ホットサンド
しばらく祥子を見下ろして,少し乱れて頬にかかっていた髪を耳へと,動かしてよけた。
同時に祥子は眼を閉じた。
そうっと頭を抱いて,今度はハルからキスをした。
さっきは「違う」と言ったけど,そんな感覚,飛び越えてしまうぐらい簡単だ。
祥子とオレの関係なんて,どうなろうと,どうしようと勝手なんだ。
どっちかから壊してしまったってひとつ進むだけ。
祥子だって構わないと言っていた。
それでもいいと思ってここに来たんだろ・・?
でも,ハルの頭の中で小さな小さな小さな警鐘が鳴る。
無視してもいいぐらいの壊れかけの警鐘。
これは,たぶん罪悪感だ。
でもこの罪悪感はなんだ?
さわってはいけないものに触れたんじゃないのか?
自分にそんな資格があるかどうかが,わからない。そこんとこだ。
抱いていた祥子の頭を,またそっと離した。
祥子も,薄く目を開いた。
・・今まで大事にしていたのに,それを一気に壊してしまいたい衝動・・。
本能のままに。
でも,それを踏みとどまらせているものの正体が,自分でもわからない。
「このまま最後まで行きたいって・・男子たる本能はあるよ・・。でもいやなんだ。・・いやじゃないけど,ダメなんだよ。あぁ・・ダメじゃないかもしれないけど,いざとなるとダメになるかもしれないし,・・・やっぱり・・無理だな。」
そう言ってまた仰向けに寝転がった。
「・・ハルは・・・。複雑なんだね。」
「そう。複雑。自分でも何を言ってるのかよくわかんないね。」
「わかった。やりたいけど,ちょっと我慢するんだ。」
「・・・随分簡単に言うじゃないか・・・近いけど・・ちょっとニュアンスは違うんだがなぁ。」
「まぁいいや。寝るわ。眠くなっちゃった。」
そう言いきって,祥子はまたハルの腕をつかんで体を丸めた。
結論は出た。という空気だ。
ハルは祥子に届かないぐらいの小さなため息をついた。
今夜,祥子を傷つけずに済む・・という安堵かもしれなかったし,ここまで来ても,また同じ場所から進めない・・という自分への失望感かもしれなかった。
祥子も「好きだけれど違う。」と言った。
オレも,祥子のことは,好きなんだよ。
でも違う・・。
“好き”の種類が。絶対に違う。
頭の中,心臓,胸の奥,指先,毛細血管,神経の末端まで,隅々を探す。
祥子だけを愛せるか?
自分だけの物にしたいか?
・・・いや。
そんなものは,やはり,ないな。
オレは古風な人間なんだ。堅物と言ってくれ。柔軟性がないとでも。
高校のころから知っている祥子と,これからもずっと今と同じ関係でいたいという気持ちは,確かにあった。
でもそれだけじゃない。それだけじゃないんだよ。
そうです。オレは複雑なんだ。単純って言われるけど,実は複雑なんです。
祥子が丸まったままささやくようにつぶやいた。
「ハルのキスは,やさしいねぇ・・。」
・・・そうか?そう思うならそれでいいや。
祥子は,オレを安心できる相手と思ってる。
オレも,祥子という存在を大事にしようと思ってるよ・・。
いつの間にか,意識が落ちていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パンの焦げるにおいがして目が覚めた。
あまり爽やかではない朝だ。
「何したんだ?」
「うん。お察しの通り,食パン焼きすぎた。」
「他にも何かした?」
「たまごも・・ダメにしたかな。」
「祥子,一人暮らしじゃなかったっけ?」
「いつもはできるのよ。今日は失敗しただけ。」
「やっぱ人には向き不向きってもんがあるんだな。」
「・・・。」
祥子はもう,昨日の自分の服に着替えてちゃんと化粧もしていた。
そして,むすっとして台所に突っ立っていた。
「ああ,これぐらいなら表面削ったら食べられる。卵は?ダメでもないじゃないか。黄身がくずれただけで,炒り卵と目玉焼きの中間か,充分だ。ん?味がないな。ちょっと塩ふりゃよかったのに。」
ハルはそう言いながら少し高い位置からたまごにパラパラと塩を振った。
「・・・意外と食べ物にうるさいのね。」
「これぐらいうるさいとは言わないよ。一般的だろう。」
ハルは焦げた食パン2枚をトースターから取り出して両面を包丁でガシガシガシとこそげ落した。それににマヨネーズとケチャップを適当に塗りつけて,耳を落してからその上にさっきの卵とハムとスライスチーズを乗せもう一枚の食パンを乗せて,ザクッと真ん中で切った。
「冷蔵庫の残り物でさっと何か作れるような,いい女がしたかったのに。ハルがやっちゃったら台無しじゃない。」
「台無しにしたのは祥子じゃないか。」
「そうだけど。ハルがそんなに料理できるとは・・。」
「・・この程度で“できる”とは言わないしな。オレ不器用な部類。じゃあ祥子はコーヒー淹れて。」
「うん・・・。」
ハルはお皿を2枚出して,ななめ半分に切ったハム卵ホットサンドをそれぞれに乗せた。
「祥子,朝になったらおとなしいな。アルコールが抜けたから勢いがなくなったのか?」
「違うわよ。・・ハルが襲ってくれなかったからよ。」
「・・襲われたことにしとけばいいじゃないか。」
「・・・。」
「・・そんな落ち込まなくても,料理なんかできなくても結婚できるって。」
とハルがくつくつと笑った。
「いつもはちゃんとやってるんだってば。」
祥子は昨日と同じようにお湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れた。
起きたばかりで,まだ体が動きにくい。
ハルは祥子が入れたコーヒーに牛乳と砂糖を少しずつ入れた。
部屋の真ん中のテーブルに,ミルク入りコーヒーとホットサンドの皿を並べて,どさりと座って足を伸ばし,ベッドを背もたれにした。
「祥子もミルクと砂糖欲しかったら,勝手に入れて。」
「いらない。ハルはコーヒー苦手なの?」
「いや。好きだよ。いつもはブラックだけど,朝はたまに甘いものが欲しくなる。」
「ふうん。」
祥子がホットサンドをかりりとかじって言った。
「パンが生き返って,よかった。」
焼きすぎたからパンは少し固かった。
が,ケチャップと卵の相性がいいらしくて,そこそこおいしかった。
ハルはコーヒーカップに口をつけて言った。
「祥子は,進路どうなの?」
「地方公務員。先月末に合格してた。」
「へぇ。おめでとう。地元に帰るのか?」
「ううん地元には帰らない。4年も住んでたら,こっちの方が居心地がよくなっちゃったし,弟がいるから,もともと家からは出るつもりだったの。」
「そうか。堅実だなぁ。」
「ハルは?」
「3日前に,教員採用試験合格してた。」
「へえ・・おめでとう。ハルは地元に帰るのでしょ?」
「うん。」
「なんの先生になるの?」
「小学校・・。」
「なんかぴったりだね。子ども達の人気者になりそう。」
「・・そうかな。」
「就職したらもう学生時代みたいに自由じゃなくなるし,下手したら,ハルと人生は交わらないかもしれないわね。」
「・・そう・・かなぁ。」
「さてと・・そろそろ帰るわ。」
「ああ。」
祥子は立ち上がって,自分が使った食器をシンクまで運んだ。
「ミーサに報告しなくちゃ。」
「ミーサって昨日の友達だよな?・・なんて報告するんだ?」
「情熱的な一夜を過ごしたって言うの。」
「ぶっ・・。」
「今度・・デートしようね。報告の信憑性を高めるために。」
「いやだね。デートなんかめんどくさい。」
「じゃあ飲みに行こう。」
「・・・祥子のおごりだったらつきあわないこともないかな。」
「いいわよ?おごったげる。それまでパンツ貸しといて。」
「駅まで送ろうか?自転車で。」
「・・ううん。自分で来たんだから,歩いて帰る。見送らなくてもいいよ。」
「そうか。」
「近いうちに連絡するね。」
「おぅ。」
玄関のドアがバタンと閉まって,手を振る祥子の姿が消えた。
ハルはさっき,見送らなくていいと言われて,立ち上がるタイミングを外した。
それに,自分の部屋には道路側の窓がなかった。