールを打った。
彼女は二年生だけど上手くて、リベロとしてレギュラーになっている。
「奈央先輩から、よく#NULL!さんの話を聞いてました」
「え、どういうこと?」
唐突のことで、俺はちょっとびっくりした。
「私ね、奈央先輩と仲いいから、よくLINEするんです。#NULL!さんの事も、よく話題に上がるんです。なんか、とっても楽しそうで」
千景ちゃんはそう言ってくすっと笑った。
その言葉に、俺は胸がいっぱいになったような気がした。
「それは本当? 本当なら……良かった」
「何がですか?」
千景ちゃんの問いに、俺は少し言葉が詰まったけれど、頑張って続けた。
「だって、いきなり居候で知らない奴が家に来たら……嫌でしょう?」
千景ちゃんは「確かに!」と言って笑った。
「でも、奈央先輩なら大丈夫ですよ? すごく優しい人なんで、そういう事は考えないと思います。逆に……無理矢理部活に誘っちゃって迷惑じゃないかなぁって、すごく気にしてました」
それを聞いて、俺も思わす笑いがこぼれた。
お互いに、とりこし苦労をしていたということなんだろうか。
俺は先程まで抱えていた不安を、千景ちゃんに話してみようと思った。
なにか、この子になら話してもいいように思えた。
「奈央は、大丈夫かな。今日、絶対普通じゃなかったよね?」
「そうですね……かなり落ち込んでましたね」
「俺、何かできることないかな。何も分かんなくてさ……」
俺がそう言うと、千景ちゃんはきょとんとしてこちらを見つめた。
「どうしたの?」
「いえ、やっぱり#NULL!さんは良い人なんですね」
「やっぱりって?」
「こっちの話です」
千景ちゃんはそう言うといたずらっぽく笑みを浮かべた。
しばらく考えると意味が分かった気がして、なんだか気恥ずかしかった。
「奈央先輩、ふられちゃったんです。だから落ち込んでるんだと思います」
「へ?」
「これ、先輩には言わないでくださいね?」
「うん、もちろん。言わないよ」
千景ちゃんがあまりにも突然な事を言い出したので、俺も対応がしどろもどろになった。
「相手はバスケ部の二年生なんですけど……ずっと好きだったみたいで」
「え? 奈央の好きな人は——ニシ君じゃないの?」
すると、千景ちゃんは目を丸くして俺の方を見た。
「西って……野球部の西先輩ですか? どうして西先輩なんですか?」
そう訊かれてちょっと困ってしまったが、俺は言葉を振り絞った。
「野球の試合の時に、お守りを渡してるのを見て……」
「お守り? なんでそんな事知ってるんですか?」
千景ちゃんは転がったボールを拾いながら、再び俺の方を見た。
そうか、説明しないとな……と頭を掻きながら、話を続ける。
「試合の時、俺が車で送ったんだけどさ……その時にお守りを持ってたから、そういう事なのかなって思ってたんだ」
それを聞くと千景ちゃんは合点がいったように「あ〜!」と頷いた。
「そのお守り、女バレみんなで作ったやつですよ」
「え! そうだったの? でもなんで……?」
千景ちゃんは楽しいのか、にやにやしながら話を続けた。
「うちらが総体に出た時、偶然野球部の人たちが応援に来てくれたんです。そのお返しをしようってことで、みんなで作ったんですよ」
それを聞いて、体から力が抜けた。
あのお守りは、そういうことだったのか……。
勝手に決めつけて、一人で盛り上がっていた自分が何だか恥ずかしい。
そして千景ちゃんは、依然として笑みを浮かべたままだった。
「むしろ、西先輩が奈央先輩の事を好きだったんです」
「え、そうなの!」
「告白されて、断ったって言ってました」
千景ちゃんはそう言うと「あれは超驚いたなー」と笑っていた。
俺はそれを聞いて、呆然としていた。
「#NULL!さんは校外の人だし、心配してたから色々話しましたけど。この話、絶対奈央先輩には秘密ですよ?」
先ほどまでの弾むような笑顔ではなく——千景ちゃんの真剣な眼差しが俺を捉えていた。
俺はその念押しに、黙って頷いた。
千景ちゃんの話が全て本当なら、俺はとんでもないものを拾ってしまったのかもしれない。
ニシ君は、奈央が決して自分を見ていないことを知っていた。
それでもあのお守りを奈央から受け取って……どんな気持ちだったのだろう。
あの日、あそこに落ちていたお守りは……もしかしたら本当に。
ニシ君が捨てたのか?
俺の脳裏に、ヒットを一本も打てず、試合後泣き崩れていたニシ君の姿が蘇った。
正午過ぎの体育館。
全ての窓を開け放していたものの、真夏の暑さで汗が吹き出た。
それでもこの日は曇っていたから、暑さはマシな方だった。
しばらく黙って、レシーブ練習や対人を続けた。
「でも、失恋って……どうしてあげたらいいか分からないなぁ。辛そうだし、何かしてあげたいけど……」
「無理して考えなくてもいいと思います。#NULL!さんは知ってますか? 奈央先輩って、あんまり人に弱音を吐かないんです。今回のことは、私にもあんまり話してくれませんでした」
そう言うと、千景ちゃんは真面目な表情になって俺を見た。
「でも、きっと——#NULL!さんにはいつか頼る気がするんです。その時にちゃんとこたえてあげればいいと思います」
俺はその言葉に何度も頷いた。
何か言おうとしたけど相応しい言葉が思いつかなくて、ただ黙って頷いていた。
それからしばらくは沈黙が続いた——。
その静寂を掻き切ろうと、ボールを構えた瞬間だった。
俺のポケットに入っていたスマホが震えたのを感じた。
〈早く帰って来て〉
〈対人して欲しいから。〉
「……奈央からだ」
「え! 先輩からですか?」
「対人して欲しいから、早く帰って来てって……」
画面を見せると、千景ちゃんも俺も黙ってしまった。
でもすぐに千景ちゃんは俺の顔を見上げて、言った。
「こたえてあげてください」
その表情はどこか、少しだけ憂いを帯びていた。
俺は「ああ!」と勢いよく返事をすると、走って体育館を出た。
外はむわっとしていて、湿気を纏った熱気が漂っていた。
そろそろ一雨くる。そんな気がした。
駐輪場の端っこに止めてある自転車にまたがって、俺は前のめりになってペダルを踏み込んだ。
制服を来た男子生徒たちとすれ違う。校舎の脇を歩く野球部の一団と目が合った。
ブラバンの楽器の音が、ドップラーの如く通り過ぎていった。
校内を全速力で走り抜ける俺を、何人もの生徒が振り返った。
どうだっていい。今は、そんなことどうだっていいんだ。
俺はなりふり構わず、立ちこぎで自転車を思い切り走らせた。
遠くで落雷の音が響いた。
その音が、俺の焦燥感を煽った。
奈央が待ってる。あの庭で、奈央が待ってる。
その一心で——俺は走っていた。