序章・世界を証明する
我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこへ行くのか?
フランスの画家、ゴーギャンの絵画に
この問いかけはある。
人間はその“考える”という本能によって、
ある日突然に認識して自覚する。
自分自身が間違いなく存在するという現実を。
それは自分だけの視点を持った
唯一の「私」の発見である。
けれども人間は、
その存在する自分自身に対しても戸惑い、
得も知れず不安を覚えるものである。
これはひとえに人間の知識では
“理解することのできない事象”に対する驚きであり、
不確かな存在への怖れ、
あるいはためらいかもしれない。
具体的には一人称が必然的に伴なう孤独と、
不完全であるが故に生まれてくる心細さや不安。
「私は一体何者なのか?」
自分が認識する外側の世界とは異なる、
その内側に隔離された唯我の領域。
「わたし」にしかわからないもの。
「わたし」にさえわからないもの。
そこには必然的に問わずにはいられない衝動がある。
疑問を生みだすことを前提として創り出された
「私という存在」。
つまりこれは
人間が人間として生まれてきた以上、
全ての我々が抱えた「自我の出発点」である。
人間であれば誰もが逃れられない、
不満足からの際限のない渇望の始まり。
全ての人間の中心には、
欠落した空間のようなうねりを伴う枯渇がある。
この心の虚空が、
人間を突き動かす衝動を生む。
「求める」という力の始まり。
確定的にこの世界に存在する全ての物とは異なる、
揺らぎながら透き通る「私という存在」。
それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、抜け落ちた私という空間である。
そこには世界から切り取られて孤立する、
けれども厚みを帯びた自己の領域とその独我の時間がある。
だからこそ人間は求め続けるのだ。
私は一体何者なのか?と。
探求へと向かわざるを得ない、
人間の自我に仕組まれた求めることへの願望、
あるいは構造上の形態。
欲求。
人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。
その探求の先で我々が出会う現実は、
存在が非存在と同列にあるという理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。
そこに立つものは、
やはり生と死のはざまに位置する自我なのだ。
世界の内側と外側、あるいは生と死、
さらには時間の存在する今という存在しない時間、
その全てのはざまに存在する自我、
それが存在を持つ「わたし」である。
やがては消滅する
自分自身の自我に対する葛藤と疑問。
何故わたしは存在するのか。
今はまだ自我として保つこの歪んだ世界の厚みも、
やがてはこの狭間の消失と共に
この世界に還り広がりゆくものである。
あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことは出来ない、永遠や悠久という時間。
全てのものは必ず移りゆくのだ。
何故時間は流れるのか。
そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を調和として含むものである。
それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。
拡大する世界。
自我とて同じものである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくか、
自らに固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。
保存の原則などどこにもない世界。
では何故、全ての人間は探求者になるのか。
それは全ての我々が「願い」を持つためである。
希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつの時代も同じ「願い」である。
野生動物やより単純な生き物たちは
全て本能によってその行動を支配されている。
本能に従えば生き物たちは皆
より生きぬくための可能性を高めて、
命を引き継ぐ生命の営みにも
さらに貢献する事が出来るのだ。
このように本能は、命の拡大の為にある。
我々人間も同じである。
自我もその本能によって支配されている。
人間が願い、希望を持つことは、
それ自体が「自我の本能」なのだ。
自我が願い、希望を生み出すことは
生命体としての人間の構造から生まれた、
自我の中心で思考を支配する本能なのである。
自由意思によって人間は
「好きなことを考えることが出来る」と
そう思われていることだろう。
だが我々が持つ自由とは、
実は「選択する自由」だけである。
我々の思考には「求めるための本能」が
先立つ。
人間の感情はその自我の選択を承認し、喜び、納得し、
そして新たに願いを生み出す、その為だけにある。
このように生命としての人間の自我は
まずその中心に「願い」があり、
これは人間のもつ他の感情や想いとは
一線を隔てた特別なものなのである。
我々の自由意思を生み出すための「願い」と、
その願いによって育てられた感情世界。
あるいは感性という想いの渦から生まれた「願い」と
自由意思の集大成としてつくられる「希望」。
双方に行き来する精神世界と自我世界の同じ本能。
そしてこの願いを創り出す為に築かれた構造が、
人間の中心に位置する心の本体「虚空」である。
これが「自我の本能」として
我々人間を統括する「全ての人間の力学」なのだ。
表現を正確にしよう。
人間が願いを持つのではない。
願いのために人間が生まれる。
人間を創ったのは「虚空」と
そこから生まれた「願い」である。
喜びや悲しみ、憎しみや恐怖、
我々が様々な感情を持つことも、
全ては新たな願いを自我に与えつづける為である。
喜びを求め、恐怖を回避し、
満足に幸福を覚え、更に求め、苦しさをさける。
このように願いを創り出す為にこそ
感情は働いている。
そして生み出された願いは
人間の気持ちを安定させて、人間自身を強く育むのだ。
我々の心は存在する「願い」によって発達する。
人間に自我を目覚めさせるべく
存在する心の虚空、
その空虚を埋めるための切望、
それが願いである。
この願いによって人間は行動する。
つまり高度に複雑化した人間を取りまく環境の中で、
それに対応した人間を動かす力、
それが希望とも呼ばれる自我の本能なのだ。
我々は決して特別な存在ではない。
ひとつの原子が抱えこんだ重力。
自らを固める核力。
失われた空間が引きつける新たな空間。
人間は世界を認識し、
願いを生み出す事によって繁栄する。
人間の自我世界という生態系において
人がより良く生きる為に与えられた能力、
それが「願いを持つ自我」の正体である。
では何故人間の中心には
失われた空間があるのか。
その虚空が
何故他の世界を引きつけるのか。
あなた自身もその
失われた空間に囚われて
確固たる人間として成立している。
こうして見ると人間は
決して“考える葦”などではなく、
まさに「命を持つ願い」そのものである。
すべての我々が所有する人類に共通する力学、
人間とその社会を形成する源泉、
そしてあなた自身をも具体的に導く「願い」。
このように自我の正体は
「消えない願い」である。
つまりこれは「消せない虚空」が
そこにあること、である。
結論を急ぐ気はない。
しかし人間以外の全ての生命体も
この世界に存在する「同じ願い」である。
生命の本質は「存在する死」なのだ。
だからこそ生命は同じ命を求め、
希望とも呼べるそのつながりは輝き尊い。
存在する死は消えない空洞、
すなわち虚空と「同じもの」である。
しかしそれを埋めようとして
そこにベクトル、すなわち本能は生まれている。
命の理由。
「存在する死」という際限のない虚空がある。
この虚空が引き寄せる、同種の生命へと働く重力。
そこに発現するものが
本能という生命世界における力学なのだ。
生きることを願う死と、
命を維持し生み出す為にそこにある死の重力。
命にとって死とは
ただ無くなることではない。
存在しないはずの虚空、
その無が「そこにある」ということである。
生命は0からは生まれない。
本来存在するはずのない「死があること」、
それが命である。
すなわち「生きる」ということは、
「死が存在する」という状態である。
だからこそ存在する死は対価として同じ命を求め、
それは本能として、食物連鎖として
全ての生命活動を統括する。
これが全ての生命の基本形となる「生命原理」である。
死が求める命とは自分自身であり、
自分と同じ命であり、
自分の生を支える命である。
つまり動物の本能は「存在する死」から発現する。
「自我の本能」も同じ命である以上、
この生命の原型をたどる。
つまり生命世界のもつ「本能」は、
自我世界のもつ「願い」と同じ種類のベクトルなのだ。
本能が進化させた生命体。
その生命体がより優位な状況で
生命を繁栄させる為にうまれた人間の自我。
つまり自我は
元々の生命原理を模倣する形で、
あるいはその本能の一部分として、
「人間原理」を発現させている。
生命の中心に存在する死。
自我の中心に存在する虚空。
死と自我の中心にある虚空は「同じ空洞」である。
なかったものが確かに存在する状態の死と
存在しないものが確かにある心の中心の虚空。
あるのにない命と心。
死が命を求めるのと同様に
心の虚空は融合を求める。
願い、そして希望として。
存在する死が人間の源にあり、
その死が人間の探求心を生み出すのだ。
話をもどそう。
この生命の繋がりの中で、
死が創り出した人間に宿る必然的な探求。
我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処へ行くのか。
このゴーギャンの問いかけは、
人間の深層で最も単純化された
我々人間の持つ究極の疑問だと言える。
人間が疑問を持つのは、その認識力においてである。
そして人が認識力によって疑問を抱くものには
大きく分けて2つの種類がある。
他者と自分。
あるいは何かと自分。
つまりは世界と自分である。
この世界はどこから来たのか。
この世界は一体何か。
この世界はどこへいくのか?
つまるところこちらの疑問も、
ゴーギャンの同じ問いかけの表と裏なのである。
ではこのように人間の探求心の向かう先は
“世界と自分”の2種類で
本当によいのだろうか?
よもや自分の中に他の世界があったり
この世界の中にも他の自分がいるようなことは
起こり得るはずはないのか?
何故と問う、この世界と人間の先に
ぼんやりと見えてくる共通項。
人間は、あるいはこの世界は、
本当に存在するのか?
私は一体何者なのか?
もともと人間はこの世界の一部分として生まれている。
そしてこの世界もまた、我々人間の一部分である。
人間はそれを認識し、
それらを自らの内側にも宿すという意味において。
我々はこの世界を愛し、
かけがえのないものとしてこの世界を想う。
それはあたかも自分自身を愛するのと同様に。
そして人間は自分を忌み嫌い、おのれの影にも怯える。
それはこの世界を憎み、畏怖するのと同じである。
世界と自分。
さらに人間の感情は
その全てがこの世界の状態によって表現する事ができる。
同じ日、澄み渡る青空に
自分自身の心を浮かべて全てを受け入れる人々と
眩しすぎる太陽に目を背け世界を否定してしまう人々。
そこに見える景色は、
単に自分自身を写した鏡に過ぎない。
だからこそ詩人たちは歌う。
この世界は“全てのことが記された書物”であると。
では何故、この世界は我々の鏡となるのか?
人間がその瞳に写すものとは一体何処にある世界なのか。
人間とは何か?
この世界は何故存在するのか?
この世界と人間との繋がりは何か?
この世界を理解し学ぶことは、
そのままで人間理解、ひいては自分理解である。
これは正しい。
まずはこの世界が先に誕生し、
そのあとに生命が、
そして我々人間が「それを模倣して」生まれたのだから。
だからこそ人間は
他の生命に依存し、
この世界にも依存して生きている。
単純に地球やそこに生きる全ての生命、
我々人間も、
この世界の摂理に従ってここに存在する。
人間だけが特別に「存在する」訳ではないのだ。
人間は理解することによってそれを共有し、
自分自身を広げていく生き物である。
つまり理解したいという希望や好奇心の行く先は、
人間が必ずその中に広がることをその目的とする。
それは逆に、人間は理解できないことに対しては不安を覚え、
恐怖し拒絶するということである。
従って人間が世界を理解しようと努めるのは、
人間がこの世界を共有し、
その先に世界との融合を望むための正しい姿勢である。
自らが存在するという不安を払拭し、
この世界に安堵を求めた結果なのである。
この願いによって我々は
人間とその歴史を創造してきた。
人々を先へと歩ませる願いと、
それを生み出すためにある心の空虚。
この失われた心の空間を埋める為の前進で
これまでの間、人間は手探りで行進を続けてきた。
原罪とも呼ばれたこの心の空洞が何を意味するのか、
我々は未だ理解することが出来ない。
しかし全てを求め、全てを生み出すこの虚空が
人間の正体であり、全てを生み出す自我の源泉である。
この虚空は物理学によってしか
解明することができない。
我々が抱き続けた存在そのものに対する疑問、
理解できないことによる漠然とした不安。
そこにあるのは“存在”に対する
我々人間の無理解である。
人間とは何か。
世界とは何か。
人間は、人間とこの世界との「絆」を得ようとして、
これまでのあいだ科学や宗教を発達させてきた。
人間原理としての希望はその求めに応じ、
いつの時代も人間とこの世界の融合を望んだのである。
あえて言わせてもらうが、
ここでは融合したいと願うのも、
あるいは融合させたいと願うのも
「同じベクトル」である。
支配したいと願うのも
ひとつになりたい、誰かのために生きたいと願うのも
融合へとむけられた同じ想いである。
その願いが、人類の歴史とその営みである。
この人類の歴史の中で、存在に対する人間の探求も
あらゆる時代をまたいで今日まで引き継がれてきた。
デカルトや
ライプニッツ、
アインシュタイン、
夏目漱石や
宮沢賢治に至るまで、
彼らの強い探求心は
存在に対する明確な解答を導き出すことにあった。
人間は何故存在するのか。
我々は何者なのか。
無論現代に生きる全ての我々も、同じ探求者である。
すなわち人類の究極の探求は
この存在に対する疑問、
「何故私は(世界は)存在するのか?」である。
けれどもその探求は、
そこに考え方の相違が生まれ、
科学と呼ばれるものや一方では宗教を中心に、
あるいは哲学、芸術、さらには文学などとして
その裾野を広げてきた。
そしてその行く先それぞれに
新しい真理が生まれている。
新しい価値観の創造は、
人間としては共に喜ぶべきものである。
けれども元々ひとつしかないはずの真理が、
何故この世界には無数に存在してしまうのか。
唯一無二の統一神を信じる人々と
あらゆる対象に千差万別の神の姿を見る人々がいる。
実はこれも、全てのものに唯一の力が宿るという
共通の理解である。
全てのものに唯一の力が宿るのか、
唯一の力が全ての存在に宿るのか。
そう、それは科学的解釈において
原理は同じである。
探せばどこからでも同じ真理が見つかるのだ。
中世、科学と教会が対立した背景には
この統一した力学の確立という問題があった。
宗教が求めた神の統一力学の創造と同じ、
本家の科学でも最初は統一された
唯一つの力学の姿を求めていた。
その結果、教会と科学の対立は深まる。
だが近年では科学は挫折し、
業を煮やした人々は哲学や信仰へと
その突破口を求めたといわざるを得ない。
科学は本道を外れてしまい、
今やその正しさは信仰という非科学によって
守られているのかもしれない。
そう、ほんの僅かな昔まで、
人間は本能的に知っていたはずである。
あるいは学び、理解していたはずなのだ。
世界にはただ一つの真理が存在し、
それがあらゆる事象にも等しく宿っていることを。
現在の科学はその道を見誤り、
正しい方向性を見失っている。
我々は太古の昔より、
統一された唯一の力の存在を求めてきた。
自分自身の、あるいは人間の安定と
納得を創り出す為の知識の基盤として。
もちろんその証明には科学的実証が伴わなければならず、
かつ信仰としても
全ての人間を満たすものでなければならない。
科学が幼かった期間は
その証明も容易であったのだが…
融合を望むのは人間の力学である。
だとすればそれを理解するのが
善政であり、信仰である。
そしてそれを利用したのが悪政であり、狂信なのだ。
我々は知識としての「存在」を理解しない限り、
人間をこの先へと進めることはできない。
我々はこの先1000年も、
これまでと同じ悩みを抱えたまま
ただ過ぎゆく時間を眺める事しかできないのだろうか。
理解しないかぎり、
悲劇は何度でも繰り返されるだろう。
我々はいま、人間の歴史を新しく始める為にも
これまでの過ちの繰り返しに終止符を打つ為にも、
「存在する」理由を正しく理解して
世界を確定する努力を行わなければならない。
その為にはまず自分自身の存在、
人間の存在を確定することから
始めなければならない(信仰)。
それは同時にこの世界を確定する作業(科学)である。
我々は知らなければならないのだ。
我々には正しい知識と新しい科学が必要である。
これが学問を学ぶ本当の意義、
本物の科学「大統一理論」の目的である。
これはこれまでの探求の為の学問を
創造の為の知識へと変える、
人類の価値ある分岐点である。
私がこの作品で皆さんへと伝えたい学問は
この大統一理論である。
そう既に大統一理論は完成している。
この試みは人類の誕生とともに始まり、
近年、ライプニッツの単子論と
アインシュタインの等価原理を経て
今日やっと完成したものである。
ライプニッツの提唱する究極の単子モナドと、
アインシュタインの素粒子の探求は
同じ理由から始められている。
最小から始める理解と、
最小を探すための科学。
世界の原因を知るために。
彼ら自身も気づかぬままに、
「全てを同じモナド」とする単子論と
異なる存在と力学を同じものとする「等価原理」は
同じ探求だったのである。
この章の前半部分において私は、
「自我の本能」と「生命の本能」が
同じ本質的構造を持つことをお伝えした。
生を求める死の姿である「生命」と
融合への願いを育む虚空としての「自我」。
存在しないはずの虚空(死)が周りの空間をひきつける同じ力。
同じ構造を持ち、同じ作用と同じ目的を持つ同じ力学。
このようにすべてを統括する同じ力が
この宇宙には存在する。
これが大統一理論の証明である。
我々はまだ本質的な力学を理解していない。
物理学や時間の流れさえも
「同じひとつの現象」として
わたし達が存在することと何も変わらない現象なのだ。
そして大統一理論は「この世界の正しさを証明する」。
ここに発現した力学は、
生命世界と自我世界では「本能」と呼ばれ、
その同じ力が物理学では「重力」と呼ばれる。
当然、物理学の長年の矛盾であり、
統一理論を不成立とした
「4つに分かれた原始の力」も一つに統合し
重力と物質の本当の性質も明らかとなる。
これは驚くべき事ではない。
この世界が一つの摂理によって成り立つのであれば
全ての事象が一つに統括されるのは当然のことなのである。
もちろん人間の心の中の科学も
「同じひとつの力学」に集約される。
これははるか昔に捨てられた統一論であり、
一元論と呼ばれていたものだ。
全ては「同じもの」である。
さあこの世界と、この世界に存在する
全ての謎を明らかにしよう。
探求の為の学問を終わらせて、
創造の為の学問を新しく始めるのだ。
我々の宇宙は物質の誕生から始まったのではない。
本当の宇宙は点と線から生まれる。
質量とエネルギーだけが等価なのではない。
アインシュタインの等価原理は
存在するすべてのものを等価として統括する。
空間や時間でさえ物質と「同じ存在」である。
現代物理学では、まずこの時間と空間の問題を
正しく解決しなければならない。
この宇宙や生命世界に保存の法則はなく、
全ての宇宙は拡大することをその目的とする。
だからこそその力学において
現在も宇宙は「拡大」している。
これは現代宇宙物理学のいう空虚な膨張ではない。
「宇宙は成長する」
物理学も生物学も数学も哲学も、
今の我々には正しい知識が必要なのだ。
その知識は人間とこの世界を
安定したものとして確立する。
私は断言しよう。
あと100年以内にこの大統一理論の知識は、
全ての我々の常識とその始まりとなることだろう。
この作品の目的はその為の下地を
今の社会に創ることにある。
原理や法則の発見が
科学に与えられた役割ではない。
本当の科学とは
その原理や法則が何故存在するのかを、
我々人間に理解させる為のものである。
学問に覚えるものなど一つもない。
一つひとつから始めてその全てを「理解すること」が
本当の科学である。
前提のある科学など、単なる神話にすぎない。
ガリレオ・ガリレイが
望遠鏡を始めて宇宙に向けてから400年、
アインシュタインからもまだ100年しか経っていないのだ。
だから現状の科学が不完全である事は
ある程度仕方のないことかもしれない。
けてどもそれを「正しい」として
その権威にすがるのは愚かなことである。
我々民衆も盲目的に今ある知識を
信じるだけでは駄目なのだ。
ガリレオの見識を封じ込めた過去の教会と同じで
人間の無理解はまだ少しも変わってはいない。
その為にも我々はまだ
探求者であり続ける必要がある。
科学や学問は常に我々のそばにある。
新しい時代を創るのは正しい知識である。
我々は知らなければならないのだ。
私は科学者や大学、権威や通例から
本当の科学を取り戻したいと考える。
最後のガリレオとして。
いや科学者たちよ!
あなた方はまだガリレオになれるのだ!
あなた方の本当の願いは何だったのか。
この世界を理解する事ではなかったのか。
あなた方にはまだ、やることがある。
世界がひとつの現実から生まれたのであれば、
原理はひとつで
力学ももひとつしか存在しないことは
当たり前の理解である。
だがそれを考えようとしないのが
今のあなた方の科学である。
自らの生活や金銭のために、
空っぽの権威のために、
科学を切り売りしてはならない。
では次回からは
大統一理論の説明とその解釈に入りたい。
大統一理論はこの世界の正しさと本質、
そして存在する全ての疑問を明らかにすることだろう。
これまでの科学が正しく、知識は創り出すものなのか。
それとも
正しさが科学であり、知識は学ぶべきものなのか。
そのどちらがあるべき姿なのか、
その答えは明白である。
前提は人間が作り出すものではない。
現状では「正しさが暫定的なもの」である以上、
人間は目を閉じて自分自身を信じるか、
あるいは流されて偶像にすがるのか、
そのどちらかしか選べなくなっている。
だが全ての人間は
心には本当の信仰心を持って生まれている。
「求める心」である。
そこに苦悩が生まれる。
では何故人間は信仰心を持つのか。
全ては理解することが出来るだろう。
あなたが存在する理由も、
世界がここにある理由も。
さあ皆さん、
私と共に世界の「本当のこと」を見つけにいこう。
「この世界には何も存在しなかった」
そこから全ては始まっている。
解答もそこにある。
全ての我々は無限大(存在する無)である。




