変わらない
「祥子はどうなんだよ・・,かわいそうじゃないのか?」
本当は,祥子のことを心配していたのに。
つらいのに平気なふりをしているんだなと。
なのに,こんな形で自分に返ってくるとは・・。
「わたしは・・時間をかけて,だんだん染み込むように納得したから,いいんだ。」
「そのほうがひどくないか?」
祥子はハルの肩の上でフルフルと首を横に振った。
「ごめんなって言ってくれてたし・・,誠実だったし・・。」
「別れるのは,誠実か?」
「・・やさしい人だった。そんな人が別れを言い出すのって苦しい事でしょ?」
「それは,やさしいって言えるのかよ。」
「・・・だって,気持ちは変わるものだから。」
「気持ちが変るのは,誠実じゃないだろ。」
「だって,変ろうと思って変わるんじゃないでしょう・・・」
「・・・そうかな。」
「誰も・・悪くない。不誠実な変わり方もあるけど,そんなんじゃなかった。」
祥子は,相手のことを最初から最後まで悪く言わないつもりだ・・・。
「・・・祥子は・・・まだ好きなんだな。」
「・・・。」
言いようのない怒りが込み上げてくる。
祥子がその男と別れたいきさつなど知る由もないから,自分は一般的な見解を述べるのみだが,正直で誠実そうなふりして,その男はわかってんのか?いい人ぶりやがって。
実際はこんなつらい思いをさせてるんだぞ・・。
祥子は,オレに対しては何でも口にしてグサグサと核心をついてくるくせに,相手の前では言いたいことも言えず,物分かりのいいフリをしているんだ。
なじったりもできず,悲しい顔もできず,泣くこともできず。フったやつがフラれた側に気を遣わせるなんて,なんて残酷な,なんてひどいヤツなんだ。
視界の端で祥子の頬から涙がこぼれたのがわかった。
視界に入っていただけで近すぎて焦点も合わない。
気づかないふりをした。
そいつのことを思い出しているんだろうなと思うと,胸が苦しくなった。
もっと,大声で泣けばいいんだ。
そんなやつ・・
そんなやつに・・祥子はもったいない。
「あー,祥子・・。」
「なに?」
「もう寝ろよ。」
「なんで?・・襲う気になったの?」
「その逆だ。祥子が寝たら,帰る。」
「・・・。」
祥子がピクリと顔をあげようとした。
帰る・・と言う単語に反応して,祥子が,心細げにしたのだとわかった。
祥子は,こんなにも寂しかったのだ。
少し反省をした。
オレが不安定だったせいで,祥子にも嫌な思いをさせたかもしれない。
「だから,オレは30になるまでは祥子に手を出さないって,決めてるんだよ。」
「さっきから30,30って・・・。」
祥子が肩から顔を上げた。
「結婚の約束したじゃないか。」
「ぶっ・・プロポーズしたような言い方だね。」
「祥子が言い出したんじゃなかったっけ?」
「何言ってんの,言いだしたのはハルだよ。」
「そうだったかなぁ・・。祥子がプロポーズするって言ったぞ?」
「あれは,・・たとえば,の話だよ。」
「じゃあ,あれは取り消しか?ずるいな。オレは予約取り消さないぞ?」
「・・・。」
「とにかく,シャワー行ってこいよ。」
「・・・。」
「あ,裸で出てくるなよ? パジャマも持って。ほら。」
自分が先に立ち上がり,祥子の手を引いて立ち上がらせた。
祥子はもう,泣いてはいなかった。
祥子を風呂場に追いやって,その間に,冷蔵庫を開けてみた。
バターと調味料。卵と野菜か。缶ビールに缶酎ハイ。ペットボトル。飲み物ばかりが場所を占めてるなぁ。ちょっとは料理やってんのかな?
傷んだものはなさそうだから,まったくやっていないか,よっぽど上手に食材を使っているかのどっちかか。
・・冷蔵庫の中の物でパパッと何か作れるいい女・・ねぇ。祥子にはそんなことできそうに思えないな。トーストと目玉焼きですらあの調子・・。そもそも最近の女子はそんなことできるのか?オレはそんな女子には期待せずに,自分でできるようになろう。
冷蔵庫から,ペットボトルの麦茶を取り出した。
「祥子。麦茶もらっていいかぁ?」
と水の音がする浴室に向かって呼びかけた。
「いいよー。」
とくぐもった声が返ってきた。
ハルは麦茶を飲みながら,テーブルの上に散らかった空き缶やおつまみを片付け,キッチンにあった台布巾をしぼって拭いた。
そして,散らかっていたベッドの上の服はハンガーを見つけて掛けた。
しばらくすると,またすっぴんの祥子が風呂場から出てきた。
グレーのハーフパンツと黒いTシャツ。昔はしょっちゅう見ていた長い脚だ。
「オレ,祥子はそっちの方が好きだな。」
「お化粧落としたこと?ふっ・・ハル,素顔の価値が分かってきたじゃない。」
「あ,そうだ,パンツ返せよ。」
「えー,記念にもらっとこうと思ったのに。」
「・・ダメだね,祥子にはやらんな。」
「ケチ。」
「今,何時だ?11時か。いい時間じゃないか。祥子は寝る。オレ帰る。」
「あぁ・・ハルが,また高飛車になった・・・。」
「高飛車じゃないさ。さぁさ,はやくパンツ返せって。」
祥子がしぶしぶタンスの引き出しからトランクスを取り出した。
「祥子。オレ帰るけど・・・」
そう言いながらハルはパンツを握ったままの祥子の正面に立って祥子の肩に手を伸ばした。
やっぱ少しためらうな。
抱きしめてもいいものかどうか。
人の体温を感じれば,それだけで心が癒える。愛し合う二人のそれとはまた違う。
ハルは,祥子をしばらく抱きしめてみた。
祥子は背が高い。細くて頼りない肩だ。
守ってやりたいけど,そんなことを言ったが最後,グーのパンチを食らいそうな気もする。
祥子も腕を軽く腰に回して来た。
比べるつもりはなかったのに,シノブはもっと小さかった・・と思った。
努めて思い出さないようにしていたけれど,祥子とかぶる部分がある。
口だけはえらそうなのに,本当は健気で弱いんだ。
「・・帰るけど,拒否じゃないってわかってるか?」
祥子は,ちいさくこくりとうなずいた。
それを合図にハルは祥子の体を離した。
「うむ。じゃあ祥子はベッドに入る。」
「頭がまだ濡れてるよ・・。」
「バスタオル敷いておけばいいんだよ。ほら早くベッドに入る。」
ハルは,祥子が持っていた自分のパンツを取り上げて,ベッドを指さした。そして,パンツは小さくたたんでジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。
「もう・・ハルったら・・・。」
なんだか不服そうな口調だったが祥子はわりと素直にベッドに入った。
「玄関は,自動ロックだよな。」
「うん・・。」
祥子のベッドはベッドの下が収納になっているから,随分位置が高い。
ノソノソと横になった祥子の頭を,ハルは子どもにするようにぽんぽんわしわしと撫でた。
「祥子。おまえ,結構いい女だと思うぞ?安藤に言わせると美女らしいし。あ,つきあってみるか?間に入ってやるよ?」
「・・・結構ですっ。」
祥子は女性として魅力的だと思う。悔しいが認める。
でも,祥子は,他の男が今でも好きなんだ。
忘れようとして泣いてるのに,いくら人の体温が恋しくたってオレなんかがその傷をなめるようなまねしちゃダメだろう?
自分にとっても,友人として祥子が大事な存在だということも間違いない。
きれいごとを言うつもりなんてないけど。あとから思い出して痛いようなことをするのはイヤだ。
そういえば,祥子も「ともだち」って言葉を使っていた。
「オレは,いつも変わらないって言ったよな。」
祥子は黙ってうなずいた。
「その期待に応える。それしかできないし。次はバーにつきあってくれるかい?」
「うん,・・いいよ。」
「今日はそのまま寝るといいよ。次は,卒論ができたら連絡して。」
「・・・。」
ハルは,祥子から離れて,玄関でスニーカーを履いた。
「じゃあな。」
「・・うん。」
祥子が小さな声で返事をした。
ハルはその返事に満足して,祥子の部屋の扉を閉めた。
そして,麦茶のペットボトルを片手に夜の道を歩いて駅へと向かった。