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夢の向こう側、ぶどう畑の夏  作者: 富澤南
第3話 もう一度
12/21

ep.12 夏の夜

 その日の夕飯のあと、台所で皿洗いをしていると奈央に声をかけられた。

「明日臨時コーチに来てもらうって、みんなに言っといたから」

「みんなに? どういうこと?」

 俺がそう訊ねると奈央はぽかんとして、スマホを指差した。


「LINEだよ。部活のグループ」

「ああ、そういうことか」

「みんな結構期待してるよ。良かったね」

「え、マジ。なんか緊張すんだけど」

 そう言うと奈央は「なんでよ」と言って笑った。


「今日みたいな感じで教えてくれたらいいよ」

 奈央の声色はとても穏やかだった。


「ん。分かったよ」

「あとで、#NULL!のLINEも教えてね」

「ああ、いいよ」


 俺が頷いて答えると、奈央は「手伝うよ」と言いながら腕まくりをした。


「いや、いいよ。皿洗いは、居候の俺の仕事」

 そう断ったものの、俺が皿洗いをしている間、奈央は俺の横に立っていた。

 その時、奈央がどんな表情をしていたのか、俺は見ていなかった。



 居間から蚊取り線香の匂いがした。

 おばあちゃんとおじいちゃんがテレビを見て笑う声がした。

 おじさんは相変わらず、縁側で一服つけているようだった。

 夏の夜の、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。

 その中で、皿を洗う水音が響いていた。


 それらすべてが、生活だった。

 東京を遠く離れたこのぶどう畑の町にも——確かに人の営みがあって、温かさがあって、その中に俺も奈央もいた。



「明日、早いからね。寝坊はダメだよ」

 隣にいた奈央に、ぽんと肩を叩かれた。


「分かった。奈央も寝坊すんなよ」

「うっさい」



 皿洗いが終わった後、俺は真っ暗になった庭に出た。

 使っていない自転車があるらしく、明日使うために出してこようと思った。

 家の居間からの灯りと、まばらな街灯の灯りだけが頼りだった。


 ぶどう畑の脇の、物置のような所から自転車を引っ張り出してきて、玄関の横に止めると、縁側で一服していたおじさんに声をかけられた。


「自転車なんか出して、どうするで?」

「あ、いえ。ちょっと明日使わせてもらおうかと」

「明日どっか行くの?」

 そう言われて少し戸惑ったが、すぐに「部活です」と自信たっぷりに答えた。



 おじさんは「はは!」と高笑いし、「#NULL!君は高校生だったっけ」と笑っていた。

「ちょっとここ座れし」

 そう言われて、俺はおじさんの横に座った。



「奈央の部活でも、見に行くのけ」

「そうです。ちょっと頼まれたので」


 おじさんは、ふうっと煙を吐いて続けた。

「そんなこんやってないで、勉強しなくていいだか?」

 俺は突然の言葉にドキッとし、一気に体温が上がる気がした。



「いや、もちろん勉強も……」

「勉強に集中するためにこっちに来たって聞いたけど。なんで部活に行くなんて話になってるだ?」

「……すいません」


 この前とは打って変わったおじさんの迫力に、俺は固まってしまった。

 まさか怒られるとは思っておらず、握りしめた拳に嫌な汗をかいた。



「……なんて、いつもこんな事言われてた?」

「はい?」

 先ほどまでのプレッシャーが嘘のように、おじさんが柔らかに破顔したのを見て、俺は少し動揺した。


「#NULL!君、本当は勉強好きじゃないら?」

 その質問に、俺は何と答えるべきか逡巡した。

 応答できずに口ごもっていると、おじさんは会話を続けた。


「というか、他にやりたいことがあるらに」

 隣に座るおじさんが、またひとつ煙を吐くと、暗闇の中に白いうねりが消えていった。



「聞いたよ、畑も手伝ってくれたらしいじゃん。庭でよく奈央とバレーもしてるんだってね」

 夜空に輝く無数の星へ語りかけるかのように、おじさんの声は優しいものだった。

 星々は返事をしなかったが、相槌を打つように瞬いているような気がした。



「俺は、それでいいと思うだよ。勉強ばっかりやってたら、人間頭がおかしくなっちまうらに。聞かせてくれん? #NULL!くんの、本当の想いをさ」

 リーンという虫の声に揺られて、おじさんの横顔が暗闇にぽっかりと浮かび上がっていた。



「明日の部活なんですけど」

 俺はそう前置いて、大きく深呼吸をしたあとで、話し始めた。


「俺、ここ何年かずっと、やりたいことが何もなかったんです。したくもない勉強を毎日毎日ずーっとやって、そんな風に過ごしてきたんです。でも、今、本当にやりたいと思えることが、目の前にできたんです。もう、何年もなかったのにですよ。だから明日、俺は奈央さんの部活に行くんです」


 俺は無我夢中で、今自分の心にあることを吐き出した。

 まるで小さい子供のように、心に燃える想いを躊躇なく曝け出した。



「#NULL!君、どうしたで」

「はい?」

「なんか今、すごい楽しそうじゃんけ」

 俺はおじさんのその言葉を聞いて驚いた。


「そう、ですか?」


 おじさんはフフとにこやかに頷いた。

「なんか、いい顔してたけんどなァ」



 自分でも気づいていなかった。

 俺はそんな風に見えていたのか。そんな風になっていたのか……?



「まあ、好きにしたらいい。早起きして部活に行くのも一興だ」

 おじさんはそう言うと、笑みを浮かべて煙草をくわえた。

 俺も、「そうかもですね」と笑って相槌を打った。



 俺は、変わり始めていたのかもしれない。

 全てに自暴自棄になって、過去の記憶の亡霊に取り憑かれて、流れ着いたこの場所で——。

 俺は何か大事なものを取り戻し始めたのかもしれない。



 その日、初めて奈央からLINEが来た。


 〈明日は8:30には家出るからね〉


 とだけ書かれた、簡素なものだった。

 これに対して、気合を入れて返事を返すのも気恥ずかしい。


 〈りょーかい〉


 とだけ打ち込んで、返事とした。



 同じ家にいるのに、LINEをするのは妙な感覚だった。

 自分の部屋にいるのも、少しだけソワソワする気がした。


 灯りは豆電球——この地域では五燭というらしい、奈央が言っていた——だけにして、しばらくスマホを眺めた。

 窓の外からは相変わらず虫の声が聞こえていた。


 なんだか不思議な夜だった。

 初めて来たはずなのに、ずっと昔からここにいたような、悠揚とした気持ちになった。


 夏。ぶどう畑の夏。

 いいところなんだなここは。

 明日、遅刻しないようにしないとな。

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