第2話 ダンジョンを彷徨う
部屋に響き渡る獣の息遣い……充満する獣臭が、より相手の凶暴性を際立たせている様に感じる。
息を殺し、身体がガクガク震えながらも、瓦礫の隙間から覗く目を外す事が出来ない。それほどの威容に、ゴクリと生唾を飲み込む。
その獣は部屋の周囲を見渡す様に首を巡らせ、こちらの瓦礫側に視線が回りそうになった瞬間、隙間から視線を外す。
「グルルル……」
獣が唸り声を発する。ま、まずい……気付かれたか? 必死に息を止めて張り詰める空気に耐える。しかし、再びズシン! ズシン! と地響きを響かせながら獣は移動し、部屋を出て行った。
俺は気配を感じなくなるまで息を止め続け、あの足音が聞こえなくなった瞬間、止めていた息を吐き出した。
「ブハァッ!? ハァ、ハァ、ハァ……」
自分でも驚くほど長い時間息を止めていたので、息苦しさに喘ぎその場に崩れ落ちる。その後、息が整うのにかなりの時間を要した。
そして、多少呼吸が落ち着いて来たところで弱音が口から洩れる。
「クソ……夢なら覚めてくれ……」
俺はあの時、自転車から転げ落ちて地面にぶつかり、気絶して悪い夢を見ているんだ。そう思わずにはいられず、頭を抱えて蹲る。
暫くそうしていたが、呼吸も落ち着いて冷静になってくると、弱気になるなと自分を叱咤する気持ちが湧いてくる。
「しっかりしろ……夢じゃないのはさっき確かめたろ……」
力が抜けていた体を叱咤して立ち上がり、気合を入れ直す為に右手の拳を握り、ゴスッ! と音があまり鳴らない様におでこを殴る。
少しズキズキするが、気合は入り直した。今まで散々しんどい状況に自分を追い込んだ経験のおかげか、意外に早く精神は持ち直した。
思考を切り替え、まずは状況確認をする。俺はあの謎の女にダンジョンとやらに飛ばされた。あの女は何者だ……いや、あの女の事は後回しだ。あんな理解の出来ない存在に思考を回している余裕はない。故に、まずは分かっている事のみに争点を絞る。
まずはモンスターの存在だ。このダンジョンにはモンスターがいる。さっきの奴はもう近くにはいないが、他にも似た様なのがうろついているとも限らない。
早めに脱出するか、身の安全を確保出来る場所を探すべきだ。先ほどのモンスターはこの瓦礫の山でやり過ごす事は出来たが、次も上手くいくとは限らない。
すぐに動けるように立った状態で、まずは所持品の確認をする。服のポケットに手を入れて、所持品を取り出す。
「持っているのは、スマホにハンカチ、ポケットティッシュに生徒手帳、後は内ポケットに刺していたボールペンか……」
こういう状況では何が役に立つとも限らないので、どんな物でも無駄には出来ない。荷物の鞄も飛ばしてくれれば、もう少しまともな物もあったかも知れないが……と悔やむが、入っている物は教科書ぐらいかとすぐに思い直す。
気を取り直し、使えそうな物を吟味する。
「スマホは……案の定圏外だが、他の機能は使える。メモや写真を撮るなどに使えそうだが、そもそも電源が切れれば終わりだ。この状況では充電も出来ないだろうから、安易に使うべきじゃない。いざという使い道が思い付くまで使用は控えよう」
バッテリーが切れれば、何の役にも立たなくなる。便利そうで不便な物が文明の利器だ。そうなると、直近で使えるのはハンカチにポケットティッシュ、それに生徒手帳とボールペンだ。手書きならメモも役に立つ。
「まずやるべきは、生徒手帳に対するメモだな。特にマッピングはおそらく必須になる」
部屋の規模や、あんな巨大モンスターが生息している事を考えると、ダンジョンとやらはある程度の規模があるのは想像出来る。それに、見知らぬ場所では迷う事が一番危険だ。移動する場合はマッピングしながらになるだろう。
様々な状況を想定し、今まで得られた情報を基に思考を巡らせて行く。そして、気になった事や今までの経緯と状況、あの女の言った台詞を全て思い出し、断片的にサッとメモに情報を纏める。
次に新しいメモ欄を開き、別のページに簡易的だがマッピングを行う。この部屋を中心に描いて、上部を仮の北として方向を間違えないよう出入り口を書く。
「こんなものか……」
最初のマッピングを終え、俺は生徒手帳とボールペンをしまうと、慎重に瓦礫の隙間から辺りを観察し、周りの気配に全神経を張り巡らせる。
……幸いにあれ以降、俺以外の生き物の気配は感じず、静寂が部屋を支配していた。
「大丈夫そうだな……」
そう思い、瓦礫の山から出て部屋を移動する。まず向かったのは、モンスターが出て行った方向ではなく、逆の入ってきた道だ。
流石にあのモンスターを追いかける道はリスクが高過ぎる……そう思いながら、俺は今まで使いまいと決めていた「あの力」を久々に用いる。今こそいざという時だ、使わない選択肢は無いだろう。
俺は極度に集中力を高めて注意深く通路を観察する。すると、様々な情報が頭の中を駆け巡る。だが――
「(クソ……久しぶりなせいか情報が上手く整理出来ない。それに理解出来ない情報が多過ぎる……)」
恐らく構造物の情報だろう……だが、俺の知らない材質で出来ているのか、理解出来ない情報だらけだ。よって拾えた情報は、この付近に生物の気配はないのと、通路の規模ぐらいだった。
「(駄目だな……これ以上使うと疲労が溜まる。現状ではそれは得策じゃない……)」
そう考え、力を使うのを止めて一息ついた。そして、久しぶりに使ったというのにあまり役に立たない結果に気落ちしつつ、慎重に通路の前まで進んだ。
……結構広い通路だ。あのモンスターが行き来出来ている事を考えると当然だが、建築物の観点から見ると少し違和感がある。
力を利用すればそれも分かるかも知れないが、先程の理解出来ない情報も考えると、検証には時間が掛かるだろう。
「……今は深く考えても仕方ないか」
思考を切り替え、普通に通路の観察に戻る。通路には上部に等間隔で謎の光源があり、奥の方までしっかりと道を照らしていた。
「危険な気配は感じないな……」
意を決して部屋を出て、出来る限り気配を殺しながら通路を一定の速度で移動する。その際、何歩歩いているかもしっかりと数える。距離感を測る為だ。
歩幅は歩く人の「歩行の速度」と、目安となる「身長」で簡易的に割り出す事が出来る。後でマッピングする際に歩数が分かっていれば、おおよその距離も記入出来る。
身長に気配を探りながら、俺は静寂が支配する通路を歩く。
「……思ったより、生物の気配を感じないな」
多少進んだが、生き物の気配は感じられない。遭遇しないのは有り難いが、少し違和感がある。それに……立ち止まってしゃがみ、地面を注視する。
「これって間違いなくあのモンスターの足跡だよな……」
よく見ないと分かり辛いが、少し積もった土埃に薄っすらと足跡の様な形が見て取れる。しかも、その足跡は来た方向にのみ進んでいた。
「見る限り、逆向きの足跡が見当たらない……もしかして、一方向に巡回しているのか?」
安易な判断は出来ないが、そう考えるとこのまま進むのは危険かも知れない。下手をすれば鉢合わせる可能性がある……と少し考えるが――
「進もう。少なくとも分かれ道に出るまでは確認すべきだ」
自分の直感を信じ、少しでも情報を手に入れる為にも進む事を選ぶ。そして、そこから少し進むと、真っ直ぐの道と、左に曲がる分かれ道に到達する。
「あった。この道の最初の分岐点だな」
周りを確認しつつ、生徒手帳とボールペンを取り出してマッピングに追加し、ここまでの歩数も記入する。それが終わった後は、地面を念入りに確認した。
すると、足跡が左側の道から今いる道に続いている事が確認出来た。どうやらあのモンスターは左から来てこちらに移動して来たらしい。
そして、真っ直ぐの道には足跡は見当たらなかった。少なくとも、あのモンスターはそっちの道に進んだ事は無いらしい。
理由は分からないが、あのモンスターから距離を置く事は現状最優先すべき事なので、俺は迷う事なく真っ直ぐの道を選んで進む事にした。