第1話 いきなりのダンジョン
ズシン! ズシン!! という地響きの様な足音が近づいてくる。
俺は瓦礫の山の隙間に身を潜めながら息を殺し、バクバクと撥ねる心音を抑え込む様に、心臓部分の服をギュッと左手で握り締める。
体が震え、足は生まれたての小鹿の様にガクガクと震えている。冷汗が溢れて額や背中を濡らし、動悸は憐れなほど激しい。
しかし、息を漏らすまいと右手で口を覆い、必死に襲い来る恐怖に耐える。そして――
「グルルルル……」
と、獰猛さを隠さぬ唸り声を発しながら、ソイツは俺が隠れている部屋へと入ってくる。
恐怖を押し殺して岩陰の隙間から覗くと、そこにいたのは2本の角を生やし、全身を黄金の体毛で覆った4足歩行の巨大な獣だった。
そして、ソイツの頭上を見ると、その獣のレベルと名前、そしてHPとMPが表示されていた。
レベル100 ベヒモス
HP 138000/138000
MP 9999/ 9999
余りの内容に愕然とする……何故なら、俺の頭上に表示されているのは――
レベル1 神座 晃
HP 380/380
MP 25/ 25
なのだから……。頭の中で、あの女の声がよみがえる。
『では、頑張れ。無事に戦い抜いて生き延びて見せろ。私の愛すべき皇座の破片よ』
心の中で、「ふざけるな! こんな化け物と一体どうやって戦えと言うんだ!」と叫ぶ。
俺がなんで、こんな訳の分からない状況に立たされているのかというと、答えは10分ほど前に遡る。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
神座 晃、17歳。王陵学園高等部2年生。それが俺の現在の肩書だ。
家は神座財閥という大金持ちで、家族構成は父、母、妹、祖父母の6人家族。
父は厳格だが、真っ直ぐな人。人格者で周りからの人望も高く、祖父から受け継いだ巨大財閥を支える会長。
母は優しく慈悲深い性格だが、怒るとちょっと怖い。そして、父に負けず劣らずに財閥を支える会長秘書。
妹は甘えん坊だが、素直で元気。最近おませな、同じく王陵学園に通う高校1年生。おまけに母親似で美人。
祖父母はもう随分な歳なのにアクティブで、活発な性格。祖父は総帥でありながら財閥運営を父と母にほぼ丸投げして、祖母と2人で悠々自適に老後を楽しんでいる。因みに2人共、孫である俺と妹にとても甘い。
そして俺は、父母の才覚と容姿を漏れなく受け継ぎ、成績優秀、スポーツ万能と親から色々与えられ過ぎている高校生……だったら良かったのだが、容姿はともかく幼少期の俺は凡庸な人間だった。
それが変わったのは、幼少期に起こった誘拐事件がきっかけだった。
巨大財閥の跡取ともなれば、そういう輩にも目を付けられる。まだ小学校低学年だった俺は、親が付けたボディーガードの目を盗んで、前から行ってみたかった駄菓子屋に行こうとした。そして、ものの見事に誘拐されたのだ。
監禁された俺は恐怖に震えていた。そして、誘拐犯の「身代金を渋ったら、指の一本でも送ってやれ」という台詞を目の前で言われ、ナイフを突きつけられた俺の恐怖はピークに達し、頭の中でブツンッ! と何かが弾けたような感覚の後、情けなくもそのまま意識を失った。
次に目を覚ました時、俺は変わっていた。あれほど恐怖で震えていた心が、波一つ立てない湖面の様に静まっていた。
そして、何故か左目の視野だけが極度に広がり、その目で周りを見渡すだけで様々な情報が流れ込んで頭を駆け巡った。
また、その目で誘拐犯たちを見るだけで彼らの思考や行動原理すらも手に取る様に分かった。その感覚は、まるでその場の全てを支配している様な気分だった。
そして、俺はその力を用いて誘拐犯の行動を読み、隙を見て見事に単独で逃げ遂せた。その後、俺の証言によって誘拐犯は全員掴まり、事件は無事解決した。
家に戻った後、俺はあの時の感覚をもう一度得る為に必死に試行錯誤を繰り返した。
そして分かったのは、あの不思議な感覚を得る為に必要なのは極度の集中力と、左目で見た映像から洪水の様に流れ込んでくる情報を理解する為の知識と頭脳、そして、あの感覚を使った後は極度に疲労する為、体力も必要だった。
それからの俺は、何かに憑りつかれた様に様々な努力を行い、普段の父と母に教えられる以上の事を学び、吸収し、鍛え、難題に挑戦して失敗しても出来るまで何度もトライする様になった。
兎に角、ありとあらゆる能力を高めなければ、この力は使いこなせないと感じたし、力を使うと様々な情報が余す事なく流れ込んでくる為、力を使う事にのめり込んでいた。
世界は未知の情報に溢れ、それを見て、知って、理解して、自身の一部とする……それが楽しくて仕方なかった。
父と母達は、誘拐事件のショックであまりにも子どもには似合わないストイック過ぎる姿に変貌してしまった俺に異常を感じていたらしいが、凡庸だった俺が次々と難題に取り組んでクリアしていき、見る見る成長していったものだから止められなかったそうだ。
気付いたら凡庸だった俺は見違えるように成長し、中高一貫のエリート校と言われている王陵学園に首席で合格し、学園始まって以来の神童と先生方にはもてはやされる存在になっていた。
自分は力を使いこなす為に躍起になっていただけなので、正直戸惑っていたが、周りから認められる事は嬉しい出来事だったので、素直にその賛辞を受け入れていた。
そんなこんなで中学から生活が一変した俺は、友人にも恵まれ、それなりに楽しく学園生活を送っていたが、心の奥底では何処か満たされない想いが燻っていた。
理由は簡単だった……あの力を使う機会がどんどん減って行っていたからだ。
努力の甲斐あって、力はある程度使える様になってはいたのだが、この力にも欠点があり、まずは長時間維持出来ない事。
それと読み取れる情報量が使う度に増してきており、どんどん情報を受け止める事が難しくなって行ってコントロールが効かなくなって来ていた。また無理に受け止めようとすると、情報過多で頭痛を引き起こしてしまう始末。
おまけに努力の甲斐と、能力を使う度に溢れる様な情報に晒され、それを理解する為に勉強を続けてきた結果、あの力を使わずとも大抵の事は分かるし、難題も自力で熟せる様になっていた。
よって、使うとしてもあの時の誘拐事件の様な極度のピンチにでもならない限り、日常生活で使う機会は失われていった。
また、友人の1人に「たまにはお前もこういうのを読んで、自分の人生顧みやがれ! こん畜生!!」と割とマジなテンションでラノベという物を突き付けられた際に、あまりにもマジなテンションで言われたので、家に持って返って読んでみると「なるほど、これがいわゆるチートというやつか……」と、そのあまりに都合の良い内容を見て、思わず納得してしまった。
そして、あの目の力もいわばチートと呼ばれる類の物に相当するだろうと考え、使う気にならなくなった。安易に使ってしまえば、努力の結果得られた今の俺を否定するに等しいと感じてしまったのだ。
だから、いざという時にでもならない限り使わないと高校入学を機に自身を戒めた。あの感覚を得られないのは正直残念だったが、折角得た今の俺を否定したくはなかった。
……だが、高校2年になって生徒会長も任される様になり、傍から見れば順風満帆な学園生活を送っていたが、何故か心の奥底でこのままでいいのだろうか? と焦りの様な不安が燻り始めた。
それに違和感も感じていた。自身が立っている場所に何処かズレを感じる……ここは本当に俺が求めた立ち位置なのだろうか? 俺は本当にここにいていいのか? この力は、ここに至る為にあった力なのか? と自問自答する日々。
そんな不安や焦りを日がな一日感じる様になってしまい、最近では、「お兄、最近家でボーッとしている事、多いよ? どうしたの?」と妹に感づかれる程、悪化してきていた。
そんな不安を抱えながら学園生活を過ごしていたある日、それは何の前触れもなく起こった。
その日は、生徒会室で悩み込んでしまい、結果仕事を片付けるのが遅くなって、かなり下校が遅くなってしまった。
「随分、遅くなったな……」
そう呟き、自転車置き場で自転車に跨りスマホを見ると、妹から「お兄、まだ生徒会なの?」という連絡と、プンスカと怒っている様子のクマのスタンプが送られて来ていた。
それを見て少し苦笑すると「今から帰るよ」と連絡する。すると、すぐ既読が付いて「了解!」と敬礼しているクマのスタンプが返されてきた。
早く帰らないとへそ曲げそうだなと思い、自転車を走らせ街灯が照らす夜道を駈ける。
俺の家があるのは、学園とは反対側の丘の上で結構距離がある。家が金持ちだし、過去に誘拐事件も経験しているから、車通学にしなさいと親から言われていたが、俺は固辞して自転車で学園に通っていた。
一応生徒会長だし、これ見よがしに車で通学していたら体裁が悪い。それに、長年の努力で沁みついてしまった故なのか、体を動かさないと落ち着かなかったのだ。
家路を急ぐ為、自転車のスピードを上げて坂道を下る。あまり良くはないが、人通りもない……なので、歩道をかなりのスピードで走る。
そして、家まで後10分ほどの距離に辿り着いた時、突如歩道の真ん中に人影が姿を現す。
「なっ!?」
咄嗟にハンドルを切って左へと躱したが、すぐに歩道脇の縁石が迫り、咄嗟に急ブレーキを掛けるが間に合わなかった。
ガシャンッという音と共に自転車は縁石に乗り上げ、ぶつかった勢いで自転車の上から、前のめりに体が投げ出される。
目前に迫るのは地面の景色……俺は1秒後に訪れるであろう衝撃から顔を守る為、咄嗟に腕で庇う――がいつまで経っても衝撃は訪れなかった。
不思議に思い、顔を覆っていた腕をどける。
「……浮いてる?」
目に移ったのは、制止した地面だった。俺は自転車から放り出された態勢のまま、空中に浮いていた。
「何だ……これ……」
状況が飲み込めない。一体どういう状態だ? 流石の俺も戸惑いを隠せない状況だった。
「危ないな……もう少しでぶつかる所だ」
ふと右側の歩道から声が聞こえる。空中に浮いたまま、そちらに首を巡らせて目を向けると、女が独り立っていた。
……綺麗な女だった。長い銀髪に赤い瞳、服から露出している肌は白磁のように白く艶やかな張りを持ち、スラリとした手足に、抱きしめたら折れそうなほど腰がくびれていた。母や妹で目は肥えていた筈だが、それでも見惚れるほどの美人だった。
「フフッ……だが、来て早々出会えるとは重畳。これも運命だな。早速だが、出発して貰おう」
そう言って笑った女は、パチンと指を鳴らす。すると、周りの景色がいきなり一変する。
そして、空中に浮いていた俺は、その空間に投げ出された。
「イテッ!?」
ドサッと乱暴に落とされた俺は、膝を地面にぶつける。俺はその痛みに耐えながら、周りを見回す。そこは、周りを大理石の様な石材で作られている一室だった。
だが、所々破壊されており、部屋の奥にはかなり大きな瓦礫の山が出来ている。
「な、何だよここは……どうなってるんだ? 確か俺は、家の近くの住宅街にいた筈だよな?」
定番だが頬を抓ってみると、しっかり痛かった。そもそも先ほどぶつけた膝もズキズキと痛みを訴えていたので、そんな必要はなかったのだが……。
どうやら大分、混乱しているらしい。そして、辺りを見回していると――
<ここは、私が作ったダンジョンの中だ>
と突如、部屋に声が響く。先ほどの女の声だ。
「ダ、ダンジョン? 一体何なんだ! 俺に何をした!!」
周りを見渡すが、あの女の姿は見当たらない。
<そう騒ぐな。頭の上を見ろ>
「頭の上?」
俺は言われるがままに頭の上を見上げると、そこにはウインドウらしきものが浮かんでおり、そこにはレベル1と表示され、その隣に俺の名前、そして下にHPとMPという表示と数値が映っていた。
「な、何だこれ?」
<ちゃんと見えている様だな。それに見た所、既に開眼もしている様だ。いいか? それがこのダンジョンにおける、お前の全てだ。そして、HPが0になればお前は死ぬ>
「はぁっ!?」
<では、頑張れ。無事に戦い抜いて生き延びて見せろ。私の愛すべき皇座の破片よ>
「お、おい!? ちょっと待て!!? どういう事だ!!」
そう叫ぶが、女はそれから一切返事をしなかった。
……訳が分からなかった。いきなり見知らぬ場所に連れて来られたと思ったら、HPが0になれば死ぬ? 戦い抜いて生き延びて見せろ? いくら何でも無茶苦茶過ぎる状況に頭がついて行かない。
そう思っていると、突如全身に猛烈な悪寒が襲い掛かる。そして、訳も分からず体が震え出した。
「な、何だ……体が……それに、凄まじく嫌な予感がする……」
すると、部屋に繋がっている2本ある通路の一方から、獣の様な唸り声が聞こえてきた。
……何か来る……それもとてつもなくやばい何かが……。俺は周りを見渡し、咄嗟に部屋の奥にある瓦礫の山に移動して身を隠した。
やがて、通路の奥から地響きの様な足音が聞こえてきた。