黄河文明の源流
まずは以前話したことの整理。ミトコンドリアDNAのハプログループについての言及で、結論から言えばFの北方への拡散に南方ルートからの栽培作物を伴った移動ってのは間違いじゃないか?って点。その事は後で触れるとして、他にはmtDNAをまとめて整理する意味もこめて、Aの北方ルートはおそらく間違い。それはチベット族のAをふくむ率が高すぎるから。
これが何を意味するか?と言うと、チベット族がアメリカ移住組みとシベリアで接触した形跡可能性は0に近い。そうなるとチベット族がAを最初から持っていただが、その可能性は縄文人と同族って点でほぼ無い。過去の系統で特徴的なのはMかNの古いタイプかそこから変異した特異なハプロを持つことが多い。日本の縄文系からおそらくM7AかN9Bじゃないかと思われる。縄文時代にはN9B北方、M7A南方と言う特徴があったためC1A1やC2C1系の古いタイプのハプロも考えられる。どちらにしろDがAを持っていたのは考えにくい。
おそらくNからO2が貰ってチベット族に混入したと思われるが、他のハプロが中国人に較べて低頻度であるため古い時代にC2が持っていたものを貰った可能性は高い。中国人全体ではもっと多様なハプロがあり、かつ南方系のハプロが多い。後から書くがそれはFが強く出てるぐらいでいまひとつ弱い。ただAの他にDが出ているためOがもってきた可能性は十分にある。
それでもAが非シベリア組から出てるのは確かなので南方ルートが無いと否定するのは難しい。
Fとの絡みもがあるが、C2はおそらくFを持ってない。これは当然でアメリカに全くFの痕跡が無いのでC2は昔は無かったと見るのが当然だと思ってる。この点からC2は基本南方ハプロを持ってない。そこで疑問になるのがBになる。コテコテの南方ハプロ。これに関してはどうやらY染色体で見るのが不味いようだ。
むしろBを中心にYが適当にくっついてる感じがある。東西南北あらゆる方向にそれに適したYをつれて旅立ったのがBだと見ている。その北方海岸ルートの相方がC2だっただけだ。
Fが候補から外れる点でBの拡散と関係している。FはBに較べるさほど移住性が高いハプロといえない。じゃ何故北方でFが現れるのか?でそれは多分相方のYに原因がある。おそらくFの相方は漠然とO全体だと思われる。ただしO1AとO2には偏って含まれる部分がある。
O1Aに関してはそういう集団もあったとしか言えない。例えば南方のタイ族はそれなりに出る。だが、O1Aが含まれるミクロネシアポリネシアではFがほとんど出ない。大半Bになる。ここでYが移動したのではなくてミトコンドリアBが移動したと見る方が自然だからBも触れる事になると書いた。Bの相方はO1A少数と基本はO2になる。
O1Aと違ってO2の偏りには明確な法則がある。O2は大きく分けて以下のサブグループに分かれる。原ラピュタ人、O2a2b2(F3223)、騎馬民族、O2a2b1a2 (F114) 華夏人(漢民族)(東夷)、O2a2b1 (M134)秦人「O2a2b1a1a (M133) 」ミャオ族、O2a2a1a2、漢民族O2a1c (JST002611)。
この中で原ラピュタ人、O2a2b2(F3223)このサブグループにはFじゃなくてBが母系がプロの中心だったと推測できる。だがこの集団O1Aも含まれる。そのためBを中心に見てO系の南方ハプロが適当に相方として混在してる。これがFが含まれないO集団が存在する理由だと見ている。
この点O1B1はこういった偏りは少ないように感じられる。O1B1が出るインドの西ベンガルではFは出ない。この点は、少数民族ムンダ族として独立してるので、ムンダ族だけ取れば話しは変わると見ている。その根拠として、タミルと日本語の共通点の根拠としてO1B系の拡散が上げられる。タミルでは確率的だがデータによってたまにFやBが出る。全体としてはHのドラヴィダ系社会にそまってしまってO1B1は消えてしまったが、まだ母系では残ってると思われる。
じゃその間にいるムンダ族も出るだろうとの推測になる。ただしバングラディシュでは出ない。これも地域を絞れば出る。でもこれは別系統になる。バングラディシュを間に挟んで、インド領土が東に広がるが、この東部にFが高く出る。ただしこれは歴史的には全く別民族の移動になる。これはチベットビルマ系の移動で、むしろD系と混血したO2系の移動が主となる。
その点O2a2b1このグループの拡散にFが関わっていると思われる。ただし、古代は母系民族だったためでかたは適当になる。元々住んでいた西方の方が強く出て、日本をふくむ東北地方は出方が弱い。といってもしっかり出る。ただし東北地区はO1B1が何故か高頻度で含まれかつ、O1B2の移住地域なのでこっちの可能性もある。
これ以上の北にも実は一部変な出方をする。まずはバイカル湖。これに関してはO2と混血したNだろうと見ている。O2が消えた原因は、やがて母系から父系に変化してN系集団から消えてしまったと見ている。Q系のケット族からも出る。この点は高い頻度でNが含まれているため、そこからの混入と古い少数民族なのでランダムドリフトで高く出てしまってるだけと見ている。
ただしFがややこしいのは、ラピュタ人にはほとんど含まれないのに、おそらく原郷広東省や通り道である台湾には高頻度で出る。この点は、両地域で高い頻度のO1Aの集団で偏りがあったと見ている。これがBと言う母系集団で説明し無いと困難な部分。
Fと言う集団の相方となるY染色体が少数で移動したよりは、元々Fを持っていたO全体の拡散で広がったと思うほうが妥当。ならFに絡んだそういった謎の少数民族は無いというのが結論になる。
ただこれじゃつまらないから他のアプローチを取っていく。まず黄土高原は過去と今は違うって点の難しさを基礎として書いておきたい。黄河文明の舞台となる黄土高原はヒマラヤの隆起によって生まれたもので、ヒマラヤ山脈による雲の妨害が内陸への乾燥化を促したとなる。それゆえその時期となる250万年前からずっと黄砂は降り積もってきた事になる。
この常識があったため、見逃されていたが、黄河文明の初期にはあの付近は温暖湿潤な気候だったという点。そのため黄砂の供給源である、ゴビ砂漠とタクラマカン砂漠が今とは随分違っていた可能性がある。ゴビ砂漠は置いておいて、シルクロードが歴史時代より困難な移動ルートだと言えないと見ている。
ただし、それは可能性の話しで、そういった移動の形跡が合ったのか?は分からない。ただし砂漠が無かったのはない。完新世(一万年以降)から安定して暖かくなるが、そこから黄砂はぐっと減ったが、それでも安定して黄砂の堆積によって黄土高原は厚くなっている。これは砂漠が消えたというのは大げさって点だけは注意。
もう1つ寒冷化が一番の原因だが、人間の文明的活動のせいでさらに砂漠化が進んでる点も注意。寒冷化による砂漠化とさらにそれ以降の人間の活動による砂漠化によって、黄河文明初期と今とは環境が全く違う。
この前提条件が意味が出るのは、実はヤンシャオ文化の前あの付近の黄土高原の遺跡が少ない。しかもそれ以前には普通にそこで狩猟採取を行っていた遺跡は発掘されている。で、ここで、じゃ何故ヤンシャオの前にも遺跡が発掘されてるのか?だと位置がずれてるとなる。
位置がずれてるのをまとめて黄河文明としてる部分が大きい。そこで調べてみると、その空白時期の黄土の堆積が多かった事が分かった。そこで一時的な寒冷化が原因だと初期予想されたが、完新世の堆積量はそれ以前と較べると極端に少ない。多分今の人為的な砂漠化よりましだったと思われる。
そこで別の原因が考えられて、2つの状況証拠が見つかった。黄河の侵食後と、その後の文明が台地を中心に起こっている点。そこから、これは洪水があったのではないか?との推測がされている。
黄河文明は本当は初期周りから中心に向かっていく流れになっているって点。ヤンシャオの時代はかなり後でそれら回りから影響を受けた文化が終結した文化になる。これが何を意味するか?と言うと、ヤンシャオはいきなり高度な農業が完成された形で出来てしまっている。そういった文明は大体他所からの流入が考えられる。
中心から外れた西方の初期黄河文明はアワとキビのオーソドックな農業になる。ただし、栽培化された明確な証拠は無い。長江文明のように野生種と栽培種の混在からの発掘が少ない。無いわけじゃない、だが、これは長江文明の米でも批判されてるが、先祖返りと区別が付きにくい点。長江文明はこれに大して、多くの野生種と多くの栽培種という過渡期の状態が発見されている。
他にも基本作物の移動には祖先種の雑草混入が良くある。すでに栽培化が終っていてもアワの祖先種であるエノコログサが混入して移動してくるなどごく当たり前の事になる。日本が良い例になる。
かなり黄河文明の農業は歴史が古い。これで決定打じゃないか?となるが、この空白の時期が中々ややこしいんだ。西方にはさほど問題は無いが、実はやや南になる位置で賈湖遺跡というものが有り、これが初期黄河文明といわれている裴李崗文化に属するものとされている。この遺跡米が出ている。
じゃ長江文明じゃないのか?となる。もちろんこの遺跡裴李崗文化としてまとめて良いのか?で批判も多い。だが黄河文明としてまとめる点は異論が無い。それでもややこしい遺跡であるのは確か。長江文明の方が歴史が古いとされている。黄河文明の農業が長江文明に影響を受けたって話しはあまり無い。
だがこの賈湖遺跡に関してはそれをいう人が少数だが居る。栽培化の決定打となる証拠は今の所歴史の古さだけ。だがそれは長江文明ほどではない。さて次に、長江文明の担い手として1つタイ族がいる。少数民族ゆえにほとんど重視されない。だがいつから居たのか?は分からない。彼らの歴史が古いのは、春秋時代にすでに稲作をやっていた記録があるチベット系のハニ族の伝承にタイ族から教えてもらったと言うのが有る。
ただこのタイ族近年まで原始的な焼畑農業をして居た。そこから初期ハニ族は水田稲作ではなく、陸稲の雑穀焼畑農業だった可能性が有る。春秋よりもっと前になるが、雲南四川で焼畑を行っていた民族の遺跡からアワが発見されている。大体5000年前になる。ただしこの時期、アフリカからモロコシをふくむ焼畑農業を伝わったとの話しがある。
ずっとそっちだと私は思っていたが、それとは関係なく焼畑雑穀移動農業は行われていたので無いか?である。それと言うのも焼畑農業の歴史は古くて、多分伝わったものじゃなくて、同時多発的に行われた可能性が高い。東南アジア全体の焼畑農業は、このアフリカ式のものになるらしい。インドから伝わってきたマレーがその起源なのでマレー型とされる。
だが、それは完成系としてであり、原始的な焼畑農業はそれが起源だというほどの農業ではない。何故東南アジアで焼畑脳魚が盛んになったか?と言うと森林の存在が大きくて、森林さえ育てばどこでも発達する農業と言える。それゆえに山がちな中国東北地区で発達したと私は見ている。同様に日本も。
できうることなら熱帯で湿潤な気候の方が望ましい。その点東南アジアで盛んなのは当然って見方もあるが、それと歴史的な同時多発的な農業スタイルであるのは関係が無い。ようするに条件がイマイチな他の地域では定着しなかっただけだ。欧州でも過去行われていたらしいという調査がある。欧州は過去森林が多い地帯で、それを開拓して今の形があるのはそれなりに知られてる話だと思う。
おそらくH系がアワキビの起源地と関わってるが、それは中国にも東南アジアにもない。だが、そこからなんらかの形で接触した中国インドをまたぐ地域で活動してた焼畑農業民から中国に伝わって、最終的に賈湖遺跡など稲作限界地域から伝わった可能性があると見ている。
米以外が黄河文明でくくられるのが妥当だとの判断から陶器などから繋がりを私も感じてるから。
これは常識外れ、だが、賈湖遺跡から黄河文明の農業が長江文明に影響を受けた点は指摘してる学者も居る。次に考古学では居ないが、アワキビの起源地が中国ではなく、インド北西部アフガンあたりと見ている学者は多数居る。そして5000年前アワをふくむ焼畑農業を行っていただろう民族の遺跡が四川雲南辺りで見つかっている。最後にキビアワの栽培化は未だに確信的にそうだと言えるほどの考古学的発見は見つかってない。