ep.12 夏の夜
その日の夕飯のあと、台所で皿洗いをしていると奈央に声をかけられた。
「明日臨時コーチに来てもらうって、みんなに言っといたから」
「みんなに? どういうこと?」
俺がそう訊ねると奈央はぽかんとして、スマホを指差した。
「LINEだよ。部活のグループ」
「ああ、そういうことか」
「みんな結構期待してるよ。良かったね」
「え、マジ。なんか緊張すんだけど」
そう言うと奈央は「なんでよ」と言って笑った。
「今日みたいな感じで教えてくれたらいいよ」
奈央の声色はとても穏やかだった。
「ん。分かったよ」
「あとで、#NULL!のLINEも教えてね」
「ああ、いいよ」
俺が頷いて答えると、奈央は「手伝うよ」と言いながら腕まくりをした。
「いや、いいよ。皿洗いは、居候の俺の仕事」
そう断ったものの、俺が皿洗いをしている間、奈央は俺の横に立っていた。
その時、奈央がどんな表情をしていたのか、俺は見ていなかった。
居間から蚊取り線香の匂いがした。
おばあちゃんとおじいちゃんがテレビを見て笑う声がした。
おじさんは相変わらず、縁側で一服つけているようだった。
夏の夜の、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。
その中で、皿を洗う水音が響いていた。
それらすべてが、生活だった。
東京を遠く離れたこのぶどう畑の町にも——確かに人の営みがあって、温かさがあって、その中に俺も奈央もいた。
「明日、早いからね。寝坊はダメだよ」
隣にいた奈央に、ぽんと肩を叩かれた。
「分かった。奈央も寝坊すんなよ」
「うっさい」
皿洗いが終わった後、俺は真っ暗になった庭に出た。
使っていない自転車があるらしく、明日使うために出してこようと思った。
家の居間からの灯りと、まばらな街灯の灯りだけが頼りだった。
ぶどう畑の脇の、物置のような所から自転車を引っ張り出してきて、玄関の横に止めると、縁側で一服していたおじさんに声をかけられた。
「自転車なんか出して、どうするで?」
「あ、いえ。ちょっと明日使わせてもらおうかと」
「明日どっか行くの?」
そう言われて少し戸惑ったが、すぐに「部活です」と自信たっぷりに答えた。
おじさんは「はは!」と高笑いし、「#NULL!君は高校生だったっけ」と笑っていた。
「ちょっとここ座れし」
そう言われて、俺はおじさんの横に座った。
「奈央の部活でも、見に行くのけ」
「そうです。ちょっと頼まれたので」
おじさんは、ふうっと煙を吐いて続けた。
「そんなこんやってないで、勉強しなくていいだか?」
俺は突然の言葉にドキッとし、一気に体温が上がる気がした。
「いや、もちろん勉強も……」
「勉強に集中するためにこっちに来たって聞いたけど。なんで部活に行くなんて話になってるだ?」
「……すいません」
この前とは打って変わったおじさんの迫力に、俺は固まってしまった。
まさか怒られるとは思っておらず、握りしめた拳に嫌な汗をかいた。
「……なんて、いつもこんな事言われてた?」
「はい?」
先ほどまでのプレッシャーが嘘のように、おじさんが柔らかに破顔したのを見て、俺は少し動揺した。
「#NULL!君、本当は勉強好きじゃないら?」
その質問に、俺は何と答えるべきか逡巡した。
応答できずに口ごもっていると、おじさんは会話を続けた。
「というか、他にやりたいことがあるらに」
隣に座るおじさんが、またひとつ煙を吐くと、暗闇の中に白いうねりが消えていった。
「聞いたよ、畑も手伝ってくれたらしいじゃん。庭でよく奈央とバレーもしてるんだってね」
夜空に輝く無数の星へ語りかけるかのように、おじさんの声は優しいものだった。
星々は返事をしなかったが、相槌を打つように瞬いているような気がした。
「俺は、それでいいと思うだよ。勉強ばっかりやってたら、人間頭がおかしくなっちまうらに。聞かせてくれん? #NULL!くんの、本当の想いをさ」
リーンという虫の声に揺られて、おじさんの横顔が暗闇にぽっかりと浮かび上がっていた。
「明日の部活なんですけど」
俺はそう前置いて、大きく深呼吸をしたあとで、話し始めた。
「俺、ここ何年かずっと、やりたいことが何もなかったんです。したくもない勉強を毎日毎日ずーっとやって、そんな風に過ごしてきたんです。でも、今、本当にやりたいと思えることが、目の前にできたんです。もう、何年もなかったのにですよ。だから明日、俺は奈央さんの部活に行くんです」
俺は無我夢中で、今自分の心にあることを吐き出した。
まるで小さい子供のように、心に燃える想いを躊躇なく曝け出した。
「#NULL!君、どうしたで」
「はい?」
「なんか今、すごい楽しそうじゃんけ」
俺はおじさんのその言葉を聞いて驚いた。
「そう、ですか?」
おじさんはフフとにこやかに頷いた。
「なんか、いい顔してたけんどなァ」
自分でも気づいていなかった。
俺はそんな風に見えていたのか。そんな風になっていたのか……?
「まあ、好きにしたらいい。早起きして部活に行くのも一興だ」
おじさんはそう言うと、笑みを浮かべて煙草をくわえた。
俺も、「そうかもですね」と笑って相槌を打った。
俺は、変わり始めていたのかもしれない。
全てに自暴自棄になって、過去の記憶の亡霊に取り憑かれて、流れ着いたこの場所で——。
俺は何か大事なものを取り戻し始めたのかもしれない。
その日、初めて奈央からLINEが来た。
〈明日は8:30には家出るからね〉
とだけ書かれた、簡素なものだった。
これに対して、気合を入れて返事を返すのも気恥ずかしい。
〈りょーかい〉
とだけ打ち込んで、返事とした。
同じ家にいるのに、LINEをするのは妙な感覚だった。
自分の部屋にいるのも、少しだけソワソワする気がした。
灯りは豆電球——この地域では五燭というらしい、奈央が言っていた——だけにして、しばらくスマホを眺めた。
窓の外からは相変わらず虫の声が聞こえていた。
なんだか不思議な夜だった。
初めて来たはずなのに、ずっと昔からここにいたような、悠揚とした気持ちになった。
夏。ぶどう畑の夏。
いいところなんだなここは。
明日、遅刻しないようにしないとな。