左手
あの飲み会からひと月ほどしてから,祥子からメッセージが来た。
「明後日の夜は,ヒマ?」
文字を打つのが面倒だったから,返事は電話にした。
1回目のコールが鳴り終わるまでに祥子が出て,こちらが声を発するまでにしゃべりはじめた。
「やぁ,ハル元気?飲もうよ。まだ忙しい?ちょっとぐらい出られるでしょ?」
卒論やらまとめねばならないゼミの課題もあったが,家から出られないほど忙しいわけではない。
「んー・・。」
あいかわらず高飛車と言うか,強引と言うか,人を馬鹿にしているというか。
「明後日の金曜日だよ?空いてないの?」
「・・・。空いてるな。」
「ふふん。じゃ,ハルの最寄りの駅まで迎えに行くよ。ごはん食べて,一緒に飲もうよ。6時でいい?いなかったら部屋まで行くからね。」
「やめてくれ。またパンツ取られる。」
「ああ,あのパンツ,ずるずる下がってくるし,スカートのシルエットがすっきりしないし,どうも快適じゃなかったわ。次に行く時はちゃんと自分の着替え持って行くから。」
「ばぁか。」
「あははは。じゃあ,明後日ね。」
「ああ,わかった。」
2日後,ハルは約束の場所に10分前には着いていた。
祥子は女子にしては長身だからかなり目立つ。本人は169cmだと言うがどうだか。
170cmあるんじゃないかな。
改札から出てくるのが遠目でもすぐにわかった。この前はスカートを履いて女っぽかったが,今日はジーンズだ。少しだけヒールのあるサンダル。羽織っているジャケットがおしゃれだった。
「さすが,きっちりやさん。時間ピッタリだね。」
「毎度家まで来られちゃ,たまらないからな。」
「何か食べてから行く?中華?パスタは?」
「・・祥子,なんか今日は機嫌がいいな。」
「そう見える?ふふふ。ハルとデートだからね。」
「デートじゃないだろ?」
「二人で飲めばデートでしょ。」
「・・・帰りたくなってきた。」
「あら,それでもいいよ?ハルの家でも。」
「やめろ。」
何を食べるかは考えていなかったが,駅前通りの飲食店街の店のどこかで腹ごしらえをしてから場所を移動して飲むか・・と適当に考えて歩きはじめた。
今日は祥子が無駄におしゃべりだ。
「ハルの近所って,なんかいいねぇ。そんなにざわついた雰囲気はないのに,駅の近くにはよさそうなお店がいろいろあって。あ・・中華はどうなのよ?そこの中華やさん,おいしい?」
「ああ,そこ餃子がうまいんだ。久しぶりに食いたいな。」
「じゃあ,ごはんは中華にする?」
「そうしようか。・・そのあとバーに行く?」
「なにそれ,バーだなんておしゃれ。」
「地下鉄に乗って移動だよ?まだやってるのかな・・。」
「そんな昔にバーなんて行ったの?なまいき!」
「2年以上前だけど・・たぶんやってるだろう。そんなに高くなかったと思うんだ。」
「あら,私がおごるのに?」
「・・なんか,おごるのもおごられるのも抵抗があるなぁ。」
「素直に喜べばいいのに。」
一人ではあまり外食をしなかった。
居酒屋のまかないもあったし自炊も結構気に入ってた。
この中華料理店には,シュンが遊びに来たときに時々食べに来たのだ。
シノブともこの店の前を歩いて,同じように餃子がうまいんだと教えた。今度食べに来ようと話をしてそのまま来れずじまいだ。
そして今,祥子に話をしたバーは,シノブに連れられて行った店だ。
それしか思いつかなかった。
バーのことなんて,あれから一度も思い出さなかったのに,今何故,祥子と行こうとしているのか?
オレは,祥子と一緒に行くことで,記憶を塗り替えようとでもしているのか?
「大きいね。ここの餃子。」
「そう,皮から作ってるらしいよ。通の間では有名なんだってさ。それにそのあんかけチャーハンも,おいしいだろう?」
「うん。おいしい。」
祥子は,ヒソヒソ声におとしてささやく。
「お店はあんまり綺麗とも言えないけど,こういうところのほうが穴場的においしいよね。」
「そうだな。」
「男の子が来るお店って感じだよねぇ。・・あのエビおいしそう。食べてみたかったな。」
「追加で頼む?」
「いや,もう無理。飲む分の隙間をおいとかなくちゃ。えへへ」
祥子が嬉しそうで何よりだ。
コイツが喜んでオレが何故満足しているのか,よくわからないけど。
いや,いやまぁ。自分がうまいと思っている物に同意を得られたら気分もいいよな。
シュンもここの餃子は喜んでたしな・・。仕方ない,ここは俺がもとう。
「ええ?今日は私のおごりでしょ?」
「ここは俺のテリトリーだから,次のバーのほうを頼むよ。」
「ふうん。いいけどさ。」
会計を済ませて店から出て,来た道の在来線の駅前通りには向かわず地下鉄の駅の方向へと歩く。
祥子が,ハルの最寄りの駅まで迎えに来たから,帰りは祥子の最寄駅まで送りとどけて帰ろう,とぼんやり考えていた。
「安藤が,祥子のこと,美女だってさ。」
「あら,なかなか見る目があるね。」
「ふっ,中身も知らないでな。」
「・・なによ。」
「男をグーで殴るような奴なのに。」
「最近はもう。そんなことしないわよ。」
「本性を隠すようになったのか?少しは学んだな。」
「ハルは・・また殴られたいのね。」
救急車のサイレンが遠くに聞こえた。
ハルは少し顔をしかめた。日常でもよくある音なのに,今日はとくに神経にさわる。
自分たちがあるいていく進行方向に,ちょっとした人だかりができていた。
ハルの足がぴたりと止まった。
「どうしたの?」
「人が,倒れてる。」
「え?」
夜だからはっきりしないが,遠目に道路に人間が寝転がっているように見えた。
「酔っ払いじゃない?」
「事故だよ。・・原付のバイクだ。今,誰かが起こした。」
祥子が怪訝な顔をしていた。
事故のようではある。確かに人が道路に横になってはいるが,手を動かしたりしているようだから意識もあるのだろう。おそらく,たいしたことではない。野次馬以外は横をすり抜けて通っているから,自分たちも素通りすればいい。
そう思ったのに・・足が動かなかった。
足を一歩出そうとしても,そこに壁があるかのように進めない。
え・・?
自分でも焦って,すぐそばにあった外灯の柱に右手をついて体を支えた。
「どうしたの・・ハル・・。」
「ちょっと・・待って。」
「どこか,具合悪い?」
「いいや。」
10月だというのに汗がにじんだ。
自分の左手が,シャツを握りしめるようにみぞおちのあたりを押さえている。
無意識だった。
祥子が顔を覗き込んでいるのに気付いて,その左手の拳をゆっくりと広げて,しわになった服をぱんぱんと整えた。
「違う道を・・通る?」
祥子は今来た道を引き返そうと気遣うようにハルを引っ張った。
「いや,なんともない。なんでもないよ。」
自分の首を押さえて鼓動と呼吸を意識した。・・ゆっくり息をする。
うん・・なんでもない・・足も,もとどおり動く。
ハルは,反対方向へと向きを変えている祥子を引き留めて,そのまま現場の方へと歩き出した。
サイレンの音が少し近づいてきたような気がする。
寝転がっていた人が上半身起きあがったのが見える。怪我がどうかわからないがとりあえず無事なようだ。
ハルと祥子は他の通行人と同様,その現場の脇を黙って通り過ぎた。
さっきのサイレンが自分たちが通り過ぎた後に,間近でぴたりと止んで,救急車が到着したのがわかった。
祥子が後ろを気にして,何度か振り返った。
「大丈夫そうだね。さっきの人,立ちあがったよ。」
「よかったな。・・気にしなくていいさ。」
あ・・いつのまにか祥子が自分と腕を組んでいる・・・気づいていなかった。
この腕は・・いつから?と思ったが,それも口に出さなかった。
眉間に力が入っていた。しかめっつらをしていたのか。
ハルはそっと息を吐いて眉間のしわを伸ばし,全身の力を抜いた。