表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の向こう側、ぶどう畑の夏  作者: 富澤南
第3話 もう一度
13/21

ep.13 陽の当たる坂道

 次の日、奈央は8時前には支度が終わったようで、やたらと俺を急かした。

 シューズを持っていないことを話すと、渋々自分の体育館履きを貸してくれた。

 俺は自前のコルセットを準備したり、タオルやTシャツを準備するのに手間取った。


 結局8時30分より前に家を飛び出すことになり、俺は寝ぼけた頭を覚ますのに必死だった。



「早く!」

 自転車に乗った奈央は、庭先の道で待ち構えていた。

 夏の朝の真っ白な光が、俺たち二人を包み込んだ。

 慣れるまで目を開けることができなかった。


 自転車に乗るなんて久しぶりのことで、なんだか不思議な気分だった。

「急ぐから、私のあと付いてきてね!」そう言う奈央の背中を追いかける。

 風を切って、緑の坂道をどんどん下っていく。

 前を行く奈央の後ろ姿が、みるみる小さくなっていく。

 いくつものぶどう畑が横目に通り過ぎていく。

 駅前の広い道に出ると、遠くに、麓の街が小さく見えた。

 太陽の光を浴びて、キラキラと光っていた。

 ここを訪れた時、一番最初に見た景色だ。


 やっぱり——きれいだな。



 しばらく下り坂で、風を思い切り浴びるので、暑さはそこまで感じなかった。


 夏の朝の陽射しが揺れる中、少し前を奈央が走っている。

「学校ちょっと遠いんだぁ」などと言って、時々こちらを振り返った。

 俺はずっと、長い髪の結ばれた奈央の後ろ姿を見ていたから、

 奈央が振り返るたびに目が合って、ちょっと困った。



 次第に何もなかった山道から、少々車通りの多い道が増えてきた。

 いくつかの坂を下って、抜けた先に大きな川があって、その河川敷の横には、ひまわり畑が広がっていた。

 そして、その向こうに奈央の高校があった。

 こりゃ帰り道は一段と大変そうだな、と思った。



 奈央のあとを追って校内に入ると、世界が一変した。

 不意に、空気と雰囲気が変わった気がしたのだ。


 驚いて振り返ると、校門からは来た道が続いていた。

 こんな事ってあるもんなのかと思ったが、遠くで「こっち!」と呼ぶ奈央の方を向き直って、俺は自転車のペダルを踏み直した。



 何もかもが懐かしく感じた。

 そんなに遠い昔のことでもないのに、高校ってこんな感じだったよなぁと、目に映るもの全てに親しみを覚えた。

 どこで吹いてるのかも分からない、遠くから聞こえる吹部の「プア〜」という音。

 朝練なのだろうか。熱心な生徒が練習前に来て吹いているのだろうか。


 野球部はすでにグラウンドで「おい!おい!」と掛け声を上げてランニングをしている。

 俺の目の前を、弓を抱えた弓道部の一団が通り過ぎて行く。これから試合にでも行くのだろうか。

 かと思えば、何やら大きな荷物を抱えて歩いている屈強な男子たちともすれ違った。ラグビー部か、レスリング部、と言ったところだろうか?



 奈央は一足先に駐輪場に自転車を止めていた。

「ここ、私の隣に置いちゃっていいから。テキトーに」

 そう言われて、奈央の横に自転車をつける。


「にしても、部活が盛んな学校なんだね」

 ここに来るまでに、一体どれだけの部活の子とすれ違っただろうか。


「まーね。一応伝統校だから、部活には相当力を入れてるみたい。文武両道、とか言って勉強にもうるさいけどね」

「へえ、立派な高校なんだね」

 俺がそう言うと奈央は、「そんな事ないよ? この辺の子たちが集まってくる普通の高校だよ」と言ってはにかんだ。



「私は部室に行って着替えてくるから。ちょっと、ここで待ってて」

 そう言われて、俺は自転車の脇で待っていた。


 他にも止めてある無数の自転車や、目の前にあった水道などを眺めて、やっぱりここは高校なんだなぁ、としみじみしてしまった。

 この中だけ、時間の流れ方が違う。

 毎年沢山の生徒が卒業して、入学して、人は次々入れ替わるけど、この場所だけは、永遠に終わらない青春の時間が流れ続けてるんだ、と思った。


 数分待っていると、奈央が駆け足で戻ってきて「いこ」と俺を誘った。



 体育館は駐輪場のすぐ近くにあった。

 中からはすでに「バシンバシン!」とボールの弾む音が響いていた。

 奈央はなぜか「少し待ってから入ってきて!」と言って、俺を置いてひとり中へ入った。


 時間差で体育館に入ると、バスケ部の男子がこちらを見て「ちわーーっす!」と仕切りに挨拶をしてくれた。

 体育館特有の匂い。キュキュッとシューズの擦れる音。

 高い天井から注ぐ無数の照明。



 その中に降り立って、俺は少し胸が詰まる想いがした。

 そして、久々にやるぞ、と勇んで体育館履きを履こうとしたら、サイズが合わずまったく足に入らなかった。


「奈央、靴が入らないんだけど」

「かかと踏んで履いちゃえばいいよ」

「それはあぶないよ」


 俺がそう言うと、奈央は「もう」とむくれて体育館の入り口を指さした。

「入口の下駄箱に、忘れ物のシューズがいくつかあるから、使いなよ」


 俺は古ぼけた下駄箱から、まともそうなシューズを見繕って、中に戻った。



 その間、奈央は体育館を二面に仕切るネット越しに、男バスの様子を夢中で眺めていた。

 あまりに熱心に眺めていたので、声をかけるのが憚られたが、時間だけが過ぎていくので、そうもいかなかった。


「準備、しないの」

 俺が声をかけると、奈央は不意を突かれたように「ああ、そうだ」とおかしな声を出した。


 倉庫のような所に向かい、奈央が一人でネットのポールを運んでくる。

 俺は「あぶないよ!」と注意してすぐに手伝った。

 奈央は「いつも一人でやってるから平気」と強がっていたが、足元はフラフラだった。


「本当にいつもやってるのかよ」と意地悪を言ったら、「いつもなら後輩とやってるんだよ」と怒られてしまった。



 体育館でネットを立てるなんて作業、もう何年ぶりのことだったろうか。

 ぎしぎしと軋むネットの音が何だか無性に心地よく感じた。


 そんな風にして、二人で準備を進めていると、他の部員たちも集まってきて準備を手伝い始めた。

 後から来た子たちは皆、俺の方を不思議そうな表情で眺めていた。

 俺も仕方なく、「こんにちは」と力なく会釈をするだけだった。


 奈央が後輩らしき子に、「あの人ですか?」と聞かれて困った笑顔を浮かべていた。

 俺のことを、いつ説明するつもりなのだろうか。



 そんな事を思っていると、入り口の方でバスケ部男子が「こんにちはー!」と次々に言い始めて、お腹の大きな一人の女性が入ってきた。歩きながら男子たちと談笑しているようにも見えた。


 それに気づくと、奈央はすぐさまその女性の元へと駆け寄っていった。

 恐らく、あれが女子バレー部の顧問の先生なのだろう。

 奈央はそのまま先生と数分話していた。



 他の子たちが各々ストレッチを始めたので、俺も端の方で軽くストレッチをしていた。

 すると、奈央が手招きして「来て」と俺を呼んだ。

 椅子に座った先生と、奈央を挟んで向かい合う格好になる。

 俺が「こんにちは」と挨拶をすると、先生は「女バレの顧問の野方です」と笑って挨拶してくれた。



「#NULL!君、だよね。奈央から聞いたけど、あなたがうちを見てくれるんだね」

「はい。どの程度力になれるかは分かりませんが……」


「ほんと、突然ごめんね。私がこんなんにならなきゃねぇ。今日も、旦那の車で送ってもらったんだけど——」

 先生はそう言うと、自分のお腹をさすって、穏やかに微笑んだ。


「明日から産休のつもりで、私がいない間は他の部の先生に見てもらおうと思ってたんだけどね。バレーの中身のことまではカバーできないからさ……」

「他の先生だと、厳しいですよね」

 先生と俺が会話をする間、奈央は一心に先生の方を見つめていた。



「見てもらえたら、すごく心強いけど。これから大会まで一週間くらい、本当に見てもらえる?」

 その言葉を聞いて、俺の中で色々なものがフラッシュバックした。



 途中で辞めてしまった部活。

 バレーをとったら何も残っていないと知ったあの日。

 春高決勝で輝いてたあのエース。

 出口の見えない勉強の毎日。

 過去の幻影に囚われて何もしたいことが無かった毎日。



 そんな俺が、どういうわけか今、再び体育館の中に立って、「部活」をしようとしている。


 蒸し暑いこの体育館の中に——シューズの擦れる音が響くこの体育館の中に——俺が、いた。



 俺は先生の質問に迷うことなく、

「はい、全力でやりますよ」

 と答えていた。



 そう言うと、先生は笑って「ありがとう。他の先生にも、それとなく話しておくから」と言ってくれた。


 俺は、再び与えられたこの時間で、一体何ができるんだろうか。

 そんな事を思った——。



 話が終わると、奈央が勢い良く「集合!」と叫んで、部員たちが集まってきた。

 そして、先生が産休に入ること、俺が臨時のコーチ役を務めることが伝えられた。


 先生の産休は大会の前のこのタイミングになってしまったとは言え、部員たちにも大方予想がついていた事のようで、みんな「先生お大事に!」とか「頑張ってね!」と言っていた。


 野方先生が、「#NULL!君に挨拶して」と言うと、部員全員が「よろしくお願いします!」と一斉にお辞儀をし、照れくさくて仕方がなかった。

 本当にコーチになってしまったんだ、という実感が沸々と湧いた。



 もう、後戻りはできない。もちろん、するつもりもない。

 俺の、遅すぎる本当の夏が始まったんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ