XYZ
「ハルの部屋にいくつか無駄なものがあったでしょう。
洗面所にあったコップふたつとかさ。壁にピンでとめてあった古いメモとか。
あんなの捨てたほうがいい。
タンスの中や引き出しの中,他にもあるでしょう。あ,私は見てないよ。触ってもいないしね。知らないけど,意味もなく置いてあるものから,圧力を感じて,私すごくモヤモヤしたし,嫌だったの。
元カノに直接つながる物ではないのかもしれないけど,今まであった物を,触らないように,動かさないようにしてると思うのよね。
ハルが未練たらたらしてるわけじゃないっていうのはわかってるよ。女々しい男じゃないもの。
けどさ,ハルの自覚のない部分で何かが囚われてると思う。」
祥子はおしゃべりをしながら,すいすいスクリュードライバーを喉に流し込んでる。
ペースが速くないか?
「ハルは薄情な人間じゃない。モノを捨てたり忘れたりしても,それは過去を大事にしていないってことではないと思う。今を生きてる者は進まなきゃいけない。目の前にある物をちゃんと見なくちゃいけない。
言っとくけど痛みなんて消えることはないよ。過去は消えないもの。」
「ハルって,高校の頃はまるで小学生みたいだったよね。あの頃のまっすぐなハル,すごく好きだった。あ,深い意味の好きじゃなくて。世の中にはこんなにピュアな田舎者もいるんだなって。
怒りなさんなってば。褒めてるんだから。
もう・・お酒も飲めるようになったんだものね。あの頃と違って当然。だからあの頃の通りになれなんて言ってない。ただ・・私,ハルには幸せになってほしいのね。
・・ハルが幸せでいることは,祈りにも近い,私の願いなの。」
「相変わらず・・・祥子の言う事ってよくわからんな。オレがどうでも祥子とは関係ないじゃないか。」
「あら・・私にしたらものすごく直球なこと言ってるつもりだよ。わかってるんでしょ。理屈でわかってなくても,ハルは感覚でわかるはずなんだから。」
「・・・。」
「お嬢さん。」
「はい。」
絶妙なタイミングでマスターが声をかけてきた。祥子のスクリュードライバーのグラスが空になっていた。
「シャカシャカがご所望のお嬢さんの2杯目にダイキリはいかがですか。」
「ダイキリ・・?」
「ラムとライムジュースとの,少し甘いお酒。」
「うん。それでお願いします。」
「彼はどうしようか?」
「あのね,彼にはね,とんでもなくすーっとするのを,お願いします。」
ハルではなく祥子がオーダーをした。
「ふむ・・。」
年配のバーテンダーは絶えずおだやかに微笑んでいる。
このマスターが以前来たときと同じ人なのかどうかも忘れてしまっていた。
今,祥子は忘れてもいいと言ったよな。そうだ。せっかく記憶にないんだから今インプットしたものが正しい記憶なんだ。以前がどうだったかなんて思い出す必要もないし,目の前にいるこのマスターの顔も覚えなきゃいけない物でもない。どうでもいいや。
「すっきりしたい彼にはモヒートにしましょうか?彼女と同じラムベースで,ミントとライムと炭酸。ミントやハーブの香りは好きかな?」
「ミント?うん,好きですよ。」
マスターはうなずいた。
口ではモヒートの説明をしながら祥子のダイキリをシェークする。「あ,かっこいい。素敵・・。」
祥子の控え目な歓声にマスターがニコリと笑った。流れるような独特のなめらかな手つきだ。出来上がったダイキリをグラスに注ぎコースターに乗せて祥子の前に差し出した。
「ありがとう。カクテルっておもしろいね。大人な気分。」
マスターは,なめらかな動作のまま,次のタンブラーにミントの葉と何かの液体を入れていく。さっきラムって言ってたかな。
ハルはカクテルの名前をほとんど覚えていなかった。
なんで・・どうして,ここに来ようと思ったんだろう。祥子は書き換え?と言ったか。何かに囚われている?そうか?そうなのかなぁ。
もう一度,息を吸い込んで,ゆっくりと吐きだした。
「うわぁ,すごいミントの香り。グラスの中でつぶすんだね。」
祥子が目に映るものすべて物珍しそうにして楽しんでいる。
自分はどうだろう?・・うん,・・この店の居心地はいい。
マスターが作ってくれたモヒートというカクテルは,青臭いような少し薬っぽい味のような気がした。けれど,鼻に抜けるミントの清涼感がおもしろく,少し甘くてすんなりと受け入れられる味だ。
「ハルの明日のクリスマスの予定は?」
「居酒屋のバイト。」
「うっそ,信じられない。」
「しばらく行ってなかったんだけどね,たまたま顔出したら,24日がどうしても人手不足だからって頼まれた。」
「おぅ・・ハル。あなたって世界一可哀想だね。」
「なんだと,もう一度言ってみろ。」
「あはは・・。」
お店の静かさを気にして抑え気味だったけれども,祥子が楽しそうに笑った。それにつられて,自分も声には出さずに笑った。
楽しもうか。余計な事は考えないで,頭の中は空っぽにして。
・・・いや,もとから,からっぽだったっけ。
「ハル。年末年始は?」
「実家だな。」
「・・それもいいね。」
「のんびりするさ。」
「わたしはね・・・毎日遊ぶの。友達とか,家族とも,一人でとかも。」
「・・いいね。もう一杯何か飲む?」
「んー,今気持ちいい酔いかげん。もう一杯だけ何か欲しいかなぁ。」
「オレも,もうあと一杯で最後にする。」
「マスター,最後におすすめのカクテルってあります?」
「どのようなのがいいかな?」
「んーと,柑橘系で,少し甘いのがいいな。」
「ああ,じゃあ丁度いいのがありますよ。」
「じゃあ二つ。」
マスターはうなずいた。
「XYZというものです。ラムに,コアントロー,そしてレモンジュースですね。」
「へえ。おもしろい名前。」
「これ以上の上はない,と言う意味でもあるし,これで最後,と言う意味でもあるんですよ。」
「本当はどっちなの?」
「ご自分のお好きなように考えられるといいんです。カクテルにはいろいろ云われがあるんですけど,おとぎ話のようなものですから。」
「そっか。雰囲気を飲むのね。・・ロマンチック。あ,これもシェークなのね。」
マスターが説明しながらシェイカーにお酒を注いで,またかっこよくシェイカーをふった。
そして2杯のXYZを二人の前にさし出した。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
祥子がマスターにいい笑顔を向けている。
気に入ったんだな。Barというものが。
「んーおいしい。好みだなぁ。もっといろいろ試したい。」
「もしかしたら,彼女はかなりお酒に強いかもしれないね。」
とマスターが笑った。
「お会計を・・。」
「あら,ハル。今日こそは私だよ。」
「あっそうか。じゃあ,まかせた。」
祥子は笑顔で,そうそう・・と首を縦に振った。
「マスター,わたし,また来ます。」
「是非。お待ちしてますよ。」
ハルは軽く頭を下げた。