第10章 「いのち」の生まれる世界
有機物は「失われる物質」である。
温度や湿度、環境のわずかな変化によって、
その分子結合はすぐに変形し消失する。
一般的に有機物は、
無機物ほどの安定した結合方法をもたない。
けれども有機物は
そのこわれやすい構造のために、
非常に多くの多様性にもとんだ結合配置をもつものである。
そしてかつての地球上にあらわれた有機物にも、
無限大へとむかう「世界原理」は働いた。
(無は無限大と同一であり
無限大は「広がり」と同じもの、つまり多様性である)
原始海洋の波うちぎわに集められた有機物は、
その波間のかたわらで幾重にもかさなり
より強い分子体を模索する。
それでも失われ続ける有機物は、
次々と運ばれてくる新しい有機物によって
順次補てんされていく。
この「失われる物質」が
「より失われにくい物質」となるための構造、
そこに「生命の原型」がある。
「自らの失われる有機物のかわりに
外部の有機物を取りこむ」という構造は、
「生きのびようとする有機物」と
「生きさせようとする有機物」との概念を一つに結ぶ。
その有機物の混沌の中で
やがて「生命の核」ともなる形は作り出されていく。
この特筆すべき現象は
有機物が有機物の中に入り込むという
有機物の2重構造が創り出されたことである。
生命世界は物質世界の「部分」として存在する。
その為に物質世界の原理とその特性は
生命世界にも同じものとして発現する。
すなわち生命が
「物質世界(原子)の存在する構図」を模倣したとすれば、
「重なりあった有機物」と「その有機物の抜け落ちた空間」が
同じ有機物内に同時に生まれたはずである。
重なりあった有機物は「生命の起源」として、
同じ種類の他の有機物をひきよせる構造(力学)をもつ。
ここでも「有機物の抜け落ちた空間」が
同じ有機物を求める
「有機物の重力」を生みだしたのだ。
生命世界の重力、それは「命の持つ本能」である。
こうして「有機物への力学」を所有する、
同じ有機物の2重螺旋構造が出現する。
これが最初の「生命」である。
次元理論によって構築される世界は、
我々の宇宙「第5次元世界」まで来て
いよいよ終結するものだろうか。
いや、そうではない。
この「物質世界」もまた次なる共有を生みだして、
さらなる次元世界へと昇華する。
無の無限大の連鎖は物質世界を貫き、
やがて新たな概念世界を拡大していく。
そして「物質世界」を糧に広がる新しい概念世界の出現、
これが「第6次元生命世界」の誕生である。
次元理論は
この宇宙が永遠の時間と無限大の空間の中に
存在することを明らかにした。
我々の宇宙では、
物質たちは日々「存在する」と「存在しない」とのはざまで
激しくゆれ動いているのだ。
その物質たちの無数のいとなみの中で、
ある特定の条件下におかれた特別な物質だけが
「生命」へと展開する。
それは新世界の創造であり、
新しい概念宇宙の発現である。
つまり「生命の概念」は、
たとえその世界は小さくとも(物質世界と比べると)
物質世界が生みだした新たな宇宙
「次元世界」として「存在」する。
生命世界が次元世界であれば、
これは今まで通り
「存在」にたいする、
新しい概念の発現である。
生命世界には確かに存在するのに、
物質世界のどこにもない「命の概念」。
そして物質世界には確かに存在するのに、
生命世界のどこにもない「物質の概念」。
このように「命」と「物質」では、
それぞれが「存在」する概念世界はあきらかに異なる。
同じ空間と同じ時間に同時に存在するはずなのに、
そこにあらわれた「別次元、別世界」の異なる概念。
すなわち物質世界から構築された
「生命」が織りなす新しい概念宇宙、
それが第6次元「生命世界」なのだ。
そしてその現実は、
我々が日々の「思考や経験」を通じては
十分に認識する現象である。
けれども我々の「思考や経験」において、
それはあまりにも「当然すぎる日常」であったために
我々がその事実を深く追求する機会は少なかった。
あるいはそれを考えても、
我々にはただ事実を認めることしか出来ず
「なぜそうなるのか」を理解するための「判断基準」を、
我々は持ちえなかったのである。
あえて取りあげるならば、
信仰や宗教、哲学などだろうか。
そこに科学的な視点はない。
つまり人間の思考の蓄積、すなわち「経験」のみが、
我々のもつ唯一の判断基準であった。
そしてそれは一部の思想家、
宗教家たちだけが求めた現実であり、
推測の域を出るものではなかった。
たとえば「死」という現象は、
「物質世界」を起点とすれば「命が失われること」であるし、
「生命世界」を起点とすれば「身体(物質)が失われること」である。
(「命は失われるもの」である。
しかし生と死は拡大の原理において同一(個・命)の概念であり、
それによって「生命世界(全・世界)は存在をつづける」ことができる。
「命」は生と死の連鎖によって
無限大の「生命世界」を育むものであり、
このくだりは単一の生命の不変性を問うものではない。)
しかしここで我々が認識するべき問題は、
この両者がともに「あるのかないのか」特定することはできない
「概念」になりうる点である。
そこには現実世界に存在する
更なる「実体がある」ことを、
我々は理解することができるはずなのだ。
このように生命世界の構造には、
我々がこれまで学んできた「次元世界の多重構造とその力学」が
明らかに構築されている。
すなわち「命」は
物質世界に出現した新たな「実在する無の概念」であり、
命が「生と死」によって生命世界を紡ぎだすものであれば、
それは点が「あるとないの概念」によって線世界を創りだすこと
と同じ現象である。
単一の生命は実体であり、モナドなのだ。
「存在する無」が持つ「あるとない」の正反対の概念が
ひとつの実体であること、
それが「生と死」をもつ「命の概念」が
同じ実体として生命世界を築き上げる
「完全無の原理」である。
「個は全と同一のもの」
この次元世界の力学により
命は無限大の連鎖をつづけ、
その概念世界を拡大することができる。
ここに世界原理は
生命原理とも「同一」だと理解することができる。
このように命は、
物質世界の生みだした新たな「次元世界の起点」であり、
その存在そのものが生命世界拡大の可能性なのだ。
そしてその実体の力学が命の次元世界に現れたもの、
それが本能である。
したがって「生命世界」の構成要素は、
「点×線×面×空間×時間×物質」の6つであり、
生命世界は「第6次元世界」に該当する。
もちろん生命世界も物質世界と同時に存在し、
物質の概念を共有する実在の「概念宇宙」である。
このように「命の概念」は
「あるとない」との狭間に位置し、
「生命世界(完全無)」をつなぐ
無数の「存在する無(個という実体)」である。
したがって次元理論では、
「生命世界をともなわない」無限大の大宇宙は、
この世界には存在しない。
この宇宙に、空間も時間も質量も
「全てが無限大」という条件が整えば、
物質たちはあらゆる条件下であらゆる結合方法を
ためすことが出来るのである。
「次元世界存続のための必要十分条件」として考えてみれば、
物質世界に依存しない生命世界はなく、
生命世界をともなわない物質世界もまた同様に
この宇宙には存在することが出来ないのである。
このように我々の宇宙では、
無機物から有機物が生みだされ、
やがて生命の誕生へとつづく「命のシナリオ」は、
あらかじめ確約されたものだったのである。
したがって有機物は
「無機物の多様性がもたらした特殊な無機物」であり、
そして「有機物の多様性が生みだした特殊な有機物の構造」
が生命である。
つまり「生命の概念」は、
宇宙における奇蹟ではあるが、
列記とした必然の中で創生される。
「物質」が永遠の連鎖を求める「空間と時間」であれば、
「命」とは永遠の連鎖を求める「物質」なのだ。
このように「次元共有の大原理」における結論としては、
生命世界の起点となる「命」も
他の全ての「次元世界の起点」と同様に
「存在する無」である。
それは「線世界」を構成する「点」と等しく、
生命世界を構築する唯一の構成要素「実体」である。
そして命が「存在する無」である為に、
命には無の永遠の連鎖として
無限大を生みだす能力が宿ったのだ。
これが生命原理であり、
ここに命の法則は生まれる。
本能という力学を宿した物質、それが生命である。
たとえ5次元世界に浮かぶ「ひとつの生命世界」が、
環境の変化などによって傷つき失われたとしても、
無限大に広がる大宇宙にとっての「生命世界」とは、
永遠に続きかつ無限大に広がる次元世界である。
そこには存在する全ての生命世界に共通する
同じ目的(使命)がある。
生命の概念を拡大し多様性を持つこと、
それが世界の持つあらゆる可能性を
同時に広げる事である。
したがって「無」や「物質世界」という
次元世界のつながりのその先に、
「生命世界」は存在する。
つまり「生命世界」は、
それだけでひとつの次元世界として、
ひとつの宇宙である。
そのために生命世界から
「本能(連鎖の力学)」という構成要素がぬけ落ちてしまうと
後には「物質」しかのこされず、
この「物質世界」が生命世界の基盤としての「無の概念」である。
逆に物質世界における「生命世界」も、
それはただの概念にすぎず、
命は物質世界に存在するものではない。
命は単に、物質世界のもつ構造のひとつに過ぎない。
このように「命」とは、
「無の概念」である物質世界をその背景として
「生命世界」という新しい次元世界を構築する。
そしてあらゆる次元世界において
「実在する無の概念」の向かう先は「無限大」であり、
だからこそ生命世界にも命題としての
「生命世界の繁栄(命の無限大へと向かう連鎖)」がもたらされ、
あらゆる「命の法則」は創りだされたのである。
つまり生命世界では、
「生態系」という形で命はお互いに支えあいながら、
生命世界全体のあらゆる可能性が模索されつづけたのである。
弱肉強食という形はその側面にすぎず、
その真意は生命世界全体の繁栄と「概念の拡大」にある。
こうして生命世界にも
他の次元世界と同様に「広がること」のみが、
その存在意義として与えられたのである。
つまり次元世界の存在意義を、
生命世界のもつ現実的な原理法則として位置づけたものが
「世界原理」なのだ。
したがってこの「次元共有の大原理」が、
「生命世界」を司る、全ての原理や法則を創りだした
唯一の現実である。
生命をそだてる奇蹟の星、太陽と地球。
生命を誕生させる命の石、有機物。
生命に飛躍をもたらす生命の秘法、遺伝子。
そのいずれもが「次元共有の大原理」によって
この世界にあたえられた「次元創造の力」である。
その為に命の一つひとつには、
その内がわに「次元共有の大原理」がふくまれて、
それぞれが無限大に広がる可能性を宿したのである。
命が単体としてもつ環境への対応力とその変化。
ある生命が種族としてもつ適応力とその進化。
生命世界全体をさらに広げる生態網とその多様性。
そのいずれもが「命」という
生命世界の構成要素にふくまれた、
「次元共有の大原理」の発現、そのものである。
無機物を有機物へと創りかえる植物世界、
植物世界を糧に広がりつづける動物世界、
さらにその下にはいつでもやり直しができるようにと
微生物世界が広がるという、
現在の生命世界がつくりだした構造。
この生命世界の望みは、
より強い耐性をもち拡大する可能性に満ちた世界を
創り出すことである。
そしてその根幹で世界を構築する力学が
「命は命と引きあう」という原理(本能)である。
全ての命は他の命に引かれ、
同時に命を求めるものである。
これは物質世界で原子が「重力」や「電磁力」をもち、
それぞれの物質間でお互いに引きあうのと同様に、
生命世界における「生命の重力」として発現する。
そして「原子と原子が引きあう力」が
この宇宙の重力から核融合反応までのあらゆる現象を構築するように、
「生命の重力」は生命の発現から生態網の形成まで、
その全てを司る生命世界の根幹である。
ではなぜ生命世界にも、
この「重力の概念」はもたらされたのだろうか。
それは有機物が「失われる物質」だからである。
有機物が「失われる物質」であるからこそ、
有機物にはほかの有機物を求める能力が発現する。
「重なった有機物の構造をもつ為」に
「失われた(求める)有機物の空間」がその周りに出現し、
その「失われた有機物の空間」が元の状態に戻ろうとして
さらに外側の同じ有機物を集める、という命の構造。
それが「命のカタチ」である。
そして「命」自身もまた「失われる概念」である。
「失われる命」が無限大に広がるためには、
「他の命」の存在が不可欠である。
すなわち命が「失われる概念」であるからこそ、
命はほかの命を求め、
新しい「命」を生みだすこともできたのである。
従って
「生命世界のもつ重力」と「拡大するための世界原理」が、
命に備わった「本能」の全てである。
こうして作られた遺伝子が
「求める有機物」であるからこそ、
遺伝子は他の有機物と結合し(遺伝子は周りの有機物を集める)、
この遺伝子をまもるために「生命体」は構築されていく。
おそらく遺伝子には
周辺の有機物を自らの内部に取り込んで、
自らの外殻にその有機物を構築する能力があるはずである。
これが環境に合わせることの出来る
生命の適応力なのだ。
そして遺伝子が「失われる概念」であるからこそ、
遺伝子には新しい遺伝子を創りだせる能力がある。
そのために生命世界における「遺伝子」の発現は、
生命により強い「重力の概念」を付加し、
生命世界に「生きのこるため」の、
あるいは「子孫をのこすため」の発達した「本能」を
あたえていく。
これも生命世界が
物質世界をその構成要素として誕生するために、
物質世界の力の根源「空間の復元力」が
生命世界にも同様に発現した結果なのである。
いうならば「空間の復元力」は、
無が無でありつづけようとする「無の絶対的な力学」である。
4次元世界の「時間の概念」が、
5次元物質世界にもあたえた「失われる」という構造は、
物質世界の全ての空間にも「存在するという力学」を発現させる。
そして生命世界も
5次元物質世界をその構成要素としてふくむために、
「失われる概念」が「その概念を求める力」として
全ての生命は「生命の重力(本能)」をやどしたのだ。
そしてその全ては
「無」が「完全無」であるために、
「実在する無の概念」が「実在する完全無の概念」となるための
「無の無限大の連鎖」である。
世界には力学はひとつしかない。
無が連鎖して完全無であること。
このように「重力」は、
「原子と原子」とを融合する力学である。
それは「失われた空間」が、全ての空間を引きつける力である。
そして「命の重力」は、
「命と命」とを融合する本能である。
それは「失われるはずの命」が
無限大の連鎖(完全無)を生むための構造である。
次元世界の概念はちがっても、
「原子」や「命」などの「次元世界の起点」に共有される力学には、
共通の世界原理「次元共有の大原理」が発現する。
同じ概念と同じ構造をもつ、異なる次元世界の住人。
だが全ての次元世界は
ひとつの同じ大きな世界の同じ部分なのだ。
この中に異なる概念世界などはない。
それが「次元共有の大原理」によって生みだされた、
あらゆる次元世界が同じになる理由である。
そのために「原子の誕生から宇宙の構築」までを理解することは、
そのままで「生命の誕生から生態系の構築」を理解することへと
つながる。
これはもはや驚くべきことではないだろう。
全ての次元世界は「世界原理」と共有するために、
あらゆる次元世界も「世界原理」によって統括されている。
それが「ひとつの世界」であることなのだ。
だからこそ現実世界には、
これまでの我々には理解不能であった「偶然の一致」が、
必然のごとくあふれ出したのである。
我々はそこに出現した統合性に気づき、
ある者は大(超)統一理論の存在を予感し、
ある者は同じ神による世界の創造を確信した。
そしてここで行われた著者による定義づけだけが、
「次元世界」の全てではないのだ。
この世界には、他にも幾つもの次元概念が混在する。
世界のもつ「多重次元構造」の意味を知れば、
この「世界原理」の正しさも、
同様に理解することができるだろう。
完全無を知ることによって宇宙を理解する。
宇宙を知ることによって生命世界を理解する。
生命世界を知ることによって人間の存在を理解する。
それが次元理論である。
だからこそ「無を理解すること」は、
「あらゆる存在の理解」へとつながるのだ。
したがって全ては「世界原理」の中に含まれた世界であり、
「この世界は力学の中心に存在する、存在しない世界」なのである。
その全てが
「この世界は存在する無である」
というただひとつの現実なのだ。
我々の認識からすると「命」とは、
短くもはかないものである。
そしてたくましく、可能性にも満ちあふれた存在である。
これは「命」が「無(個)」であるのと同時に
「無限大の概念(全)」を持つからである。
つまり「命」は
「あるのにない」という「無の概念」をやどし、
その拡大によってゆるぎない生命世界を構築する
生命世界の起点である。
このようにある次元世界の全てを構成する基本的な要素が、
次元世界の起点「実体」なのである。
したがって現実における全ての「次元世界の起点」も、
次元世界では同様の「実在する無の概念」でなければならない。
「無」、「点」、「線」、「面」、「空間」、「今」、「物質」、「生命」。
この全てが同じ、
それぞれの次元世界における「無」であり、
「次元世界の起点」である。
そう、全てが同じひとつの無なのだ。
存在する概念世界が異なるだけの
同じ「存在する無」である。
そしてその全てが「単独で存在する宇宙」であり、
「無が存在する世界、
無の無限大の連鎖として完全無と等しい次元世界」である。
「存在する無」は、
永遠に続く無の連鎖として「完全無」と等しい。
それは「無限大の概念」である。
だからこそ生命世界の起点「命」にも、
環境へと適応し、無限大へと向かうための
あらゆる能力が発現(力学の発現)したのである。
このように「生命世界」が
物質世界に「命」という構成要素が付加されて誕生した
別次元の新しい宇宙であることに、疑う余地はない。
我々の宇宙は、
現実に「次元世界」の概念のみで成りたつ、
「多重次元構造」によって構築されている。
つまりその始まりは「無」であり、
無である以上、
世界には未だに「完全無」しか存在しない。
我々が認識する「自然」とは、
生命世界と物質世界の両方が重なり合った姿である。
この両者は我々にとって常に
「正しい宇宙の姿」をしめす模範でもあった。
そして人間がまだ大自然にかこまれて暮らしていた時代、
人類が生きるために必要な知識とは、
この自然を「学ぶ」ことであった。
当時、彼らの創りだした思想や哲学が「正しかった」のは、
彼らにとっての知識が「自然への探究」から生まれた為である。
世界に実在する真実と、それをやどした自然世界。
そのことに人類も、最初から気がついていたのだろう。
だからこそ我々は、
これまでの長い歴史において、
この宇宙や自然をたえず見つめつづけてきたのだ。
自分たちが何者なのか、
その答えを探すのと同様に、
この世界はなぜ存在するのか、
その解答をつねに探しもとめながら。
そして我々の全ての疑問にも答えうる
「完全なる知識」が、
この世界には描かれていることを、
人々は確信をもって信じながら。
世界賛歌、人間賛歌、世界信仰、世界原理、
あるいはそれは芸術とよばれたものかもしれない。
我々はいつの日かそれが、
ひとつに結びつくことを夢見ていたはずである。
人々が自然から離れ、
部屋の中で数式とのみ向きあうようになったのも、
もとはといえばこの「自然」を理解するためであった。
学問もいつしか自然からは離れ、
数字や数式を基盤とするものへと変わった。
けれどもそれも、決して間違った歩みではないだろう。
世界を理解するというひとつの目的の為に
我々は分岐したのである。
そしてそこで生まれた多くの知識と
その共有があるからこそ、
この「次元理論」も
あらゆる知識の原点へともどることが出来たのだ。
自然を「知る」ための科学を、
自然を「理解する」ための科学へと変える、
それが次元理論の「視点」である。
この「次元理論」は「彼ら」の長きにわたる探究心にも、
十分に答えられる内容となったのだろうか。
あるいは彼らを満足させられる理論として、
今後も成長することは出来るのだろうか。
いま著者は切に、「彼ら」に問いかけることを願う。
次元理論の真偽を決定づけられるのは、
同じ「人間」でしかないのだから。
そしてその同じ思いから、
私はより多くの「あなた」へと、
この「次元理論」を届けたいのである。
我々が理解しなければ
世界は閉ざされたままである。
我々人間が
人間を孤独と捉えるのか、それとも
世界を自らと同じものとして認識できるのか、
それは知識によって
導かれるものである。
孤独のまま死ぬのか、
世界の希望として生きるのか、
その選択肢は我々にある。
私は無知であることが恐ろしいのだ。