ビール
「ちゃんと頑張ってたんだなぁ。」
「・・?」
・・・心配でもされていたのか?
聞かれたからでもあるけど,自分の話ばかりしていた・・。
「思ってた以上にボロボロだったけど。」
「・・なにが?」
「ここ。」
祥子は,さっき自分が押さえていたみぞおちの辺りを人差し指で指した。
「・・・。」
「ハル。さっきはお面つけたみたいな顔になってたもの。」
「・・・。」
「そうやって,起きて座って立って食べて寝て,話しかけられたらちゃんと返事して。
授業も受けて,レポート出して,教育実習にも行って,卒論して・・。
自分は普通にやってると思ってたんだね。」
「・・?」
「でもきっと,さっきみたいに何度も無意識に,おなか押さえてたんだ。」
「・・なにが言いたい?」
「ハルは,私が知ってる真っ白なハルじゃなくなった。」
「真っ白ってなんだよ?」
「ハルは,もっと自由に動けるはずなんだよ。縮こまっちゃってさ。」
「・・・祥子・・・何か,知ってるのか?」
「・・うん。」
祥子は,うつむきかげんでこちらをちらっとうかがった。
「あのね,3カ月ぐらい前に,シュンと会ってハルの話をしたの。ハルの元カノの話も聞いたよ。けど詳しくは知らないし興味もない。だからわざと知らんぷりしてた。」
「・・・ふうん。」
気持ちはわかるとか,心配してたとか言われたらげんなりするところだった。
が,祥子がそんなことを言う気配はなかった。
しかし,いろいろ言いたいことを言ってくれる。
お面だとか,おなか押さえてとか,縮こまってるとか。
祥子は立ち上がってキッチンへと向かった。
「もう一本ビールいる?何か他の物がいい?」
「ビールでいい。」
祥子は冷蔵庫の扉をパタンと閉めてハルに2本目のビールを差し出した。
そしてハルの横に同じように壁にもたれて座って,自分もまた,缶酎ハイの続きをクイッと飲んだ。
「ねえ,ハル。」
「なに?」
「ん・・と,もう一度キスして。」
・・なんなんだよ。
いいたいことを言うだけ言って・・。
祥子が言葉を続ける。
「私たち,ちょっとだけ,大人になったって思わない?」
「そんなこと知らないよ・・大人が何かもわかんないのに・・。」
そういえば,今日も祥子のことを聞いてなかったなと,この前と同じように思い当たった。
「祥子,何かあったのか?」
「とくになにも。」
「寂しいのか?」
「ううん。この間と同じこと聞くね。」
「この間,何もないって言ってフラれてたじゃないか。」
「寂しいとキスしたくなるってわけじゃないよ。」
「・・・。」
「・・あれ以後は,なにもない。」
祥子にキスしてと言われたのに,なんとなくその気になれず,目を伏せた。
静かになった。
今日は,BGMもない。
祥子は,黙りこくったままモーションを起こさないハルの正面に回った。
膝立ちになり,ハルがたれている壁に手をついた。
これって・・ええと逆壁ドン?かなぁ。
「今日はハルから,キスしてくれないの?」
「・・う~ん。・・なんか,やばい気がするんだよ。」
祥子がキスしてくるなら,拒否するつもりもなかったが,自分からというのは何故か抵抗があった。これって男としてどうなんだ?
計算してるわけでもないし,何も考えてなんか,ないけどな。
祥子の顔が近づいてきて鼻がぶつからないように少しずれて 触れる1cmぐらい手前で止まった。
「なんのこと?そのまま最後までいっちゃいそうだから?」
「いや・・それはない。」
「なんで,ないって言いきるの?モノは試しだよ,今夜やってみようよ。」
「バカか,おまえは。」
「うーん・・。私はバカじゃないし。」
「・・・。」
「バカなのは,ハル。」
そう言うと,祥子もふいっとハルから離れた。
少し後悔していた。
この前キスをしたことを,だ。
今日は,これからは,もうキスなんかしてはいけないような気がした。
理屈は説明できない。
この部屋に入るとき感じたのは,その違和感だ。
そう自分の直感が言ってる。
せっかく・・大事にしようと思っているのに。
・・いや,ええと大事にって何をだ?
「・・30才過ぎて祥子がひとり者だったら襲いにきてやるかもしれない。」
この間と同じように,そう言ってみた。
祥子は弱っているんだきっと。
それで,誰かに寄りかかりたかった。
たぶんそうだ。
そうか・・今日はオレがぐらぐらしたところを祥子に見られた。
さっき祥子がボロボロだねと指差した自分のみぞおちの辺りをさすってみた。
ここは,胃か?
オレは,あったことをなかったことにしようとしていた。
認めたくない部分を意識の底に埋めて現実を直視していなかった。
祥子の言うとおりだ。
周りのことも何も見えてなかったのに,普通にやれているつもりだったよ。
女々しい。
・・弱い。
弱さが悔しかった。
はっ・・
今,気がついた。
ああ・・これ,祥子からの問いかけの順番が違ったら,オレは・・。
教育実習の話をふられた後に,キスを求められたから直感が機能したけど。
すっとばして・・キスしてしまってたら・・。
もしかして間違えたかもしれない?
今日のオレ,しばらく思考回路がフリーズしてたからな。
壊してしまわなくてよかった。・・・今はそう思える。
助かった。
うん。
わかった。
祥子の期待に応えよう。
“ハルは,変らないから。”
このあいだ祥子はそう言った。
背中の体重をかけていた壁から,いよっ・・と離れて,胡坐をかいて祥子の方へ向き直った。祥子もちらっとこちらを見たがすぐに目をそらした。
ほっそりした横顔をまっすぐに見つめる。安藤が美女って言うのはこれのことか。
もう大丈夫だ。
もう大丈夫。
「祥子をフッたのは,どんな奴だ?」
祥子がこちらを向いてすこし目を丸くした。
自分が思っていなかったことを聞かれたからだろう。
「あー・・・ノーコメント。」
「どんな奴かぐらい,言えるだろ。」
「言いたくないもん・・。」
そう祥子は言ってまたうつむいた。
「何才?」
「・・年上。」
「いくつ年上だ?」
「・・・。3才年上。」
「仕事は?」
「・・・システムエンジニア?プログラムの何かをしてる人。」
「ふうん。もう,戻れないのか?」
「・・・無理。と思う。」
「近いところにいる?」
「なんでそんなこと聞くのよ。」
「祥子がオレのこと知ってるのに,不公平だろ?」
「私,ハルのことなんて,よく知らないよ。」
「聞いたって言ったじゃないか。」
「・・・。」
「1カ月経ったよな。・・あれから会ったりした?」
「・・会ったよ。」
「祥子は,これからも,普通に生活しててそいつと顔を合わす接点は,あるのか?」
「これからはもう,ない。もうすぐ・・赴任先が変るんだって。今月中にこの町から出て行く。」
「ふうん・・。」
「もう,ずっと,この先ずーっと,会うことはないと思う。ハルに連絡入れる前の日,最後に会ったの。・・それで完全に終わり。」
「・・そうか。」
「・・もう,そんなに睨みつけるの,やめてよ。」
「睨みつけてなんかないんだけど?」
「息ができない,横,あっち向いて。」
「・・・。」
祥子の本音を見てやろうと思って,まじまじと表情を観察していたが,嫌がられたので仕方なく横に並んで座った。
横に並んだら,今度は肩に頭を乗せてきた。
もう,好きなようにしたらいいや。
寂しいときに人の温もりが欲しいって言うのは理解できる。
オレが人畜無害だって事を分かってやってくるのがしゃくにさわるけれど。
テーブルにはさっき自分がにぎりつぶしたビールの空き缶がある。
2本目のビールももうすぐ空きそうだ。
「ハルは・・・。」
「なんだよ。」
「お別れが言えなかったから,かわいそうだよね。」
「っ・・!」
次の言葉が出なかった。
不意打ちだった。
祥子の“かわいそう”という言葉が,ぐさりと刺さった。
・・・かわいそう?
・・・かわいそう?
お別れが言えなかった?・・・ああ。言えなかったな。
もぎ取られるように,いなくなった。
「急にいなくなるなんて,ひどいと思う。ハルはこんなにやさしいのに。」
ハルは大きく息をした。
そして刺さった言葉は,自分で果敢に引っこ抜いた。