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アカシック・レコード  作者: The third eyes
2/23

第2章 原点


大統一理論があると、

この世界はどのように変わるのだろうか。


大統一理論が成立すれば、

この世界にはただひとつの原理(力学)しか存在せず、

その原理に基づいて全ての宇宙は構築されたことになる。



同じ理由を持ち存在する同じ世界。

モノとココロにも共通する同じ原理。


これは「一元論」と呼ばれている。


これまで一元論は、

物質は不変のものであるが思考は創造されて忘れさられる、

という間違った思い込みにより破棄されてきた。


しかし現代人こそ、

自らの想いに宇宙があることや

物質にも始まりと終わりがあることを理解している。



この世界に変わらないものはない。



世界の始まりがひとつであれば

全てのものが共通した同じ原理を持つ。



その当たり前の現実を

否定してきたのが我々の社会や科学である。




しかし人間の脳内に、体内に、

命に、生き物の生態系の中に、

そして物質である地球上の至るところに

「宇宙が存在すること」は、

ほとんどの人間の周知する事実である。



科学だけでなく、

音階の中に、焼き物に、

ガラス細工に、数多の創作の中に

「宇宙を見ること」は、

芸術家達の仕事であり、

我々の喜びである。



では我々は何を基準に

「宇宙がある」

と感じるのだろうか。



広大さか、美しさに並ぶもののないことか、

整然とした圧倒的な奥行きか、

あるいはそこに秘められた無限大の可能性か。



ただ我々が感じる宇宙は、

確かにそこにある。



人間が想う宇宙には

必ず何故ここに宇宙が広がるのか、

という疑問が付きまとってくる。



大宇宙と

世界中に溢れた多くの宇宙、

そして

人間が人間の中に感じるやはり広大な宇宙。



科学が啓示できなかったとしても、

人間が感覚的に理解する「同じ宇宙がある」

という現実。



その感覚的なものを科学に(現実に)引き戻すものが

一元論、すなわち大統一理論である。




それによって示されるのは

人間とこの世界との絆である。


これにより我々は

宇宙と人間が「同一のもの」であることを

証明することができるだろう。



アインシュタインの発見した「等価原理」が成り立つ理由も、

ライプニッツの「モナド」が

人間の内側と外側を同一のものとする理由も、

その根底には大統一理論(超統一理論)がある。






いかなる時代においても

人間はこの宇宙の中に「世界と人間の解」を求めてきた。



我々は何者なのか。

人間はなぜ存在するのか。

そしてこの宇宙はなぜ存在するのか。



本来の自然界からは隔離されて

大都会で生きる現代人にとっては、

もはや馴染みの薄いことかもしれない。

けれども人間が生きるという事は

本来は「自然を理解すること」であった。



その中で人々は「自然と心を通わす」という行為を

ごく当たり前のように行ってきた。


これは動物や植物などの

生命体ばかりを対象とするものではない。

山や川、海や空といった無機物とさえ人間は

その言葉を交わし、

彼らの感情をくみ取ってきたのである。



一方自然界においても、

人間には恩恵と試練とを与え

その命を守り、支え、常に磨き続けてきたのだ。

我々を育てたのは自然界である。



母なる地球、大いなる山脈、荒ぶる海‥

現在も人間による自然賛歌は、

我々の伝統的な文化としてつづいている。



人々が世界と通わせる「心の動き」は、

人間にとっては素直で、不変的な感性である。


物理的、そして精神的にも、

宇宙や自然と人間は

決して切りはなしては考えることの出来ない存在である。



そこにある繋がりと結びつき、絆。

我々はこの世界から「学ぶ」ことで成長し

今もなお世界を理解することを必要とする。



我々がごく一般的に考えたとしても、

この世界は人間のためだけに存在する訳ではない。

実際に世界は様々な様相、

あるいは歴史をもち、

その一部分にのみ我々は

人間の生活環境をあたえられたのである。



人間が自然に対して抱く感謝や恐れ。


我々はそこに絆を覚え、誘われて、

これまでの間、科学や宗教を発展させてきた。

それは自然を理解し納得し、生き残る為である。

つまり我々は、感性と理性の結合を求めていたのだ。



人間の想いが投影される自然世界。



そしてその全てが

世界を求める人間の探求である。

これらの理解は、

現代社会においても変わることなく続けられている。



宇宙と人間とのつながり、

それをいつの時代も変わることなく

人間は追い求めたのである。



従って今もなお人々が求める

「大統一理論」とは、

実は世界と人間の「つながり」を

理解するための科学である。

「大統一理論」はあらゆる存在を統合する「大原理」が、

この宇宙には存在することの証明なのだ。



それは果たして、

科学では求めることの出来ない夢物語なのか。




直感的に唯一の原理の存在を認識するからこそ、

我々は宗教を認めてしまう。

いや、漠然と感じるのは

世界を巻き込むもっと大きな流れである。

そして科学とは、

事実としてその原因を解明することが目的であった。


答えを出せない科学と、

結論からしか話せない宗教。

その対立は人間の葛藤である。



我々が求めるのは本当のことだ。

それが科学である。



信仰心には影響されない科学。

逆に信仰心を理解することの出来る科学を、

我々は必要としている。




仮に我々が、

道に迷い家路を探してさまよう子供だったとしよう。

今はどんなに取り乱して不安に追い立てられたとしても、

無事に我が家に帰りつき、安堵することが出来れば、

その後は落ち着いて心穏やかに

暮らすことができるだろう。



これと同じである。

人間はまだ我々が頼って立つ場所がどこなのか、

それを理解していない。

ここがどこか分からず、何故ここがあるのかも知らず、

ただ怯えているだけなのである。





しかし大統一理論は、

人間にその居場所と仲間とを提示し、

我々に安定と支えられることによる強さを

与えてくれるのである。



世界から人間へと向けられた愛情。

その確信。



大統一理論は人間の有り様とその立ち位置を変えていく。


いや本当の科学とは

人間に真理を教え

我々に指標を与えるための学問なのだ。


それを成すことの出来ない現状の現実が

今の科学の未熟さを伝えている。



ここまでやや説教じみた論説となり申し訳ないが、

本来、世界と人間の結びつきは科学的なものであり、

同時に精神的である。



そして宗教とは

この科学的に未熟な部分を物語りへとつくり替え、

精神的な救済のみを強調したものである。



このために宗教の持つ歴史的な成熟さに比べ、

より劣っているのは科学である。

元々科学と宗教は

そのどちらがより「正しい」かを

判断するべき材料ではない。



これは我々が同じものを

同じ世界に求めた結果、

生まれた人間の希望である。



科学がもたらす情報は、

たとえそれが見えなくとも確信へと変わり、

人間が生きるための知恵となる。



だからこそ科学は「正しく」なければならず、

そこに未知の領域を残していてはならない。

ここでいう正しさとは

「現実」という意味であり、

それは個人のみが知る正しさではない。



けれども現在の科学では

未だに世界と人間の存在を確定することはかなわず、

各々の漠然とした思い込みのみが

現実として世界を引きとめ、

真実の姿をさらに不鮮明なものとする。




ここは重要である。


現代科学の

時間や空間が何かも知らず

それは昔から存在し続ける未知の概念だという認識は、

世界には原始から存在するとてもエライ人がいる、

などという非科学的な思考と

同じレベルの理解でしかないのだ。



それの何処が科学なのか?




だが人間の感情は、

この世界と我々の間には

何かしらの結びつきがあることを、

本能的に理解する。

心とどこかで宇宙が繋がっている感覚。



これはあなた自身が

内心で期待することかもしれない。

何か自分が特別な存在であって欲しいという願い、

あるいは世界に認められた(愛された)自分と

そこから生まれる強さを伴ったあなた自身の存在。



もともと世界に育まれた命である以上、

我々が外側の世界と自分の間に絆を覚えることは

当然である。



だが我々は感じているだけで

理解してはいない。

何故、という根本的な疑問が

まだ解決されていないからである。



簡単に忘れられてしまう

存在するかどうかさえ不確実な絆。



この絆の存在は、

数字や数式が万物の現象をあらわすのと同様に、

これまではごく「当然」のこととして扱われてきた。

自分が想うことと同じ、自分自身が想われること。

しかしこの「当然」という認識が不完全なものであり、

危険である。



問題は「なぜそれが当然なのか」という根底を

我々が理解できないことにある。



信じる者だけで成りたつ世界ではない。

知識は覚えるよりも

理解することのほうが重要なのだ。

人間はその理解した知識によって確立される。



人間を造るのは理解した知識である。



このために科学の原点に信仰はない。

人間が何故信仰心を持つのか、

それを理解できるものが科学なのだ。




つまり大統一理論では、

個人の信仰や思想に頼らない「科学的な結論」として、

数列や時間、そして宇宙や自然、

そして我々人間までの全ての存在が「同じもの」であり、

一つにつながっているのだということを

紹介できるのである。



それが理解できた時にはじめて、

人間は宇宙や自然から更なる恩恵として

我々が進むべき道の「啓示」と、

その「存在」に対する理解を

得ることが出来るだろう。



その理解が、

我々の信仰心が正しいことを証明する。

我々の科学と信仰心を統合してくれるのだ。

あるいは理性と感性の融合。




これまでの人類は

根本的な「なぜ」や「どうして」を

解決することが出来ないままに、

「それが前提である」と決めつけて

あらゆる科学をすすめてきた。



もちろんそれは仕方のないことである。

知識の前提となる「当然という認識」に

残されたままの疑問。



それでも科学は

ほとんどの場合、正しくあり続けた。

なぜなら科学とは、

まずは仮説を生みだして、

その後数多くの検証を通じ

最終的な結論を導きだすものだからである。



けれども科学者たちは

その「それぞれの科学」の「それぞれの正しさ」が、

根本的な部分では「あいまい」となり、

必ずしも全てが統合された物とはならないことに

頭を抱えている。

科学でさえも「信じること」を前提とした宗教と

変わりがないのではないかという疑問にまで、

人類はとうとう突き当たってしまったのだ。



極論として、

これまでの仮説と検証のみの科学では

すでに知識は限界である。



そしてそこから抜け出すためには

知識に対する「根本的な理解」が必要である。



数学、化学、生物学、物理、天文学、脳科学など、

すべての学問は統合されて初めて

科学は科学足りえるものなのだ。

始まりはひとつなのだから。



我々はこれまで「科学による証明」によって、

この世界にはさまざまな原理や法則が存在することを

明らかにしてきた。

けれども「本当の科学」とは、

それらの原理や法則が

「なぜもたらされたものなのか」を

我々に理解させるものでなければならない。



そこに前提があってはならないのだ。



真理の姿は千差万別か、

それとも統一理論が存在するのか。

その事でさえ判別することのできない現代科学では、

大統一理論の見知からすれば、

多神教か統一神かで争う宗教界とも

差ほど変わりはないのである。



科学の正しさは

それが「現実であること」に由来する。



大統一理論はこの世界の成りたちを

「次元世界」という枠組みでとらえ、

そこに現れる「次元世界の法則」を見つけ出すことによって

「新しい科学」を構築する。

その為に大統一理論は「次元理論」と呼ばれる。



この手法によって我々は、

既存の科学では探せだせない観点から、

この世界をより的確に深く捉え直すことができるのだ。

そしてこの統合された学問「次元理論」の中にこそ

我々「人間」もその姿を現わしてくる。




人間とは類まれなる偶然の産物であり、

かつこの宇宙における必然の存在である。




最終的に人間原理には傾かず

「0」からの理論のつみ重ねによって、

「人間とは何か」という疑問にも

解答を与えることができるのだ。



つまり「人間原理が存在する理由」を、

「人間原理とは何か」を、

我々は理解できるのである。



次元理論によって宇宙や人間のあいだの

「ひとつのつながり」を見つけだすことは、

この世界にある統合を見つけることに他ならない。

次元理論がもたらす根本的な解釈は、

我々がこれまで「当然」としてきた認識に対する

新たな証明と、解答である。





今の時代

人間は誰もがその心に不安をかかえ、

他人の影におびえ、否定をつらぬき、

防衛のための無関心を

常にその身へとまといながら生きている。



あるいは信念をもって生きる人々も、

その大半は確信をもって

「他人を否定できる強さ」をもつ人々である。



信念とはほとんどの場合、

その当人だけの「正しさ」にすぎず、

信念によって失われる可能性がある事も

我々は吟味しなければならない。



けれどもこの世界に本来「正しさ」などはなく、

あるのは単に価値観のちがいだけである。

そしてより重要な事は、

複数の価値観が共存できる世界を

我々が創れるか否か、という問題である。



人間の価値観は統合されてはならない。



我々は「異なる為に」、

「同じもの」から生まれた。

それによってお互いが拡大する

目的があるためである。

その力学のために、

人間原理には「個性の創造」が含まれている。




人間をとりまく孤立、

強要やその争い。

我々の求める正義はどこにあり、

我々は何を糧に、

これからの時代を生きぬけばよいのか。



もはや自らの垣根をまもり、

境界線を引き続けることによって平穏となる現代社会。

その結果、

視野を広げれば広げるほどに増す苦悩と、

上手にあきらめる事だけが生める安らぎ。



多かれ少なかれ我々は、

誰もが「争いと混乱」を

自分の中で共有させながら生きている。



けれども人間とは、

もっと優しく

もっと感じやすいものではなかったか。

あるいはもっと激しく、

もっとたくましいものではなかったのか。



私には「人間が生きる」という意味自体が

希薄へと向かっているように感じられている。

いやそれどころか人間自身が

自らの存在意義についての疑問さえ

抱いているようにすら思われてくるのだ。



人間はその人口が増加した分だけ

薄まってよいものではない。



けれども人間は、

既に無条件に「神なる存在」に全ての責任をおしつけて

すがりつけるほどにはもはや幼くもない。



我々は自らの存在意義を何かに委ねて流されるよりも、

その足で急流に立ち、

その激流でさえ自分自身の一部分として認める強さを必要とする。



次元理論を用いて

人々が宇宙と自然の「理」を理解することは、

それ自体で我々が

「人間に対する根本的な理解」を手に入れて

その「正しさ」を認識することへとつながる。



「我々は一人きりではなく

全ての世界に認められて存在する」そして

「あらゆる存在に支えられた

全ての世界の希望が人類である」ことを、

我々はその知識によって

理解することができるのだ。



知識とは人間がつくりだすものではない。

この世界の正しさが知識である。



その知識が

人間を育てるのだ。

そしてその知識を我々にあたえてくれるのが

この現実の世界である。



だからこそ我々は

この世界を理解しなければならない。




その知識は、

人間が放つ複雑な感情の中から

「本当のあなたは何か」を選択する。



このように自我世界は

世界の中心へとむかう

「確かな判断基準」を手に入れられることだろう。

そしてこの世界にむけられた正しい認識は、

我々が「生きる」という現実を、

その希望へとつなげる力にも変わっていくはずである。



我々は学ぶことによって、

我々を取り囲むあらゆる存在が、

全て納得のできるものへと昇華することに

気がつけるだろう。



我々がつき当たる

人間の身勝手さや理不尽さ、

そして孤独や孤立、停滞や淀み。


その全ての苦悩をつつむ寛容が、

人間自身にも、この世界にも、

もともと備わっているのだということを

我々は理解することができるだろう。



我々は日々、

多くの価値観と新しい世界を

生みだしながら生きている。

もともと人間が生きるということは

「創る」ことである。



当然生み出された世界は守られなければならない。

そしてその為にいま、人々は争う。

けれども我々が勝ち取り、真に守るべき世界とは

その「あらゆる価値観が共存できる世界」である。



我々はこの共存するという基準を守り、

「可能性」の芽を育まなければならない。



「目に見えるもの」は

人間の「知識」によって姿を変える。

もちろんこれは人間の成長である。

「世界は正しい」

だからこそ人間には無限大の可能性が宿っている。

その可能性を広げること、

それが我々の責務である。



人間としての傲慢さゆえにではなく、

この宇宙がつくりだした我々人間に

その宇宙が理解できないはずはない。

私には「人間がこの宇宙を理解する」ということは

この宇宙も同様に

「自らが待ち望んだことである」と、

そう断言することができる。



そこにあるのは「あらゆるものの願い」であり

人間自身の「本当の願い」である。



あなたが「今を生きる」ということは、

全ての世界が共通して願う希望なのだ。

我々は自分自身のために、

そして我々を支えるあらゆる世界のためにも、

この世界から「学ぶ」ことを

始めなければならない。




さて次章からは

この結論にたどりつくための手法を、

文字通り「0」から順番にたどっていく作業がはじめる。



宇宙の本当の始まりと

空間や時間の出現。

物質の誕生と重力の発現。

生命の誕生から

人間の自我世界の誕生まで。



私はこの機会に、

この宇宙がもつ本当の魅力とその真実を、

余すことなく皆さまに伝えられるように

奮闘する所存である。



どうか全ての皆さまに、

最後までおつきあいを願いたい。



この世界の正しさは

我々人間のもつ正しさである。


この世界の現実はすべて相対的なものであり、

人間の価値観もやはり相対的である。


あなた自身が世界であり、

ひとつの宇宙である。

さらに全ての宇宙には内側も外側もない。



この世界に存在する力学が

同じ等価なものとして

我々人間なのだ。


あなた自身もひとつの同じものである。

あなたの内側の「本当のわたし」が

この世界の真実の姿である。





さあ人間が何から生まれたのか、

その謎を紐解いていこう。


(宇宙の誕生は第4章からの記述です。)


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