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アカシック・レコード  作者: The third eyes
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16/23

第15章 我々は何処へ向かうのか(1) 「自我の本質」

生物としての人間の命を直接的に位置づけたのは

第6次元「生命世界」である。



「次元共有の大原理」によって

生命世界で命へとあたえられた原理や法則は、

そのままで第8次元「自我世界」にも

多大な影響をおよぼしている。



そしてこれまでも述べてきたように、

次元世界は広がるものであり

時間は流れつづけ、

そして生命世界は拡大するものであった。



その全てが世界原理として

無の完全無へと向かうベクトル、

あらゆる概念の方向へと連鎖する「存在する無」の拡大である。




この「世界原理」において

生命世界の種族拡大の法則は生存本能を生みだして、

生存本能もまた生命世界のさらなる拡大のために

精神構造を創りだしたのである。





そして精神世界もさらなる生命概念の飛躍をもとめた結果、

我々人間(広義的な命)は自我世界(人間的な命)を宿すに至る。





つまり「自我世界」にとっての命題も、

ほかの多種多様な生物たちと同様に

「拡大し創造する為に生きのびる」という目的に他ならない。

そのことが生命世界全体の繁栄、

生態系の拡大でもあるのだ。





第6次元「命の世界」と第7次元「精神世界」、

これら「生命の世界」が

その存在意義としてもつ「拡大する」という命題。




その「世界原理」が昇華した結果、

人間は第8次元として「自我世界」を宿している。

したがって自我は、

生きのこるという「生態系の命題」のために、

第6次元生命世界や第7次元精神世界からも開放された

「さらなる次元世界」である。




この「開放された自我」によって、

人間はその生存本能すらも

自らの手でたち切るという判断ができてしまう。

けれども本来の「自我世界」は

生命世界と精神世界の限界をこえて広がり、

「生態系の多様性」としての可能性を担うものであり、

同時にその責任を背負う。



つまり自我世界は、精神世界の一部分であり、

生命世界や物質世界の一部分でもあるということなのだ。




そのために「自我の本質」には

「生きていたい」という根本的な意志が、

支配力(本能)を伴って働いている。



したがって自我がもつ全ての空間の根底には必ず

「生きのこるための本能的な意志」が存在する。







次元原理においての「時間軸」は、

止まることなく永遠に流れつづける

空間概念の連鎖である。



そしてその概念の実在が、

物質世界にも「永遠に広がる」という構造

(次元世界の命題)をもたらしたのである。



この「移りゆく時間」という概念は、

全ての次元世界に「失われる概念」と

同時に「新たに生まれる概念」とを創りだす。


これが無の連鎖の

新しい概念方向への拡大である。


この連鎖は「(永遠に)存在する無」という

世界が現実に継続するための力学(原理)である。






したがって物質世界を共有する生命世界に

「生命世界拡大の法則」があるのも、

精神世界が死を恐れ遠ざけようとする「本能」をもつことも、

自我世界が「生きることを強く望む」のも、

全てはこの「時間軸が実在する」ためである。





「時間」がもち去るものは、

空間であり、物質であり、

命であり、感情であり、

記憶であり、全ての世界である。




だからこそ空間は

存在するために新たに連鎖をつづけ、

物質は何度も創りだされ、新しい生命が誕生し、

記憶を引きつぐための文化や文明も創りだされたのである。





自我世界の意志の力(希望)も、

失われるものだからこそ

そこに新たに生まれるものなのだ。






そしてこの「時間」という概念を

共有という形で創りだしたのが「空間」であり、

空間はもともと「無」が生みだした概念世界である。



「完全無」が「無限大」と同義であることは

これまで何度も言及してきたが、

極論としての「完全無」とは

「あらゆるものが存在できる唯一の状態」を指す。




ということは当然、我々の自我世界も

この「完全無」にささえられた次元世界であり、

「実在する無の概念」の連鎖によって

この世界に新たに発現した無限大の空間の一部分である。





ゆえに自我世界も「(モナド)」であり、

あらゆる概念が存在できる「次元世界」なのだ。




次元理論では我々の「自我」を無の属性をもつ

「第8次元世界の起点」として位置づけて、

存在に対する新たな概念として理解する。




第8次元を現実に構成する要素、

あるいは第8次元世界の「起点」、

あるいは自我世界の「実在する無の概念」、

それが我々の「自我」である。




そしてこの自我世界が無限大の広がりをもつ

「次元世界」であることは疑うべくもなく、

逆に自我世界が無限大に拡大する能力をもつことこそが、

自我世界が「無」から派生したその証明である。





多くの場合

自我世界の広がりが十分でない場合にかぎり、

人間は過ちを犯すものである。



次元世界として誕生した以上、

次元世界としての広がりを忘れた自我には、

次元世界としての存在を続けることは出来ない。





したがって自我が、

次元世界として実在をつづけたいのであれば、

自我は「広がりつづけること」を

その命題として持たなければならない。



もちろん自我は「実在の連鎖」を

その意志として望む。



連鎖する自我は世界の命題でもある。




そのために自我には

「知識的欲求」や「本能的な願望」、

「好奇心」などの興味や嗜好があり、

あらゆるものとの「出会い」の中に

自らの広がる場所を求めるのである。




そしてその全てが

「自我(思考する本能)の本質(もっと生きていたいと願う欲求)」

がもたらした、

我々の「自我世界の本能(求める希望)」である。 





自然や他の人々の自我という

数多くの「次元世界」が

この世界であなたとともに共存することは、

「一つの自我世界」が出会い

そして広がるためには

欠くことのできない条件である。



そのために自我は、

他人の自我やこの世界の他の次元世界が傷つき失われることを、

自我世界として恐れている。



そして新しい自我世界の誕生と新たな次元世界の創造を、

自我世界として喜ぶのだ。




こうして我々の「この世界」を見つめ直してみると、

我々が理解して共有するべき存在が、

まだどれほど多く残されていることだろうか。



あなたが繋がるために存在する世界と

あなたによって更に拡大される新たな世界。




我々の身のまわりだけでも

これほどまでに多くの価値観と

多種多様な世界が存在することは、

自我世界が待ち望んだ状態である。



さらに世界規模、宇宙規模としてみても、

人類は新たな価値観を、

そして世界はさらなる多様性を

今もなお生みだしつづけている。



その上我々は書物や記録、文化などとしても、

過去やあるいは異なる場所に存在した他の自我世界との共有も

この場所で同時に体験することができるのである。



おとなりさんからアウストラロピテクスまで、

道端のかすみ草からガンマ線バーストまで、

自我世界が広がりゆくためには全てが必要な

「自分とは違う他の次元世界」である。





それがあなたが

孤独で独立した

欲求を持つひとつの世界として

存在する一番の理由である。




「時間」が生みだした「自我世界」であるからには、

一つの自我世界には「かぎられた時間」しか

あたえられていない。



けれども現在は70億をこえる自我世界がこの地球上に存在し、

その自我世界のいずれもが、

今と未来に、そして過去にも、

つながりと絆を求めて広がりつづけているのである。



この一人ひとりの自我世界の拡大が、

我々の自我世界全体の広がりを

無限大のものへと近づけていく。



そのためにも全ての我々が

「他人とは異なるもの、その全てのものとつながる自我」と

ならなければいけない。





これまでの人類は、

必ずしも正しい存在ではなかったのかもしれない。


けれども自我世界は、

共有し共存することによって

「より正しい認識」を生みだすことができる。




我々は「広がりゆく自我世界が我々を導く」という現実を、

正しく認識する必要がある。



そして「広がりゆく自我世界」とは「あなた自身」であり、

世界をより窮屈で憂うつなものとさせるのが

拒絶や否定、排除や無視などの「閉ざされた自我世界」である。





自我は多くのものと出会い、そして共有しはじめて

「自我」へと育つものなのだ。



その自我の中で

新たな世界も育まれていく。



「わたし」という領域も、

本来はどこまで広がりゆくものなのか、

我々はその成長を理解しなければならない。




生命にとってのただ一つの現実である

「生きる」をもち去ってしまう「時間」。



「失われる概念」が「存在しつづける」ために発現した

あらゆる次元世界の延長線上に

人間もまた「生きつづけよう」とする意志をもつ。




このように世界原理としての「自我世界」を見直してみると、

「生きていたい」という生命世界の根本的な願い、

これこそが「自我の本質」として存在し、

世界の拡大へと連鎖するベクトルに

始めから変化はおきていない。



だからこそ全ての自我世界は、

この「自我の本質」によって支配され、

生き延びることへの

存在することへの欲求を

自我世界にも発現させたのである。





その為に「自我の本質」が満たされない人々は、

自我が生みだす希望や理想よりも、

その自我の本能を優先させてしまう。



法や道徳のまえにパンと水は必要であるし、

「話せば分かる」のまえに人間は、

自らの安全と安心とを必要とする。



つまり人間は、

この「自我の本質」を確立することが出来てはじめて、

人間足りえるものである。





これらのことはかつての出来事や、

あるいは発展途上国における、

というだけの問題ではすまされない現実を含む。




現在の日本においても、

政治家たちの理念が民衆の生活からかけはなれていくことや、

あるいは逆に選挙に行かない民衆が存在するなどの問題も、

ほとんどがこの点の無理解から生じている。



こういったケースでも

「自我の本質」を理解することができれば、

我々は自然と異なる論点において、

その問題を議論することができるのだ。



この場合論点のずれる政治家や

選挙に行かない市民のどちら側にも、

ほとんどの場合「否」はない。


政治家たちは自らの政治家生命のために、

そして市民たちは自らの生活のために、

ともに最善をつくしたはずである。



つまりこの場合問題となるのは

「選挙の制度」にあって、

個人や人間の問題ではないということが分かるのだ。


この選挙の制度そのものが市民たちに歩みよりを見せれば、

投票率は向上し、その投票率の上昇が

より大局的な見地にたつ政治家たちの台頭へと

つながったはずである。



現状のように投票率5割6割ていどの選挙では、

更にその半数以下の有権者の意思で、

全体の政治を動かす体制がつくりだされてしまう。



そしてこの2割3割の有権者たちも、

自分たちの生活に関わる問題のためだけに選挙に行くのだとすれば、

この有権者たちのほんのわずかな雇い主の意思こそが、

国民全体の総意ともなり得ることだろう。



この望まれない「国民の総意」によって、

政治家たちは働くのである。




そして今ある選挙制度とは、

かつての特権階級の人々のためだけに存在した制度を

そのままに引きついだだけのものであり、

現状全ての国民の生活にまで

寄りそえるものではない。



おそらく選挙に「行けない」人々、

もしくは候補者の主張を知りえないほどに多忙の人々の方が、

より政治的革変を必要とするはずである。



あるいは投票率の低下を

政治家や国民の責任へとすり替えることによって、

得をする人種も確かに存在するのだろう。



そもそも民主主義とは、

独裁者を出現させないための制度である。

それにも関わらず、民衆がカリスマ的政治家の出現を望むのは、

民主主義の運用自体に不備があるという実態をあらわしている。



シビリアンコントロールが完璧に働いていれば、

国民目線以外の政治家は、

政界にはもともと存在することができないはずである。



この根本的な問題が解決できないかぎり、

国民と政治家、この両者は

お互いがお互いを批判しあうに止まるのみである。



では国民の生活に

より寄りそう形の制度とは何か。





このように次元理論は、

現代でも我々が活用できる「学問」としての

価値をもつ。




自我がより広く拡大するためには、

まず何かと出会えるための環境、

そしてそのシステムが保障されていなければならない。



この点著者には、日本の民主主義や社会、学校などは、

その実用的な運用において、

まだまだ多くの難問を抱えているように思える。



企業が人を評価するのではない。

企業を評価するのは人である。

上役を評価するのは部下の仕事である。

部下を評価するのは顧客、あるいは取引先かもしれぬ。

その時にはじめて企業は、国政を評価しても良いのだ。

それの企業の求めは民意である。



資本主義として企業が成り立つのであれば、

その経営者は株主の支持ではなく社員からの支持を必要とする。

出資者に経営権はなく、

人々が満足した結果としての企業の業務や業績を

ただ監査する責任があるのみである。



そして国政も

こういった企業の求めには応じなければならない。




学校が生徒を評価するのではない。

学校を評価するのは生徒である。

学校が評価するのはさらに上の組織であり、

役所は評価される立場にある。



それがあってはじめて役所も、

国政を評価しなければならない。




おそらく選挙権をあたえることだけが、

民主主義ではないのだ。



国民はその代表者を選ぶだけでなく、

自らの生活を改善するための「主権」をもつ。

それはその方の職場や所属する団体と

直接的に結びつくものでなければならない。




人間が暮しやすいと感じる社会では

人間には創造力が生まれ、

経済も活発に動きだすはずである。

そこから新たな仕事は生まれることだろう。




「希望をもつ人々」の総数がその国の国力であり、

それを育てるのが家庭や学校、職場の役割りであり、

それを守るのが国家である。




「国」という概念が必要なのは

国民がそれを求めたからだ。

「国」というルールも、

おそらくまだ完成されたものではなく

我々はともに勉強不足である。



否定をこばむためにルールは必要であるが、

共有を進行するのに規制はいらない。

ようはその「共有」の先にある「希望」を、

どれだけ強く、そして数多く示せるか、だけなのだ。



そしてそれは、その当事者たちが決めることであり

議論とは部屋の中でするものではなく

外から向かい入れるものである。



多様性のある人々が集まればそこに一般論はなく、

その中で生まれる新しい解答が一般論である。

議論とはもちろん「共有すること」であり

「共有させること」から始まる

新しい創造である。




「創造はそこからはじまる」ものであり、

同時に「創造によって新しくはじまる」ものである。





ともあれ「自我の本質」から

自我世界が自由に広がるためには、

衣食住などの生活を維持できるだけの環境は

人間は最低限必要とする。


生存権、これが侵害されてしまうと人間は、

第7次元以前の感情や本能の活動を

自我の意思として優先させてしまうのだ。



このような状態では、

自我世界はその能力を十分に発揮することはできない。



さらにいえば、

この生存権をあたえることによる「自我の本質の呪縛」、

そこにこそ現代社会のゆがみのほとんどは

集約されてしまうのだろう。






人間力を引きだしたいのであれば

「自我の本質」を支えるための安らぎや安心感、

そしてそのつながりと希望を

自我はかならず必要とする。



このように「自我の本質の確保」は、

自我の能力を解放するための必要条件であり、

自我世界拡大のための前提となる。




さらに先の「自我の発現の章」でも述べたように、

自我世界と精神世界との間には

「相互にささえあい、ともに拡大する」

という次元原理は働く。


これは「相互の次元世界の共有」である。



自我世界をもつ人類にとって精神世界の拡大は

自我世界の拡大へと直接的につながるものであり、

自我世界の拡大は精神世界の拡大へと

同時に結びつくものである。



一見結末的には同じ「自我世界の拡大」へとつながるようにも見えるが、

その方法論としては、

この両者は全くことなる立場を取る。



精神世界の拡大、すなわち本能や感情の拡大が

自我世界を育てるということは、

恐らくそれに対する反作用、つまり反発からである。



そこに育つのは間違いなく「否定する心」である。

「世界」にたいする「否定」、「自己」にたいする「否定」、

「他者」にたいする「否定」、そして「死」にたいする「否定」。



けれども自我世界の拡大が精神世界を育てるというのは、

文字通り「豊かな精神世界を育む」という意味なのだ。

そこに生まれてくる「否定ではないもの」。



したがって「生きていたい」という「自我の本質」を確立、

あるいは強要することよりも、

より人間らしい「自我世界の確立」という方法が、

我々には残されるはずである。



しかこれも著者の無駄な意見かもしれない。


必要なのはより多くの多様性が集うことである。

そしてより多くの可能性が開かれることである。



多様性は受け入れる為にある。

統合こそが停滞なのだ。




人間がその存在を統合されるという事態には、

自我は反感と否定とをもって応えるだろう。



それは自我世界の可能性を奪われることに対する

自我のもつ潜在的な恐怖、あるいは怒りである。



しかし「自我世界はこの世界によって統合されている」という認識であれば、

それは自我世界の更なる開放へとつながる理解であり、

自我に安らぎと安定をうみだすための

人間の立つ土台となるのだ。



その理解が我々には必要である。



その理由と原理とを

我々は学ばなければならないのだ。

次元理論によって。

この世界の仕組みとして。



それが学問である。




「実在する無として生きる、不確定な人類」にとって、

その確固たる確信は「自我世界における安住の地」、

あるいは自我世界の故郷ともなるべき原点である。




ではこの「自我の本質」は拡大する自我世界において、

そこに何を生みだしていくのだろうか。

そして「自我世界を確立する方法」とは何か。



次章さらに、自我の向かうべき道を解読する。





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