腐れ縁
祥子は,勝手にインスタントコーヒーを淹れたらしく,部屋の真ん中のテーブルに飲みかけのカップが置いてあった。おまけにハルのベッドに上がり込んで壁にもたれ,ブルートゥースを飛ばして,音楽を聴いていた。
「随分,くつろいでるじゃないか。」
「うん,ここ快適。ハルの裸見るのは久しぶりだなぁ。鍛えてるの?」
「とくになにもやってない。・・・って,どうすんだよ。今日。」
「泊めてって頼んだじゃない。」
「・・だから,断ったじゃないか。」
「断らないでよ。」
「・・会話がかみ合ってないぞ。さっきの友達は?家にはどう言ってあるんだよ。」
「ああ,彼女たちにはね,ハルのこと昔の恋人だって言ったの。もう一度迫ってくるって宣言して来た。」
「何言ってんだ・・・オレら,つきあったことなんて一度も・・」
「細かい事はいいのよ,あんまり本気にもされてなかったから。それと,わたし一人暮らしだから帰らなくても問題はなし。」
「・・・。」
ハルは次の言葉が見つからず、引き出しからパジャマ代わりのTシャツを出して、それを着た。
「ハルもコーヒーいる?」
「あ?・・いや,お茶があるからいい。」
「あっそう。」
祥子は勝手を覚えたらしく,ベッドから降りて台所に向かい,先に冷蔵庫からハルの分の麦茶のペットボトルを出してきてハルの前に「はい。」と置いた。祥子は,飲み会の時はふんわりと広がっていたセミロングの髪を後ろで一つに束ねていた。
「何かパジャマ代わりになる服,貸して。」
「本気かよ・・狼が出てもしらないぞ?」
「いいよ。ハルだったら狼でも大歓迎。」
「・・ちょっともう。・・オレは困るんだがな。」
そうは言ってみたが,女子を部屋に泊めたって,それを咎めるものもおらず,明日だって何も予定はない。もともと世間体など気にもしていないのに,自分が困るような事情はなかった。かたくなに祥子を拒否する理由が見つけられなかった。
「パジャマになりそうなって言ったって・・。パンツはないぞ。」
クローゼットの引き出しを掘り返し,できるだけ細身のTシャツとハーフパンツを引っ張り出した。
「パンツもハルの貸してよ。でもブリーフはいやだな。それだったらノーパンで寝る。ハルはトランクスのイメージなんだけど。」
「おまえ,恥じらいってものがないのか?」
「またつねられたいのね?」
祥子がベッドから降りて近寄ってきたと思ったら,ハルの頬を両手でつまんだ。
「はじら・・・いててて・・」
「ハルを前にして恥じらいなんてあるわけないでしょ。そこはいいけど,そのおまえおまえっていうのは気に入らないんだからね。」
「わかった。わかったって・・。」
「じゃ,次,私がシャワーしてくる。」
ハルが自分のトランクスを出すと,服をかかえて風呂の方へと入って行ってしまった。ハルは,口では拒否を精一杯アピールしたつもりだったが,祥子がハルの言い分を聞く気がないことは,はじめからわかっていた。
高校の頃の部活は,陸上部だった。男女一緒に練習をしていた。
個人競技だからこそなのか,部員は皆仲良く,男女とも仲間意識があったと思う。同じ学年に女子部員は5人いたが,祥子とは,2年・3年の2年間クラスが同じになったので否応なしに接する機会が一番多かった。
そういや,あいつらのカーテンにならされたな・・と,妙な事を思い出した。
練習している最中に土砂降りになったことがあった。あのときだ。
はじめから雨が降っていれば練習内容が変わるからグランドには出ないのだがその日はいろいろタイミングが悪かったのだ。部長が部室の鍵を忘れてきて,女子たちが着替える場所がなかった。普段ならグランドの端でも自力でパパっと着替えてしまうのだが、雨のためそれもできなかった。
グランドから階段を上がったところの昇降口のひさしの一角で,男子がウインドブレーカーや大きめのタオルをカーテンにして壁を作り,その中で女子たちが一人ずつ順番に着替えた。男子高校生,口では好奇心丸出しでスケベな話をしたりもするが,いざとなると皆純情だった。
カーテンの中をのぞこうと思えばいくらでも覗けるのに,一様に律儀に後ろを向いて“見てません見ません見る気もありません”を無言アピールした。
あの時,なんだったっけ・・祥子が着替えている時,話しかけてきたから返事をして・・何か聞き返されて・・。
思わず確認しようと思って顔をカーテンの内側に向けたら,
「見ていいっつってないだろうが!」
バシッ!!・・・ケツを叩かれたんだった。
あんな一瞬では,見ようと思ってたって何も見えなかったろうし,叩くタイミングだってこちらを様子をずっとうかがって待ってないと反応できないほどの素早さだった。
会話の詳細は忘れたのに,こっぴどく叩かれたことだけ記憶に残ってる。オレを傷めつけたくて罠にはめたのかも。
部活仲間のシュンなんか,つまらないいたずらをしてグーで殴られていたから,オレのケツぐらいはまだ可愛い方かもしれない。
自分は長距離で,祥子の専門は跳躍・・走り高跳びだったから,ウォーミングアップ以外では一緒に走ることはめったになかった。
部員全員一斉にジョギングと体操とストレッチをしたあと,長距離は別メニューになる。短距離と投擲跳躍の連中は一緒にダッシュなどの基本のメニューを途中までこなして,そのあとそれぞれの専門の練習をするために散っていく。祥子は足も速かったから時には短距離の練習にもまじっていることもあった。専門の高跳び練習の時は、後輩の男子と2人でマットの方へと離れて,ポールを立て、バーの高さを合わせ,ゆったりと練習していた。
歩幅を測り,印をつけて,助走を繰り返し,フォームを見直したりしながら,監督から時々指導を受けては、辛い練習をしているというよりも、いつも調整しているように見えたものだ。
いや,ゆったりと見えたけれども,本当は繊細な神経を使って,緻密な練習をしていたのかもしれないし、一本一本、丁寧に跳ぶ負担は大きいのだろう。
ハルは自分の専門と違う練習には興味がなかったので,自分がこなさねばならないこと以外はあまり知らなかった。
長距離の練習は,いつも仲間と一緒だった。ハルの専門は長距離の中では短い方。800m,1500m。タイムは突出して速くもなければ遅くもない。運が良ければ県では6位内に入賞するときもあった。長距離の仲間とは,仲良く同じメニューをこなし,個人の記録は競うけれどもライバル意識は薄かった。冬には駅伝があるから連帯感があったのかもしれないし,監督を敵に仕立てて結託していたし,それぞれ自分の力量を知っていたから,人と競うのではなく自分のタイムとの戦いだと割り切っていたのかもしれない。
少なくともオレはそうだった。
自分の練習の合間に,祥子が跳ぶところがちらりと見えたりするが,その背面跳びのフォームがかっこいいような気がした。あまり記憶が鮮明ではないのは、こっちも練習の最中なので集中して見ているわけではなかったからだ。
もう一度ちゃんと見てみようと、祥子が次に跳ぶタイミングを計って意識して待ってみるのだが,そのインターバルが長かったり短かったりして注意力が続かず,結局次の跳躍はいつも見逃した。
「はぁ,気持ちよかった。」
祥子が風呂から出てきた。勝手にオレのタオルを使っている。
遠慮のないやつだ。
祥子の体格は一般的な女子より身長も高めで,手足も長いだろうと思っていたが,さすがにオレのTシャツではブカブカだった。
化粧を落とすと,ますます高校の時の印象になった。
「すっぴんかよ。」
「そういうときは,君は素顔も素敵だねって言うの。」
「ああ,そうですかい。」
祥子がさっきと同じようにオレのベッドに腰掛けた。
「飲みなおさない?」
「・・・アルコールはもう結構。オレは寝る。」
祥子の存在は気にせず,さっさと寝ることにした。
ベッドは一つ。いくら祥子でも一応女子だから,床で寝かせるわけにはいかないと思い,仕方なくベッドがある対角の隅にコタツの掛け布団を出して来てそれを敷いた。
「ハル,そんな所で寝るの?ベッドで一緒に寝ようよ。」
「・・そういうわけにいかないね。オレには常識というモノがあるんだぞ。」
「別にいいじゃない。ベッドを半分ずつ使って寝れば。」
「半分って・・。」
「ベッドの真ん中に線引いてさ。床だと腰痛くなるよ。それに風邪ひくよ。」
祥子の言動をどう受け止めていいのかわからず、ハルは,ため息をついた。