教師の卵
祥子から抗議の声が上がった。
「ハル,もう少しゆっくり歩いてよ。ついて行けない。」
「・・あぁ,悪かった。」
祥子の普段の歩調はそれほど遅くなかったと思う。
自分がよほど早足になっていたのか。
ふう・・とため息をついた。
祥子と一緒だったのに・・,今の数分の間,何も頭に入ってきていないじゃないか・・。
くそっ・・唇をかみしめた。
余裕のない自分が歯痒い。
なんでもないのに。何が引っかかったんだ?
祥子は何と思っただろう。
最近だ。
祥子と会って以来か?
なにかがゆるんでいる。
油断か?
何に?
いや・・よくわからない。
でももう,とにかく,ぐらつかないようにしなければ。
地下鉄に乗った。
祥子があいかわらず自分の腕にくっついている。
「ねえ,次のお店って,どの駅で降りるの?」
「・・・N橋駅。」
祥子がクククッと笑い出した。
「ハルぅ・・。どうしちゃったの?それ,さっき通り過ぎたよ?」
「えっ・・まじで?」
「もうハルったら,何も言わないから・・・。わかった。わたしが案内するよ。」
「・・・ごめん。」
もう虚勢を張っても仕方ないなと自分で自分に呆れながらハルは祥子に謝った。
しかし,このあとの動き方を祥子に任せてしまうと少し気が楽になった。
そのまま2駅ほど乗り過ごして,ここで降りるよと促されて地下鉄を降りた。
自分が住んでいるところの駅よりも新しくてきれいな駅だ。
改札をでて階段を上がった。
「ここ,祥子の住んでるとこか?」
「そう。普段は地下鉄は使わないから,あまりこの駅には来ないんだけどね。うちで飲もう。気楽に。」
「・・・。」
組んでいた腕は改札を出る時に一度離れたが,祥子はまたハルの腕にするっと滑り込ませた。・・憎まれ口を言う気力はなかった。
しばらく歩くと広い通りを横切らねばならず,歩道橋の階段を上った。
その階段で歩調のタイミングがずれて,祥子と組んでいた腕がわずらわしくなった。
でも,今更ほどくのは間が悪い気がした。
途中のコンビニで祥子が何か買い物をした。酒のアテかな。
そこからは腕はもう組まずに歩いた。
ビルとビルの間の道を右に曲がって少し歩くと,小さな公園があった。このあたりは住宅街のようだ。そこまできて,あっ・・と気がついて,祥子の持っている荷物を持とうか?と尋ねたが,軽いから大丈夫と断られた。
サンダルを履いている祥子に合わせていつもよりゆっくり目に歩くよう意識した。
ハイツは3階建で,祥子の部屋も3階。エレベーターはなかった。
「静かで,いいとこだな。」
「でしょ。家賃もそんなに高くないんだよ。どうぞ。」
祥子が鍵を開けてハルを部屋へと招き入れた。
部屋に入ろうとして,あれ?と何かを思い出しそうになった。
何か違和感みたいなものだったのに,中に入ってしまうとすぐにわからなくなった。
祥子の部屋もワンルームだ。対面キッチンのようになっている。天井が高い。
「なかなか,おしゃれな間取りになってるな・・。」
「でしょう。気に入ってるんだ。と言ってもこのカウンターを使う場面って意外とないんだけどね。解放感あるでしょ?同じハイツでも他の部屋はまた間取りが違うんだよ。お家賃も2000円高いんだって。でもここにしてよかったと思ってるんだ。ほらあがって,そこに座ってて。」
窓際に少し高さのある木製のベッドがあって,下がちょっとしたクローゼットと引き出しの収納になっているようだ。そのカーテンがすこし開いてハンガーにかかった洋服が見えている。ベッドの上にも何枚かの服が脱ぎ散らかされていた。
部屋の真ん中には,毛足の長いラグが敷いてあって,白いテーブルが置いてあった。
「急な訪問だからね。掃除もしてないよ。細かく観察しちゃダメ。」
「そのわりには,まぁ,きれいだな。」
ふふっ と笑って,祥子は冷蔵庫から缶酎ハイをだした。
「ハルは?ビールでいい?」
「ああ・・・。」
ハルは,祥子が指さした座布団の上ではなく床に座って壁にもたれた。
祥子は,先にぷしゅと自分の缶のプルトップを引いて一口ごくりと喉を鳴らしてから,ハルにはビールを渡した。片手に缶酎ハイを持ったままハルの横に並び,さっきコンビニで買ったらしいお酒のアテを出した。
皿にピリ辛のアラレとピーナッツをザラッと袋から出し,そしてさきいかの袋を開けた,ポテトチップスとチョコもあるよ。と出してきてそれは封を開けずにそのままテーブルに置いた。
しばらくの沈黙のあと,祥子が聞いてきた。
「ハルさ。教育実習は行ったの?」
・・・唐突な質問だなぁ。
「なんだよ。教育実習?去年小学校に行ったし,今年は6月に中学に行ったよ。」
「楽しかった?大変だった?」
「まぁ・・大変と言えば大変かな。オレ,地元に帰って,実家から母校の田舎の学校に通ったんだ。知ってる先生もまだ残ってて,・・小学校のほうが変な学校でね。いや・・変なのは受け持ってくれた先生の方針なのかわからないけど,同じ時期に実習に行った中ではオレが一番たくさん授業やってきた。」
「・・子どもとはどんな接し方するのかしら。」
「・・普通だよ。素でしゃべってるだけさ。」
「授業って,そんなに即興でできるものなの?」
「いや・・。ベテランになると違うんだろうけど・・。」
次々と質問がつながってくる・・・。
でも,祥子が教育実習に興味があるとは思えない。
オレが言葉を発するように話題を振っているのかな。
何を期待してだ?
・・祥子の思考回路はオレの頭では理解しがたいからなぁ・・。
「・・実習の間は,一時間ごとに指導案ってのを書くんだ。導入から展開してまとめるまでのシナリオをね。バランスよく考えておくんだよ。最初に興味を引くようなこと言って意識をこっちに向けて,説明したり板書したり,ノートに書かせて,考えさせて発表させて。そして答えに導く。どんな質問をしたらどんな答えが返ってくるか予想してさ。授業が多かったからその都度書くのは結構きつかった。睡眠時間も削ったな。」
「はじめての授業は,緊張した?」
「まったく。・・いや?・・緊張してたかな?あんまり。」
「・・先生になるような人は,人前で話しても緊張しないのかしら。」
「どうだろ。陸上の大会や駅伝の時とかはオレも緊張したんだよ。でも,教室では全然。」
「陸上の時の緊張は,必要な緊張だよね。練習の時とでは集中力が違うもの。」
「うん・・そうだな。祥子は特に,跳躍はそのたったの数秒に集中だからなぁ。」
「・・今,思い出すのもイヤだ。」
「あ,・・研究授業ってのがあったんだけど・・授業を校長とか学年主任とか担当教員とかが観察するのがあるんだ。そんな時も緊張はゼロだった。」
「ハルの心臓すごい。」
「いや,そういうんじゃなくて・・外野を気にしてなかったんだろうな。見られていることにも気を遣うべきだったのに。でもオレ,その研究授業の冒頭でプリントを配ってからミスプリントに気づいてさ。アドリブでどこが間違ってるか生徒に探させるクイズにしたんだ。「間違いがわかる人,手をあげて。」ってね。まるでミスしてないみたいに見えるだろ?子どもらも気持ちよく訂正してくれるし。校長におもしろがられた。褒められたのか呆れられたのかは定かじゃない。」
「ははは。ハルはやっぱりできる子だ。」
「できないって・・・周りが見えてないのか無神経なのか,それがいい事なのかどうかも自分ではよくわからない。」
「休み時間や放課後には子どもと遊んだりするの?」
「人によるだろうけどオレは遊んだな。実習期間中は徹底的に子どもと時間を共有したかったんだ。それも担当の先生に笑われたね。こんなに運動場で遊んでばっかりの実習生は今までで初めてだってさ。帰ってからも子どもらがオレの実家を知ってて遊びに来た。山とか川とか探検したり・・なつかしかった。ガキ大将になった気分だった。」
「そんなことしてるから指導案を書く時間が無くなったんじゃない?」
「そうとも言うな。」
「でも,ハルは,小学校が楽しそうだね。」
「うん・・・来年からちょっと楽しみかな。仕事である限り楽しいばかりじゃないだろうけどな。」
ハルは,ビールをぐびっと飲んで,フルフルと振ってカンが空になったのを確かめてからぎゅっと片手でつぶした。