第13話 無知と無垢
ベヒモスは苛立っていた。いや、正確には苛立つという事を知らない為に、よく分からない気持ちに苛まれ、落ち着かない気持ちで階段を睨みつけていた。
小賢しい矮小な守護者を片付け、もう1人の侵入者も見つけて始末しようとしたが、すんでのところで爪の一撃を躱されて逃げられた。
おまけに、仕留めたと思っていた守護者が再び現れ、視界を塞がれた隙に同じ様に、目の前にある階段下に逃げ込まれてしまった。
取るに足らないと思っていた相手に手玉に取られ、自分の思い通りに事が運ばぬ腹立たしさに、毛を逆立て、尻尾が落ち着かぬ心情を表すかの様に、忙しなく動いていた。
その為、あの階段から再び侵入者達が現れたら、即座に八つ裂きにしてやろうと、階段前に陣取って待ち構えていた。
それからどれぐらい経ったか、ピクリと耳が動いて階下に動きがある気配を感じ、伏せていた体を起こして臨戦態勢を取る。すると――
ズボゥッ!!
という音と共に、階段から火柱が上がり、階段を塞いでいた木の根が一瞬で取り払われる。
そして、その階段から侵入者の1人が、赤く燃え盛る炎を宿した剣を右手に携えて出て来た。その右後ろには、深紅の鳥を左肩に止めた、あの小賢しい守護者も控えている。
待っていた相手が再び目の前に現れ、ようやく胸の内のモヤモヤを解消出来ると思ったが、何故かベヒモスはすぐには動けなかった。そして、心の内に疑問が浮かぶ。
「(アレは、誰?)」
目の前にいたのは、確かにあの時殺しそこなった侵入者だ。その証拠に、自分が貫こうとした爪跡が背中に残っている。
だが、目の前に立っている侵入者は、明らかに最初に見た時とは別の存在の様な気配を纏っていた。
そして、その男だけが前に進み出て、こちらを見る。その瞬間、ベヒモスは大きく後ろに飛んだ。相手に飛び掛かるのではなく、逆に距離を取ってしまった裏腹な行動に、頭が混乱する。
何で後ろに飛んだ? 何で飛び掛からなかった? 答えはすぐに分かった。
あの左目だ。あの目を見た瞬間に、得体の知れない気持ちが心を支配し、思わず距離を取ってしまった。
何だ、あの目は? こちらの全てを見透かす様な気持ちの悪い視線。そして、その視線に晒されるだけで心がゾワリとして、嫌な気持ちが体を支配しようとする。
ベヒモスは、その気持ち悪い感覚を吹き飛ばす様に、体に力を入れて全身の毛を逆立たせ、牙を剥き出しにして唸る。そして、大きく咆哮を発した。
「グウオオオオオオッーーーー!!!」
部屋全体が、巨大な咆哮により震える。だが、目の前の男はまるで意に介さず、右手に持っていた剣に左手を添えながら目の前に翳す。
すると、凄まじい青白い炎の奔流が刀身から放出される。やがて、その炎は段々と剣に収束していき、最終的には青白く光り輝く刀身へと変化した。
男は右手で剣を構え、左手をベヒモスの方に差し伸べる。そして、手のひらを返し、指をクイクイと動かしながら、こちらを見てニヤリと笑った。
ベヒモスは、目の前が真っ赤になる。何をされているのかは完全には理解出来なかったが、1つだけ確実に理解は出来た。
侮られている。自分より弱く、矮小で、逃げ惑う事しか出来なかった相手に、自分が見下されている。
それは、今まで自分が始末してきた相手に対し、抱いてきた気持ちと同じだった。
「ガアアアァッーーーー!!」
自身にその気持ちを向けられた怒りに、ベヒモスは叫び声を上げて男に飛び掛かる。
そして、右の前足を振りかぶりながら相手に向けて振り下ろし、その爪で男を引き裂こうとする。だが、その動きをまるで見透かす様に背後へと飛び退いて躱した男は、すぐさま距離を詰め、突き出した前足に対して青白く輝く刀身を持つ剣を振り下ろす。
その瞬間、形容し難い感覚がベヒモスの前足に奔った。
「ギャアゥッ!!?」
その感覚に、獣は思わず悲鳴の様な鳴き声を発する。斬りつけられた箇所の肉が焼け斬られ、痛々しい傷が右の前足に刻まれていた。
ベヒモスはその感覚に慄き、斬りつけられた足から崩れ落ちる。その隙を逃さず、男は刺突の構えをとり、ベヒモスの左肩に剣を突き刺した。
ジュウッ! と肉の焼ける音を鳴らしながら、剣が深々と刺さる。
「ギャオゥッ!!?」
再び、凄まじい感覚が左肩を襲い、思わず仰け反り身悶える。あまりの悍ましい感覚に、体が意に反して暴れまわる。
男はそれさえも見越していたのか、すぐさま巻き込まれぬ様にベヒモスから距離を取る。
ベヒモスの心は、千々に乱れていた。ナニ、ナニ、ナニ!? このなの知らない! こんな感覚は知らない!! イヤだイヤだイヤだ!!? 体中が拒絶を示す感覚にどうすればいいのか分からず、ただただ身を苛む未知の刺激に暴れまわるしかなかった。
そう、ベヒモスは知らなかったのだ――「痛みという感覚を」。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
痛みにのたうち、暴れまわるベヒモスを見て、私の心に得心が浮かぶ。主様が言っていた『完璧な獣の弱点』とは、こういう事だったのかと。
階段下で行ったやり取りが、頭に浮かんだ。
「無謀です! 1人でアレに挑むなんて!!」
「大丈夫だよ。何とかなると思うから」
主様は、何やらとても余裕のある態度で言う。先程の威厳のある姿とは打って変わって、ある意味今までの主様に戻ってしまった雰囲気に、心の中に不安が浮かぶ。
「ですが! ……ッ」
すると、皆まで言わせまいとする様に、右手の人差し指で私の唇を塞ぐ。突然の接触にポッと頬が熱くなる。
「分かったんだよ。あの完璧な獣の弱点がな……だから、俺を信じろ」
そう言って笑う主様の瞳には、自信が満ちていた。そんな瞳に見つめられて、思わずドキドキしてしまったのは秘密だ。
それほどまでに、今の主様は私の目に雄々しく映った。
そうして、私たちはいざという状況にならない限り、後ろに控えている事にして、主様を見送った。そして、主様の言う通りの結果になった。
ベヒモスは未だに痛みに悶え苦しんでいる。未知の感覚に苛まれて混乱の極みなのだろう。
だが、おそらくそれだけでは終わらせられない。痛みというものは慣れるものだからだ。
その前に、痛みという感覚を知ったあの獣に、次に襲い掛かるものこそが怪物を本当に屈服させる最強の刃となる。
主様は、それを容赦なくあの怪物の心の臓に突き刺すだろう。その時が、あの獣が完璧である事を失う時となる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
体を襲う痛みに戸惑うベヒモスを見て、自分の考えが正しかった事を確認する。気付いた切っ掛けは、炎を受けた時の反応だ。
炎を初めて受けた様な反応……しかし、ダメージは一切なく何の痛手も被っていなかった。熱が伝わっていたのなら、いくら何でもノーダメージなのはおかしい。
あの時は、初めての経験にただ驚いただけという結論になったが、それこそが答えでもあった。要は知らないのだ……ダメージというやつを。
あれほどの炎を受けてもダメージを与えられない程、強靭で完璧な肉体を持っているが故に、生まれてこの方手傷等を追った事もなく、痛みというものを知らない。
完璧故の無知と無垢……それがフェニックスが言っていた完璧な獣の弱点だ。
「痛いよな……。初めて感じる痛みが、こんな物で焼き斬られる痛みなんて同情するよ」
そう言って、火ノ加具土命の刀身を見る。あのフェニックスの転生の炎――神炎を極限まで集束した青白く光る刀身……ベヒモスの強靭な皮膚でさえ、バターの様に焼き斬る。
『審判の瞳』を完全に開眼させた後、この目が認識したモノの読み取る情報量は圧倒的に違っていた。
一目見るだけで、ありとあらゆる事が見通せる。
それだけじゃない……流れ込む圧倒的なまでの情報を、今までは右から左に流しながら、一部を抜き取るのが精一杯で、全てを受け止める事は出来なかった。
だが、あの結晶体に触れて自身が一体何者なのかを明確に理解した後は、その情報も処理出来る様になっていた。そのお陰で、この剣の使い方はもはや手に取る様に分かる。
そして、それはベヒモスも例外じゃない。アイツの心の動き、動作に対する意思も一瞬で見通せる。だから、攻撃を躱すのも容易い。よって――
「ガゥッ!!」
と、得体の知れない感覚を与えてくる俺を遠ざける為、左の前足の爪を伸ばして攻撃してくるが、事前に予期していた俺は、軽く体を逸らすだけで躱す。そして、その爪を剣で斬り飛ばした。
それを見て、ベヒモスの目に『審判の瞳』を使わずとも分かる、ある感情が浮かび始めているのが分かる。
「知りたいか、ベヒモス……今、お前の心を犯そうとしている、その感情を……」
そう言って1歩近づくと、ビクッと震えるベヒモス。明らかに俺の存在に怯えていた。
長引かせるのも可哀想だ。そう思い、俺はとどめの一撃を与える為に火ノ加具土命を上に掲げる。すると、青白い炎が剣から吹き出す。
そして刺突の構えを取り、ベヒモスの心臓部分に狙いを済ます。それを見たベヒモスは、痛む前足を引きつらせながらも、逃げる体制を取ろうとする。
黄金の毛を纏い、圧倒的な威容を誇って立ち向かう者を無造作に蹴散らして来たであろう、『完璧な獣』の姿は最早そこには無かった。
そんなベヒモスに、俺は決定的な言葉と一撃を解き放つ。
「それが、『恐怖』ってやつだ」
言葉と共に勢いよく突きを繰り出すと、剣先から青白い炎が鋭い棘の様な奔流となって伸び、そのままベヒモスの心臓部分の胸を貫いた。
「ガアアアァァァッーーーー!!!」
心臓を焼き貫かれ、慟哭を発するベヒモス。そして、力が抜ける様にその場に巨体を沈めた。
「……殺したのですか?」
戦いが終わったのを見て、フランが近寄ってきて聞いてくる。
「いや、生きてるよ。心臓を破壊した程度じゃ、死にはしない。それより見てみな」
そう言ってベヒモスを見るよう促す。すると、ベヒモスは倒れ伏したまま動かなかったが、段々と体が縮んで小さくなっていく。
「こ、これは!?」
フランが驚いた声を上げる。ベヒモスの体は見る見る内に小さくなっていき、やがてそこには金髪の小さな子どもが倒れていた。
「に、人間の子ども……いえ、獣人? 角に尻尾が生えていますし……これがベヒモスの正体なんですか?」
「正体って訳じゃないさ。完璧な獣としての概念が壊れてしまったが故の姿ってところか……それが不完全な人間を形どるって言うのは、何とも皮肉な話だが……」
まあ、不完全さの象徴みたいなところが人間にはあると言える。俺はそう考えつつ、近寄ってベヒモスを抱き上げる。
「フラン、悪いがこの子に着る物を作ってやってくれるか? それと凰華は、『不死鳥の涙』で傷を癒してやってくれ」
「は、はい」
「クルッ」
こうして俺は、最後の守護者であるベヒモスを抱きかかえ、この子を介抱する為に階段の下へと移動した。




