ep.11 夢への扉
奈央との対人を終えた後、昼飯を食べて、午後からは自分の部屋で勉強をしていた。
すると、「ピンポーン」というインターホンの音が鳴った。
奈央が下に降りる様子もなく、おばあちゃんもいないようだったので、「いいのかな?」と思いつつも俺が玄関の戸を開けた。
そこには、短髪の見知らぬ少年が立っていた。
この前、野球観戦の時に見た制服だったから、恐らく奈央の高校の生徒だ。
「あ、え? こんにちは……」
彼は、いかにも「予想外の奴が出てきた」という表情で俺を見た。
「こんにちは」
「奈央さん、います?」
「あ、はい。ちょっと待ってね」
俺はそのまま二階に上がっていき、奈央の部屋をノックした。
「なんか、男の子来てるけど」
すると、中から「えー? どうせタクミだろ」と声がした。
奈央はバタバタと玄関へ降りていき、「やっぱり。何の用ー?」と親しげに話し始めた。
俺はその様子を、階段の途中からうかがっていた。
「いや、墨汁忘れたんで取りに来た。教室の入り口閉まってっから、こっちから入れてくれ」
「またそれ。ちゃんと持って帰れし」
「しょうがないだろ。先生はいねえの?」
「おばあちゃんなら出かけてるよ」
どうやら彼は、ここの書道教室に通っている高校生のようだ。
家の中に他に誰もいないからか、嫌なほど会話が聞こえてくる。
奈央との様子を見ている限り、かなり旧知の仲なのだろう。
「ってかあの人誰? 兄ちゃんなんていないよな?」
「親戚……って感じかな。浪人生で、うちに勉強しに来てる」
「ふーん。めっちゃ背でかいからビビったわ」
俺の話題が展開され、少し緊張して嫌な汗が出そうになった。
「そういやさ。野方先生来てたぞ、学校に」
「え、先生が? 今日うちら部活ないのに」
「職員室で偶然見かけてよ。産休決めたって言ってたぞ」
「えっ! それ、マジ?」
奈央が急に大声を上げたので、俺の心臓がばくん、と飛び上がった。
「まだうちら何も聞いてないんだけど……」
「あーそうだな。次の部活の時に、言ってくれるんじゃないか。あのお腹なら無理もないだろ。今までよくやってたわ」
「うん。ほんと、そうだよね……」
奈央の声は消え入りそうなほど弱々しかった。
それに構わず、男子は奈央に言葉をかける。
「女バレ、大会あるとか言ってなかったか?」
「あるよ」
「大丈夫か? 先生いなくて」
「わかんない……」
奈央がそう言ってから、しばらく会話が途切れた。
教室の方から、ドタドタという足音が聞こえた。
しばらくすると玄関の方から「じゃあな」と言って男子が出て行った。
階段の踊り場でしばらく立ち尽くしていたが、奈央が戻ってこないので、俺は書道教室の方を見に行った。
そこには、教室の中でぼーっと立ち尽くしている奈央がいた。
「どうしたの。ここ、暑くない?」
教室の中は冷房もついておらず締め切られていて、ひどく暑かった。
入り口横の小さな窓から西日が差し込んでいた。
「どうしよう」
奈央は、困ったような表情で俺を見た。
「野方先生って、部活の顧問なの?」
「聞いてたの?」
「聞こえちゃった」
俺がそう言うと、奈央は俯いて黙ってしまった。
教室の中があまりに暑かったので、俺は西日の漏れる小さな窓を開けた。
「そこ開けると、虫が入ってくるよ」
「だって、暑いから」
奈央の忠告を無視して窓を開けると、網戸が壊れて破れていた。
でも、外の風が入ってきて、幾分かはマシになった。
「で、どうしたんだよ」
吹き抜ける風を感じながら、俺は奈央に訊ねてみた。
「顧問の先生が、産休するんだって」
「うん、聞いてた」
「大会……どうしよう」
奈央は下を向いたまま、顔を上げなかった。
「監督がいないっていうのは不安だけど、やるしかないだろ」
「うん」
「そんなに落ち込んでたって、仕方ないんだから」
「うん……」
俺は奈央にそう声をかけると、台所に行って麦茶を飲んで一息ついた。
部屋に戻ろうとすると、まだ教室の方に灯りが点いていた。
「いつまで、こんな暑いとこにいるんだよ」
「さあ」
「先生が休むのはショックだろうけどさ、自分達でやるしかないだろ?」
そう言葉をかけると——奈央は涙を浮かべて俺を睨んだ。
「そんなこと分かってるよ!」
その口調は荒々しいもので、俺にありったけの敵意を向けていることが分かった。
「私、キャプテンなんだよ? 上手くもないのに!」
感情的な言葉の数々が、奈央の口から吐き出されていく。
「先生がいなかったら、全部私がやらなきゃ! 練習も試合の指示も、全部!」
俺は、なんて声をかけるべきなのか、すぐには言葉が出なかった。
「最後の試合だから、全力でやって勝ちたかったのに……もう無理だよ……」
奈央はそう言って、また俯いてしまった。
「だって、それがキャプテンじゃないか。しっかりしろって」
落ち込む奈央を見て、咄嗟に出た言葉はこんな素っ気ないものだった。
そして奈央は、そんな俺を見透かすように言い放った——。
「#NULL!は上手いからいいよね! きっと私のことなんて分かんない! 失敗したり、思い通りにプレー出来ないことなんてないんでしょ!?」
奈央の言葉が、俺の胸に突き刺さった。
「それは——」
「背だって高くて、レフトでエースだったんでしょ?」
「奈央——」
「こんな不安な気持ち、なったことないからそんな気楽に言えるんでしょ?」
「奈央、聞いてよ——」
そして、一瞬だけ静寂が訪れた。
「俺はもう、バレーができないんだよ」
その言葉を聞いて、奈央は口を開けたまま俺の方を見上げた。
「え……?」
「言ってなくて、ごめんね。俺、腰をやっちゃってさ。もう二度と思いきりバレーをすることはできないんだよ」
「え、だって。もうバレーは満足したって言ってたじゃん……」
奈央は両目を見開き、呆然と俺を見つめていた。
「ごめん。あれは嘘だったんだ」
奈央は、口をきゅっと結び、悲しそうに眉根を寄せた。
「俺はもう、バレーがやりたくてもできない。ボールに飛び込んだり、思い切り飛び上がってスパイクを打ったり……できないんだ」
「うそ、でしょ……」
外から、「ミーンミンミン——」という蝉の声が入り込んできて、しばらく会話が途切れた。
ヒリヒリとした空気の中で、俺は何も言えなかった。
ただただ部屋の中が熱くて、背中にじわりと汗をかいていた。
「ごめん……私、知らなかったから」
奈央は目を赤くして、震えるような声でそう言った。
そんな奈央を見ていたら、俺も感情が込み上げてきて、全部話してしまおうと思えた。
「本当は、ずっとずっと夢があったんだ。春高に出て、あのオレンジコートに立ってさ——負けても勝っても、コートの中で沢山の風を起こすんだよ」
「風——」
そう反応した奈央に、俺は笑顔で頷いた。
「そう、風さ。俺はここにいるぞ——ってね。そんで思いっきりプレーして、最後は仲間と思い切り抱き合うんだよ。そんなのって、すごく、すっごく、楽しそうだろ?」
奈央は、黙って俺の顔を見ていた。
「全部やり切ったら、一体どんな景色が見えたんだろうな。その景色を見るのがさ、俺の夢だった——」
奈央は親身に聞いてくれていたが、唇を噛んで俺の方を見るだけだった。
その透き通った双眸からは、今にも涙が溢れそうだった。
俺はしまったな、と思ってすぐにフォローを入れた。
「いや、ごめん。こんな事言われても、奈央だって困るよな」
奈央はしばらく下を向いてから、口を開いた。
「うん。正直、私にはよくわかんない。だから——」
一瞬、奈央が歯を見せて笑った気がした。
「明日私たちの部活に来てよ」
「え?」
奈央の突然の提案に、俺は面食らった。
「どういうことだ?」
「#NULL!にバレーを教えてほしい。先生の代わりに、臨時コーチになってほしいの」
「一緒に、もう一度バレーしてくれない?」
奈央は、凛とした目で俺を見た。
まるで、新緑を跳ねる雫のように澄み切った瞳。
そんな目で見つめられるのは初めてのことだった。
「そう言われても、俺がここに来た理由は——」
俺が、ここに来た理由……。そんなものあったんだろうか?
「受験勉強で忙しいからダメ?」
奈央は不安そうに表情を曇らせた。
俺がここに来た理由——それは恐らく勉強だが——
そんな事ばっかりやっていて、本当に意味があるんだろうか?
その先には夢も目的もない。何もないのに勉強だけしている。
たとえば——今この瞬間、奈央たちと一緒に頑張ったら、その先には何かあるんだろうか?
何か、見えるんだろうか?
「大会まで、あと一週間だけ……部活に来てくれない? お願い!」
気づけば、奈央のまっすぐな瞳が再び俺を捉えていた。
奈央の言葉には、不思議な力が宿っているようだった。
いつもの俺なら、間違いなく断っていただろう。
バレーの事を思い出すと辛いから、バレーを避けて、忘れようとして生きてきた。
それなのに。
奈央とは一緒にバレーがしたいと思えた。
もう一度やれるかもしれない、そう感じた。
「俺なんかで良ければ、力になる。コーチなんてやった事ないから、上手くできるか分かんないけどさ」
俺がそう言うと、奈央はくすっといたずらっぽく笑った。
「ほら、やっぱり」
「何が?」
「#NULL!はまだ、バレーがやりたいんだよ。そうに決まってる」
奈央が力のない笑顔で俺に語りかけてくる。
「#NULL!は、自分の大好きなバレーを勝手に終わらせようとしてない? “夢だった”ってなに? 夢なら、また追いかければいいじゃん。少なくとも、私だったらそうするけど」
そう言うと、奈央は口元だけで笑って首を傾げた。
俺は、けがをしてバレーと関わることを意識的に避けてきた。
でも、それは間違っていたのかもしれない。
そのせいで、いつまでたってもバレーを忘れられず、そのしがらみに足をとられ続けてきた。
俺の本当にやりたい事は。いつまでも経っても変わらない夢は——