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夢の向こう側、ぶどう畑の夏  作者: 富澤南
第2話 ぶどう畑の夏
10/21

ep.10 ぶどう畑の夏

 それから数日後の朝、とんでもない暑さで目が覚めた。

 熱気と自分の汗で溺れるんじゃないか、と思うくらいの目覚めだった。

 間違いなく、ここに来てから一番の熱さだった。



 一階に降りると、台所にいたおばさんに話しかけられた。

「今日は暑いね。今麦茶出すから待っててね」

「本当に暑いですね……」

「熱中症にならないように、気をつけてね」

 そう言われて差し出された麦茶を飲んだ。



「今日は、おばあちゃん達は?」

 出かける準備をしていたおばさんに、それとなく訊ねてみる。

「おばあちゃんなら、部屋にいるんじゃない。おじいちゃんは出かけてる」

 おばさんは慌ただしい様子で答えた。


「私そろそろ仕事に行くけど、そこにおにぎり作っといたから、食べてね」

 ありがとうございます、と答えて居間の方に行くと壁に寄りかかってアイスを食べている奈央がいた。



 俺が「おはよう」と言うと、「おはよー」と気持ちの篭っていない声が返ってきた。

 俺は居間のテーブルに置かれていたおにぎりを食べながら、話しかけた。

「今日は、部活は?」

「今日は休み」

「あ、そうなんだ」

「宿題しないとなー」

 話しながらも、奈央の視線は終始テレビの方を向いていた。



 窓は開け放たれていて、すぐそばに扇風機が置かれている。

 ゴオオオオ、と轟音を放ち、明らかに『強』になっていた。

 他の家族はこんなフルパワーにはしない。おそらく、奈央の仕業だ。



 俺も暑かったので、特にそれには何も言わず、テレビを見ながらおにぎりに噛みつく。

 他愛のない朝のニュース。外からは、ミーンミーンと蝉の声がした。

 窓のすぐ前には、あのマリーゴールドがちらちらと咲いていた。

 元気そうに咲いているということは、奈央がさぼらずに水をやっているという事だろうか。



「奈央、アンタ今日家にいるんでしょ?」

 ふと、居間にやってきたおばさんが奈央に話しかけた。

「多分いるけど。なんでー?」

「今日おじいちゃんいないから。畑に水やっといてよ」

「ええー? この暑いのに? やだよぉ」

 俺はわけも分からず、おにぎりの手を止めて二人の会話を聞いていた。



「じゃあこの炎天下でおばあちゃんにやらせるの? 家にいるんだから、やっといて」

「えー、でもぉ」

「お願いね。おじいちゃんも今日は多分夜まで帰ってこないから」


 おばさんはそう言って足早に玄関から出て行った。

「もう最悪……こんな暑いのに畑なんて出たくない」

 おばさんに『水やり』を頼まれた奈央は、がっくりとうなだれた様子だ。


「畑に、水やり? 隣の?」

「うん、そう。水あげないといけないの」

 奈央はアイスにぱくりと噛み付くと、無気力にそう答えた。

 俺はよく分からなかったので、続けて質問する。


「へーそうなんだ。あれってやっぱり、ぶどうか何かなの?」

「うん、そだよ。この辺はみんなぶどう農家ばっかり。毎年やってるよ」

 俺はそれを聞いて、感心してしまった。


「へえ、ぶどうかぁ、すごいな。ぶどうなんて滅多に食べないよ」

「そうなの? やっぱり東京ってそういう感じなんだ。もうじき嫌って言うほど食べられると思うけどね」

 奈央はそう言ってにやにやと笑った。

 俺はそれがちょっと可愛いと思ってしまった。


「なんだか面白そうじゃん。水やり手伝おうか?」

「え、マジ?手伝って手伝って!」

 俺がそう言うと、奈央は喜々として立ち上がった。

「それ食べ終わったら準備してすぐ外に来て!」

 そう言い残すと奈央は急いで階段を上がっていった。



 パジャマであるスウェットから、とりあえずTシャツに着替えてタオルを持って外に出た。

 まだ午前中だというのに、茹だるような暑さだった。

 遠くの景色がグラグラと沸騰しているように揺らいで見えた。

 間違いなく、この夏一番の暑さだった。


 奈央は窓先の花に水をやって待っていた。

「そんな恰好でいいの?」と俺の方を見てつぶやいた。

「だめなの?」

「いいけど、焼けちゃうし虫に刺されるかもよ?」

 そう言われてみれば、奈央は長袖長ズボンで完全防備だった。



「まあ、それくらいならいいかな。日焼けも虫も、大して気にならないし」

 奈央は「ふーん、じゃあいいか」と言って、水道からホースを引っ張っていった。

「このホースを、隣の畑まで持っていくの?」

「そだよ。うちには潅水設備とかないからね。いっつもこうやってる。私が持ってくから、ホースが絡まらないように、そこで持ってて」

「オッケー」

 そう言って、奈央はホースをするすると隣のぶどう畑まで伸ばしていく。


 毎年手伝っているんだろうか、かなり慣れた様子だった。

 俺もホースを中継しつつ、隣のぶどう畑に足を踏み入れる。

「あ、そこ!」

「へ?」

 突然、奈央が俺の方を見て大声を出した。


「ムカデ! ムカデがいるよ!」

「うえええ!?」

 焦った俺は、思わず奇声を発してしまう。


「あっはっは! ウソウソ! ムカデなんていないよ」

 奈央は楽しそうに、大口を開けて笑った。

「ひっでー。なんでそんな嘘つくのよ」

「ごめんごめん。でも本当にでることもあるから、気をつけてね」

 奈央はよっぽど面白かったのか、しばらくクックック、と笑うのを堪えられないようだった。

 数日前には何か落ち込んでいるようだったから、

 たとえからかわれても、奈央が楽しそうに笑っているのは何か安心した。



 俺が水道の方に戻って、奈央に合図をする。

「じゃあ水出すよ!」

「お願いー」

 蛇口を捻ると、グオっと水が通うのを感じた。

 そのまま小走りでぶどう畑の方に向かう。



 頭上にぶどうの葉っぱが幾重にも重なっているから、ぶどう畑の中には木漏れ日が無数に揺れていた。

 風が吹くたびにぶどうの葉も揺れて、木漏れ日もキラキラと瞬いた。

 その中で真剣な顔をして水をやる奈央を、しばらくぼーっと眺めていた。


「へー、こうやって水をあげるんだね」

「そうだよ。でもあげすぎもダメだから、何日かに一回って感じ。暑い日が続いたら、ただの水撒きもしたりする」



 何もかもが初めてのことで、こんな農作業は初体験だった。


「こういうの初めてだから、なんかワクワクする俺」

 俺がそう言うと、奈央は「うそー」と言って笑った。

「まあ、家が農家でもないと、珍しいのかな」

 そう口ずさみ、奈央はくすっと笑った。



 俺は頭上で揺れる無数のぶどうを見て、疑問に思った。

「なんでぶどうに紙袋みたいのかぶせてるの?」

「日焼けしちゃうからだよ」

「日焼けぇ?ぶどうが?」

「そう。日光に当てすぎるのは良くないんだよ」

「へぇー……」


 俺はホースの補助をしながら、水をやる奈央を見ていた。

 木漏れ日がゆらゆら揺れて、奈央と俺を照らす。それが眩しかった。



「あのさ」

 ふと、その輝きの中で奈央が口をひらく。


「何?」

「……やっぱいい」

「は? どうしたの? 気になるじゃん」

 そう言うと、奈央は申し訳無さそうな表情でこちらを見た。


「なんで、バレーやめちゃったの?」

「え」

 奈央の言葉に不意を突かれて、心臓がばくんと音を立てた。


「ごめん。本当は聞かない方がいいと思ったけど。嫌なら、言わなくてもいいから」

 俺はしばらく悩んだ。どうしてか、奈央にケガの事を言うのは憚られた。

 たぶんおばさんにもおじさんにも、俺が腰を悪くしてバレーを辞めたことは伝わっていないはずだ。

 ケガをしてしまった自分が情けなく思えて、俺は隠していたかったのだ。



「もう、十分やったからね。満足したって感じ。深い意味はないよ」

「バレー、嫌いになっちゃったの?」

 寂しそうな表情でそう問いかけてきた奈央に、俺は大きく首を横に振った。


「まさか。大好きだよ。他のどのスポーツよりも好きさ」


 奈央は、「ふーん……」と言いながら、水やりを続けていた。

 何か、見透かされているような気がした。



「これが終わったら、対人してくれない? 一日ボールに触らないの、不安だから」

 奈央はそう言って、俺を見つめた。

 その瞳はどこまで透き通っていて、真剣だった。


「やっぱり、勉強するよね……?」

 そんな風に『対人』をせがまれたら、断れるはずもない。


「全然いいよ。勉強なら、いつだって出来るしね。それじゃあ、水撒きは早く終わらせよう」

 俺がそう言うと、奈央は「うん!」と言って笑顔になった。

 今は難しい事は考えたくない。

 奈央に笑顔が戻ってきたなら、それでいいんだと思った。



 日差しは相変わらず強い。もう、夏も本番なんだ。


「よし! こんなんでいいかな!」と言った奈央は、畑からホースを撤収し、家の目の前に向かって勢い良く水を振りまいた。


 アーチを描いて霧散した水滴は、太陽光を反射してプリズムのようにキラキラと散っていった。


 燦然たるその光景が、なぜだか俺の胸をきゅっと締め付けた。



 奈央がボールをポンポンと叩きながら玄関から出てくる。

 俺は水道で水をがぶ飲みしていた。

「この前と同じ感じでいい?」

「ん、いいよ」

 俺はびしょびしょになった口元を腕で拭って返事をした。

 水を飲んだら、溌剌とした気分になった。



「いくよ」

 奈央がボールをひょいっと上げて、俺の元に打ち込んできた。

 バンッと両腕でキャッチ(レシーブ)し、奈央の頭上へ優しく返す。

 奈央が「さすが」と笑いながら、俺に向かってトスを上げる。

 綺麗にトスが上がって、「いける」と感じた。

 振りかざした手はバチンッと気持ちよくボールにミートして、かなりの速さで構えた奈央の元へ飛んでいった。


 軌道が安定していたので、奈央はほとんど動くこと無くレシーブを高々と上げた。

 奈央はレシーブしながら痛切な声で「痛っ」とつぶやいた。

 俺は「ナイスカット」と言いながら、少々低めのトスを返す。

 奈央は「よし!」と言いながらトスの軌道を見定めて、パシン!とボールを叩いた。


 俺の構えとぴったりの所にボールが飛んできて、「おっけ!」と言いながらレシーブを奈央の元へと返す。

 奈央も「ナイスカット」と笑いながら俺にトスを上げた。

 これまた、いい感じの打ちごろのトスだ。

 俺は軽やかにボールを叩いて、奈央の元へ打ち込んだ。


 ボールは少々手前に落ちそうになって、俺はまずいと思った。

 奈央が、「オーケー!」と叫んで地面に滑り込んだ。

 ボールは奈央の目の前でバウンドし、奈央はそのまま地面に倒れこんだ。



「あ、あぶないよ!」

「いたた…つい癖で、フライングしちゃった」

 奈央はそう言うと、俺の方を見て「しまった」という感じで苦笑いした。


「その執念は良いと思うけど、今は外だから……手とか大丈夫?」

「うん、平気だよ」

 奈央はTシャツが土だらけになっていたが、ケガはなさそうだった。


「よかった。大事な試合があるんでしょ? あんまり無茶すんなよ」

「ああいうボール、試合でもよくあるけど、とるのが難しくて」

 奈央は服を払いながら立ち上がって、俺の方を見た。



 俺はピンと来て、奈央の姿勢を見てみることにした。

「ちょっと、レシーブ姿勢とってみて」

「うん?……こうかな」

 奈央は膝を曲げて腰の重心を落とした。


「うん、間違ってはいないね。でもそれだと、前にボールが落ちそうな時、すぐ反応できないんだ」

「確かに」と、奈央は何度も頷いた。


 俺もレシーブ姿勢を構えて、奈央の前で見せて上げた。

「ただ膝を曲げればいいってわけじゃないんだ。膝の皿は、自分の足首より前に持っていく感覚なんだ」

「足首の前?」

 奈央が目をぱちくりとさせ、首を傾げた。


「そう。そうすると、重心は落ちながらも自然と体は前にいくでしょう?」

「あ、本当だ! なんだか動きやすいかも」

 奈央の顔がキラリと光って、何度も何度もその姿勢を確かめた。


「これがレシーブの基本なんだ。相撲の取り組みっぽい姿勢だ、なんて言われたなぁ俺は」

 そう言って俺が笑うと、奈央も「ほんとだ!」と言って笑った。


「俺も高一の頃レシーブ下手だったから、コーチに何度も言われてさ。もうすっかり、頭から離れないわ」


 奈央は瑞々しい表情で、「うんうん」と頷いて繰り返し姿勢を確認していた。


「打ってみるから、カットしてごらん」

「うん、オッケー!」

 奈央は元気よく返事をした。

 本当に、バレーボールのこととなると、とても楽しそうな顔をする子だ。



 俺が少しだけ厳しい球を打つと、奈央はススス、と滑らかに移動してボールをカットした。

 ナイスカットだ!


「そう、それだよ! いい感じじゃん」

「わー、なんかぜんぜん違うかも!」

 無邪気に喜ぶ奈央を見て、俺も思わず笑ってしまう。


「さっきはこの球に飛び込もうとしてたからな!」

「ほんとだよね!」



 奈央とバレーをしていると、楽しかった。

 このぶどう畑の夏の陽光の中で——楽しくて楽しくて、仕方なかった。

 腰の痛みも、この瞬間だけは忘れられるようだった。


 奈央は俺の言ったことを素直に受け止めるし、それをひたむきに実践しようとしていた。

 そんな奈央を見ていると、俺は失った気持ちを色々と取り戻すような気分になれた。



「#NULL!って、教えるの上手いね」

 奈央は肩で息をつきながら、俺の方を見て笑った。

 そう言ってもらえるのが嬉しくて、なんだか胸が熱くなって、すぐには何も言えなかった。


「それにしても、暑いね。そろそろ水飲んでいい?」

 奈央が額の汗を擦りながら、訊いてきた。

「うん、飲みなよ。熱中症になったらやばいよ」

 昼前の白い日光が庭中を照らしていた。限度を知らない暑さだ。

 一旦、休憩を挟まないと。



「#NULL!に教えてもらってたら、めっちゃ上手くなれるかも」

 奈央は水道で水を飲みながらそんな事を言った。

 俺はやっぱり、その言葉が純粋に嬉しくて、少し恥ずかしかった。


「俺のおかげってわけじゃないよ。奈央だって真面目にやってるからだよ」

「まあ、それが大きいかなー?」

 奈央はおどけてそう言うと、元気ににかっと笑った。

 溌剌とした笑顔、とはこういうものを言うんだろう。

 その笑顔を見て、ちょっとだけ胸が騒いだ気がした。



 奈央と二人きりになったら、あの「お守り」の事を話そうと考えていたが、奈央の明るい表情を見ていたら、なんだか話すのが怖くなってしまった。

 なぜだか分からないが、そのことを話してしまうとこの笑顔が消えてしまうんじゃないかと、俺は妙な不安を覚えてしまった。


 もう、お守りのことなんて忘れてしまおう。

 それに大事なことだったら、いつか奈央から話してくれるかもしれない。



 さあ休憩したら、もう一度、奈央と対人だ——。

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