第9章 ひとつの宇宙の物語
存在しない点の内側、
何処にも存在しない今という時間、
存在する場所が確定出来ない生命、
そして「あなた」自身の存在する場所。
世界は実体ばかりである。
世界は実体の集合体なのだ。
本当の科学は
この実体の理解から始まる。
『無が存在するという概念は
完全無という世界が存在することと
同じ概念である。
これによって「存在する無」は
連鎖して「完全無」へと続く「ベクトル」である。
無の無限大の連鎖によって拡大する
完全無の世界。
その連鎖が同じ方向へと続くと世界は広がり、
異なる概念方向へと拡大すると新しい概念宇宙が生まれる。
この異なる概念宇宙が「次元世界」であり、
それを理解する学問が「次元理論」である。
あらゆる概念の方向へと
「同じ無が拡大する」こと、
それによって世界は「完全無」と同一の
ひとつの同じ「実体」である。
これが
「世界には何も存在しなかった」という
世界の本質であり、無の無限大の連鎖、
すなわち力学に統括される「存在する世界」の解答である。
この理解から知識は生まれる。』
「次元理論」の出発点となる概念は
「この世界には何も存在しなかった」
というただひとつの前提である。
したがってこの概念は、
我々の理解のおよぶ「知識の限界点」であり、
この理解が「あらゆる知識の原点」となる。
「無から全てが始まること」
その知識がモノとココロを統合し
存在する全ての概念を理解する大(超)統一理論なのだ。
このように次元理論では、
「完全無の実在」をその「知識」として認めている。
この「実在する完全無の概念」が
現代科学ではまだ認識されていない「実体」であり、
それが同じものとして
数学でも理解されていない「点」である。
「実体の無限大の連鎖」を
「力学」として理解する「次元理論」。
そして「無の連鎖の結果」が生みだした
新たな概念(しかし同じ概念を持つ)宇宙の出現、
これが世界の「多重次元構造」である。
これによって「次元世界」は現実に世界を構築する。
我々の宇宙に次元世界があるのは事実なのに、
現代科学の認識では
まだ神話の時代から何も変わっていない。
哲学もまた単なる言葉遊びである。
だがこの「多重次元構造」が
「次元共有の大原理」によって生みだされた
世界創造の仕組みなのだ。
この世界の構造は「完全無」を理解することによって、
はじめて我々に明かされた「世界原理」である。
そこでこの章では
その「世界原理」をまとめて
ひと通り整理しておきたい。
そうすることによって
「次元共有の大原理」が生みだす次元世界の性質と、
次元世界と次元世界の間に存在するその法則性が明らかとなる。
この理解は
今後も現れる新しい次元世界に適応する
「正しい知識」として、
この先の科学の指標である。
人間が物質世界と生命、精神世界を
同一のものとして理解していくためには
正しい知識が必要なのだ。
「次元共有の大原理」
*全ては無である ということ
*「存在する無(実体)」は「完全無という世界」であり、
単独で存在する概念ではない(無の連鎖が完全無) ということ
*無は「存在する」という概念(存在する無)を
共有する力学(連鎖)であること
*したがって世界は「多重次元構造」を持つ
(異なる枠組みの中にも同じものが入る) ということ
*したがって次元世界の実体は、構成要素が1つ加わるごとに
次の次元世界へと昇華する(実体の異なる概念方向への連鎖)
ということ (ここに等価原理が生まれる)
*したがってあるひとつの次元世界がもつ特定の性質は、
次の次元世界にも同じものとして引きつがれ、
その後のあらゆる次元世界においても同様に発現する
ということ
*したがって全ての次元世界は
単独で存在するものではない ということ
(全ての次元世界が同じひとつの概念世界である)
*したがってあらゆる次元世界は「実在する無の概念(実体)」であり、
無限大(完全無)へとつづく ということ
「実体」とは「存在する無」である
いま我々の目の前に「この世界が存在する理由」は、
ただこれだけの事実(無が存在すること)に由来する。
そしてこれは
「この世界が完全無であることの証明」であり、
実体が世界へと拡大し新たな実体となる
「モナドの力学」の科学的な根拠(等価原理)である。
上記に示された次元世界の性質は、
「あらゆる次元世界は概念を共有することによって同時に実在する」
という「次元共有の大原理」であり、
これは「世界原理」としてこれまでの我々が認識してきた
あらゆる原理や法則の最上位に位置する。
つまり「次元共有の大原理」を一言で表すと
「この世界には何も存在しなかった」という
世界のただひとつの現実なのだ。
これまでの科学による「原理や法則」は、
人間がその探求によって「見つけだすもの」であった。
しかし実際には
「世界に原理や法則がある理由」は
人間が発見するものではなく、
「世界原理」によって我々が理解しなければならない
「世界の存在する理由」なのである。
それを人間が創作する現状など
大きな間違いであり、愚の骨頂である。
既に我々は世界原理を知識として、
あるいはこの世界の全ての存在を理解して、
それを証明することができるのだ。
次元世界のあらゆる「実在する無の概念」は、
「0次元」が実在するための必要な条件(同じもの)として
「完全無」から生まれる(等価原理)。
そしてそれら全ての「次元世界の起点」が、
「無の集合体」として同じ実体なのである。
このように我々の大宇宙でさえも、
「完全無」が実在するために発現した
次元世界のひとつの姿にすぎず、
この宇宙の存在が現実をささえる
「全てのはじまり」となるわけではない。
この世界は多重次元構造をもつことにより
「あらゆる次元世界」を共有させながら、
(同じひとつのものとして存在する)
同時に実在するひとつの宇宙である。
そしてその「全てのはじまり」が、
世界の中心とその全てに同時に実在するただひとつの実体
「存在する無」であり、
それは未だこの世界を完全無として統括する。
したがって「次元共有の大原理」は
人智をこえた神秘の力などではなく、
それは単に多重次元構造がこの世界に実在するための
「必要十分条件」のことである。
前章までで主題としてきた「5次元物質世界」は
「4次元時空」と並列して発現しなければ
存在することができない。
そしてその「4次元時空」の概念は
「3次元空間世界」の概念に依存し、
3次元空間概念は、今度は2次元平面世界を
その世界の構成要素として
自らの存在の内側へと含む。
そのために全ての次元世界が
「無」が実在するためにそれぞれが必然的に存在する
「実在する完全無の概念」として同一のものである。
逆説的には世界がたしかに存在するという現実は
「無」が現実に実在することの証明であり、
もし仮に「世界が存在しない」というのであれば、
そこが世界の起点となる「0次元世界」である。
つまり「あるひとつの次元世界」は、
常にひとつ前に実在する
別次元の概念世界にささえられた異なる現実世界であり、
同様にその次元世界の存在は、
つぎの次元世界の実在をささえている。
これは広さの中の長さのように、存在としてではなく、
その世界の「概念の部分」として(同じものとして)
存在そのものを支えるのである。
それは結果として、
「ひとつの次元世界の存在は、全ての次元世界の実在をささえる」
ということである。
これまでの次元理論では、
次元世界の起源を「完全無」として位置づけ、
あらゆる次元世界は「無」を支えるための概念との
認識をもっていただいた。
けれども本当の次元世界は、
本来どの次元世界がかけても
その全てが崩壊する構造をもつ。
(同じものとして世界はひとつなのだ)
「次元共有の大原理」はその事実をあらわし、
全ての次元世界は
等しくこの世界の存続には不可欠な要素である。
「存在するもの」以外の次元世界では、
全てが「実在する同じ概念世界」である。
そして「0次元世界」とは、
ことなる場所に実在する異次元世界ではなく、
たとえば5次元宇宙においてはその全てに「共有される要素」である。
このように「次元共有の大原理」は、
この世界の多重次元構造の全てを統括し、
同時にその全てにも同様に含まれるものである。
すなわち「実在する概念世界」は
この世界の向こうがわにあるのではなく、
世界のこちら側、つまり我々の世界を
現実に構築する要素(部分)なのだ。
次元世界の多重次元構造も
「存在する無」というひとつの世界の内側である。
そのために実在する全ての次元世界には、
共通の性質、および共通項がふくまれている。
この「次元世界の共通項」を以下に三つ書き出してみた。
*「無の概念」が生みだす新しい次元世界も、
ひとつの同じ「無」であることに変わりはなく、
そのために次元世界は、その全てが「無の属性」をもち
「無限大」に広がる性質をやどす。
(無の無限大の連鎖が全体の完全無という世界である)
*あらゆる次元世界は「無」と同時に出現するため、
「次元世界」自体にはじまりや終わりの概念はない。
*ひとつの次元世界を現実につくりだす
「次元世界の起点となる無の概念(モナド・実体)」は、
常にひとつ前の次元世界によって生みだされた完全無の概念である。
したがってある次元世界のもつ「特定の性質」は、
つぎの次元世界以降にも同様に引きつがれていく。
そしてその「次元世界の起点」となる概念も、
やはり「無の集合体」であり「実在する無の概念」である。
(ライプニッツは実体としての「存在する無」が
現実世界を統括するモナドとして
同じものであることを読み解いていた。
哲学的、物理学的にも、
この世界の真理に一番近かったのは彼の思考である。)
このように次元世界の存在する理由が「次元共有の大原理」であり、
あらゆる次元世界に共通するただひとつの原理、
あるいは世界創造の法則である。
(次元共有の大原理…世界には無しか存在しないこと。全てが同じ
ひとつの無であり、無は連鎖、拡大する力学であるという理解。)
したがって、物理原理、生命原理、人間原理などの
あらゆる次元世界の内側にある原理、法則は、
実は同じひとつの「次元共有の大原理」である。
全てのもの大前提として、
「次元共有の大原理(ひとつの同じ世界)」は存在する。
人間はビックバン理論の誕生以前までは、
この宇宙が不変であることを長らく信じてきた。
それはこの世界に終わりが来ないことを願う
「人間の望む世界の姿」でもある。
しかしビックバン理論は、
何通りかの世界の終焉を提示した。
それに対して人々は、驚きと無関心をもって
この世界を議論した。
けれども次元理論は「成長する宇宙」という
さらに驚くべき現実をここに描きだしている。
そしてこの「世界は増殖する」という認識でさえ、
それは決して人間の理解をこえた虚像ではなかったのだ。
全ての原理は
我々人間にも「理解することができる」現実である。
我々は思い込みを捨てて
ただ現実に目をむければ良い、それだけのことである。
ではなぜ人間は、
その全てを「理解すること」ができるのだろうか。
あるいは理解することを望み、理解する努力を
続けてきたのだろうか。
それを知るためにも、
そして我々が何者かを知るためにも、
「この現実の宇宙」からつづくさらなる次元世界の存在を
我々は理解していかなければならない。
「人間」を含めた「この世界」を現実に構築する要素は、
「あるのにない」という「存在する無」である。
無限大に存在する大宇宙が
さらに拡大して広がることができるのも、
原子という「次元世界の起点」が「無の概念」をもつためである。
世界は「存在する無」であるからこそその連鎖を続け
「無限大」へと向かう。
「無の概念」はいかなる場合でも無の無限大の連鎖として
「完全無の概念世界」と同一である。
「無」だけが創りだすことのできる「存在する無限大」。
あるいは存在することのできない「無の概念」が、
永久に実在しつづけるために生まれた「次元世界」。
これらの現実は決して創世記や、詩文ではない。
「哲学」はあらゆる知識を理解したその後で、
我々が考えればよいことである。
世界を学び、そして理解する我々には、
まずは「無」からはじまる「正しい知識」が必要なのだ。
現実世界を正しく理解すること、
それが本当の「知識」である。
ではこの章の最後に
次元理論がここまで展開してきた
無の概念世界から物質世界までの「多重次元構造」を
まとめて整理しておこう。
簡潔にすることによって次元世界の持つ「共通項」は、
さらにつかみやすいものとなるだろう。
「次元共有の大原理」は
「全ての次元世界が同じひとつの存在する世界である」
という世界の存在する理由である。
つまり次元世界に「共通項」があるのではなく
「同じもの」として、世界はひとつなのだ。
こうして世界は等価原理によって統括される。
全てを現実世界のものとして、
この世界の「多重次元構造」をとらえていただきたい。
その知識が今後もつづく、
宇宙のさらなる深淵へと向けた我々の探究の手掛かりである。
「0次元世界」
次元世界の起点(実体)は「存在する無」である。
この世界には何も存在しなかった、という世界の起源が実体である。
実体が連鎖することは世界を構築する力学である。
その概念が「無が存在する」という現実から
この世界を「完全無」として拡大するベクトルを生む。
ここに「無(個)は完全無(全・世界)と同一である」という
世界原理が誕生する。
無は「なにもない」世界が「存在する」という
2つの概念の複合体である。
全く異なる内側と外側の概念が「ひとつの実体」であるために、
この世界は中にも外にも概念が無限大にあふれだしたのだ。
こうして世界は、
その内側と外側に無限大の奥行きが与えられている。
このように0次元世界は、
実体(実在する無の概念)の確定する概念世界である。
「1次元世界」
実体としての点が創りだす世界。
存在する無(点)は無限大の連鎖として完全無(線の概念)と同一である。
このように線の概念世界は
連鎖する点と「同じもの」として発現する。
この「同じもの」の異なる概念での枠組みが次元世界である。
そして線世界の構成要素は「点」ただひとつであり、
これによって線世界は1次元世界(構成要素がひとつ)と呼ばれる。
線の世界における「あるのにない」の「実在する無の概念」は
「存在をもたないのに存在する」点の概念である。
こうして点は、線の部分を持たない(長さを持たない)実体として
存在する「モナド」である。
存在する線世界(全)もまた、面世界の実体(存在しない、実在する無の概念)
として新たな次元世界の起点(個・モナド)である。
こうして無、同じものとして実体、さらにモナドは
無限大の次元の階層を連鎖していく。
全ては存在ではなく、存在する力学(連鎖)である。
「2次元世界」
実体としての線が創りだす世界。
存在する無(線)は無限大の連鎖として完全無(平面)の概念と同一である。
このように面の概念世界は発現する。
平面世界の構成要素は「線」と、
線を創りだす「点」の2つであり、
これによって平面世界は2次元世界である(構成要素がふたつ)。
面世界における「ないのにある」実在する無の概念は
「(面積をもた)ないのに存在する」線の概念である。
つまり線の概念も、面積の概念世界においては実体なのだ。
それは点と変わらない「同じモナド」である。
存在する面世界(全)もまた、
空間世界の実体(存在しない、実在する無の概念)
として新たな次元世界の起点(個)である。
こうしてモナドは拡大し、等価原理は世界を統括する。
「3次元世界」
実体としての面が創りだす世界。
存在する無(面)は無限大の連鎖として完全無(空間の概念)であり、
ここに空間の概念世界が発現する。
空間世界の構成要素は点、線、面の3つであり、
これによって平面世界は3次元世界と呼ばれる。
空間世界における「ないのにある」実在する無の概念は
「(体積をもた)ないのに存在する」面の概念である。
また面は空間の部分を持たない(体積を持たない)実体である。
存在する空間世界(全)もまた、時間世界(時間軸)の実体「今」
(存在しない時間、実在する無の概念)として、
新たな次元世界の起点(個)である。
「4次元世界(時空)」
実体としての空間が創りだす時間の流れる世界、時間軸の概念。
存在する無(今という空間)は
無限大の連鎖として完全無(時間軸)と同一である。
このように時間の流れる概念世界は出現する。
同一、つまり存在する無と同じものとして。
時間軸の構成要素は空間、面、線、点の4つであり、
従って時間の流れる空間世界は4次元世界である。
時空(時間をもつ空間)における「ないのにある」の存在する無の概念は
「(時間軸の長さをもた)ないのに存在する」今という空間である。
またこの空間は、
時間概念の長さの部分を持たないために実体である。
存在する時間世界(全)もまた、物質世界の実体(存在しない、実在する空間概念)
として新たな次元世界の起点(個)である。
「5次元世界(物質世界、原子と空間)」
実体としての時空が創りだす世界。
存在する無(切りとられた時空・物質世界の概念)は
無の無限大の連鎖として完全無(物質世界・宇宙)である。
「「このように次元世界の原則によって
原子は無の概念を持つ。
次元理論での物質は、
4次元世界から生み出されたものである。
空間に時間が加わったもの。
そこから生じるイレギュラーな空間が原子の構造なのだ。
つまり「力学を持つ空間」を
我々は「存在する物質」として認識している。」」
このように物質世界は、
原子もその宇宙空間も、
切りとられた4次元世界として無限大に拡大する。
誕生と消滅、すなわち「あるのにない」を繰り返す
無の概念を持つ原子。
従って物質世界の構成要素は時空であり、
物質世界(宇宙)は5次元世界である
(構成要素は時空、空間、面、線、点の5つ)。
物質世界における「ないのにある」の実在する無の概念は
「(物質として存在をもた)ないのに存在する」
切りとられた時空の空間概念(原子)である。
このために我々の宇宙は、
4次元時空に浮かぶ(4次元時空に張り付く)
5次元世界という構造を持つ。
またこの時空は、
物質の部分を持たない(存在を持たない)ために実体である。
さらに存在する物質世界(全)もまた、
生命世界の実体(存在しない、実在する無の概念)として
新たな次元世界の起点(個)である。
この為に「物質世界で発現した力学の概念は、
つぎの次元世界(生命)にも同じ性質、同じものとして
同様に引継がれていく。」
(切りとられた空間の構造や・重力、核力などの力学、
および無限大に広がるその性質など
全ての概念が生命世界に受け継がれたのである)
従って生命世界が
物質世界の構造と酷似するのは当然のことである。
生命世界は物質世界の力学を踏襲する。
次元理論によって
「0次元」から「5次元世界」までをまとめると、
以上のように総括することができる。
世界のはじまりが「完全無」であるからこそ、
「無限大」の世界は生まれる。
そのために世界は「多重次元構造」をもち、
全ての次元世界は「次元共有の大原理」によって
統括されたのである。
このように0次元の「存在する無」から5次元世界の「宇宙」にいたるまで、
次元理論でいう「次元共有の大原理」に一切の例外はない。
だからこそ宇宙はシンプルなのだ。
いま「我々のこの宇宙が確かに存在する」という現実は、
いいかえれば「完全無が確かに存在する」その同じ結果である。
この世界の全てが「無」である以上、
あらゆる存在もまた「無と同一の概念」である。
けれどもどこにも存在する事のできない「無の概念」が、
現実に「実在をつづける」為に、
あらゆる次元世界も「現実に存在する」。
その事実を理解できた時、
はじめて我々は知ることができるのだ。
この宇宙が生まれた訳と、
この世界が存在する理由とを。
けれども「存在に対する解答」を下すにはまだまだ
時期尚早である。
我々はまだ次元理論を学ばなければならない。
「この世界に対する正しい認識」が、
我々を「さらなる知識」へと導くのだから。
「無」は永遠に、
そして永久に「無」である。
それと同時に「存在する」という概念は
この世界を統括する。
その「完全無」の概念と同時に
あらゆる次元世界は発現したのだ。
その瞬間から
我々の宇宙は永遠であり、
永久に実在を続ける世界である。
しかし現代人は
この宇宙にも限界があるという誤った認識を生みだしてしまった。
たとえ130億年、150億年という枠組みの中でも、
それは人類にとっては途方もない時間であり、
人間が宇宙を永遠だと考えるには
十分だったのかもしれない。
けれども「世界はさらに成長する」という現実を、
我々は知らなければならないのだ。
成長をつづける世界を、
人間は理解して学ばなければならないのである。
我々が認識することのできない時間や空間をはるかにこえて、
この宇宙は果てしなく、
そして永遠に広がっている。
それがあらゆる可能性を肯定する世界である。
我々がこれまで認識してきた宇宙は、
実際の大宇宙のほんのわずかな一部分にすぎない。
人間は例え、いかなる方法を用いても、
この世界の全貌にせまることは出来ない。
つまり我々がこの宇宙に対する認識を何十倍、
何百倍に広げたところで、それでもやはり
「大宇宙のわずかな一部分にすぎない」という制限からは
永久にぬけだす事ができないのだ。
はじまりや終わりのない次元世界とは、
こういった無限大の広がりの中に存在する。
だからこそ我々人間も、
その「全て」を始めることができたのだ。
その中の「ほんのわずかな一部分」として。
あまりにも尊すぎる希少な奇跡として。
この大宇宙という認識の中では、
我々人間はなんと小さく、
なんとか弱い存在であることか。
そしてなんという短い命だろうか。
そのことに気づいた時、
人間は必要とするのだ。
この宇宙と我々人間とを結びつける
「絆」の存在を。
人間は地球上の生き物という視点からすれば、
あるいは暴君なのかもしれない。
生き物たちにとっての奇跡の星「地球」を、
自ら汚すことのできる唯一の生命体であるために。
そして「大宇宙」という視点からすれば、
あまりにも小さく、
そして幼すぎる存在なのかもしれない。
500万年というわずかな歴史しかもたず、
その知識や技術もいまだ限定的なものであるために。
だが理解が足りない。
人間はおのれの明確な目的も知らず
自由だけを与えられた存在ではないかと、
かつて人類をそう評した哲学者がいる。
人間はまるで、
一人で生きろと捨てられた
子供のようだというのである。
たとえ子供ではないにしろ、
我々は誰もが生きつづけること以外に
明確なビジョンを持てないでいることも事実である。
その自由を持てあまし気味の現状では、
我々は人間の存在が何であるのか、
あるいは我々はなぜ存在するのかと、
その存在についての「解」をつい探し求めてしまう。
そしてその解答としては、
人間が存在することは正しい、
もしくは人間は存在してもよいのだという、
人類にとっては良心的な答えを期待するのだろう。
これもまた人間の「甘え」なのかもしれない。
けれどもその甘えん坊も、
正しい知識を手に入れることで
いつかは立派に自立できるのである。
これは人間の一人ひとりが
「生きることへの確信を手に入れる」ということなのだ。
そしてその正しい知識へと我々を導けるものは、
この宇宙や自然といった「正しい存在」のみである。
その時に次元理論は、
この世界のもつ正しさを証明できる
「唯一の科学」となるのである。
我々が求める、
人間が必要とする知識がそこにある。
その為にいまは理解を続けよう。
知識を得るのだ。
「この世界のほんのわずかな一部分」である我々が
どれほど世界から渇望されて存在するのか、
どれほどわずかな希望と可能性であったのか、
我々はその事実を理解しなければならない。
次章「次元理論」は、
いよいよ命の起源とその生命世界へとせまる。
それは人間のもつ「自我の解答」へ近づく作業である。
それは人間とこの宇宙を結びつける、
確かな「きずな」が存在する証である。