透明な谷と泣き虫
私がこの不思議な世界に迷い込んで、3日ほど経った。
この世界は歩いて移動するにはどうやら広すぎるみたいで、最初の草原を抜け出すのにすでに丸1日かかっていた。
どこまでも続くような気がする、森の中の小道の中、前を歩いていた彼に、歩き詰めで疲れた私は声をかけた。
「しれーん、ちょっと休もうよー」
そういえば、彼はすぐに振り向いて笑って了承してくれる・・・
シレン。それが彼の名前。
なんだか懐かしい気がする名前だ。でも、私はきっとその名前を聞いたことはない。
「疲れちゃった?」
シレンは木の根本に座り込んだ私と向かい合わせに座りながら言う。
「ちょっとねー・・・」
実はちょっとどころなんかじゃなくて、もう足がじんじん痛む。よく考えたら靴、ローファーのままだった・・・
公立にしては可愛い制服だから気に入ってたんだけど、今は後悔してる・・・。運動靴万歳だ。
私たちは、“女王様”なる人に会うためにひたすら歩いている。
この世界にも国家みたいなものはあるらしくて、とりあえず私みたいな“迷子”を保護してくれる機関に申請しに連れって行ってくれるみたい。
・・・登録ってこのことだったのね。
「そういえばシレンってさ」
私は水筒に入れてあった水をのみながらシレンに尋ねる。
「ん?どうしたの?」
「私とはじめて会ったときあそこで何やってたの?」
ずっと気になってたことだ。
普通あんな何もないとこに用はないだろうし。
「あー。・・・ちょっとね、探し物」
探し物?あんなとこで?
「見つかったの?それ」
「・・・うーん、なかった。」
「ふーん・・・」
そういって答えながら水筒をシレンに渡すと、シレンはゆっくり立ち上がった。手を私にさしのべて、
「そろそろ行こう。今日中に谷を越えないと」
「わかった」
私も、その手を取って立ち上がった。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
鬱蒼とした森を小一時間歩いて、やっと光が射してきたときはほっとした。
そろそろ、同じ景色ばかり続いてたの飽きてたし。
それにしても、谷、かあ・・・
生まれも育ちも都会の私にとって縁もゆかりもなかったから、写真の中でしか谷っていうものを見たことがない。
「ねえシレン、谷って綺麗?」
あんまり楽しみで聞いてみると、シレンはにこっと笑って、
「見てからのお楽しみ」
と、笑みを含んだ声で答えた。
「えーなにそれー・・・って」
森が終わり、急に視界が明るく開けて――
私は立ち尽くした。
その谷は、まさに透明。
地面も、遙か下に続く岩壁も岩肌も、全部が全部透き通って輝いている。
長い長い吊り橋が渡す向こう側も、はっきりと透き通っていた。
「き、綺麗・・・」
そんな言葉だけじゃ、きっとうまく言い表せない。――ていうより、表し方が解らない。
「綺麗でしょ?」
隣でなぜか嬉しそうなシレンの声。
「全部クリスタルでできてて、人には“水晶の谷”って呼ばれてる」
「これ全部クリスタル!?」
すごい・・・。
こんな景色、私の住んでる世界には絶対ない。ありえないもの・・・。
あんまり綺麗過ぎて、むしろ現実味が薄い。
真上にある太陽の光を全身で受けて輝く水晶の谷。しばらく見つめていたかったけど、シレンがとんとんと肩をたたいてきて、出発する時が来たのを知った。
もっと見てたいのになー・・・
そんな私の意図を感じ取ったのか、シレンは困ったように笑った。
「大丈夫だよ、そのうち見飽きるから」
「そんなことないもん!」
つい駄々っ子みたいになってしまう。
だけど、シレンはただにこっと笑ってるだけ。
この笑みの意味が分かったのは、橋を渡り始めて30分もしたころだった――
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
「・・・・・・」
「レイ、大丈夫?」
名前を呼ばれたけど、返事する元気が湧いてこない。
かれこれ5時間はこの吊り橋を歩いているんじゃないか・・・
渡り始めた時に見えていた向こう岸は、ゴールじゃなく、中間地点。
どうやら水晶の谷はいくつもの谷で構成されてるみたいだ。
向こう岸が見えたと思ったら、いくらも歩かない内にまたすぐに次の吊り橋。
・・・シレンの言ったとおり、だいぶ見飽きてきた。
夕焼けに染まる谷は息をのむほど綺麗だったけど、それも長い間歩き続けたうちに飽きてきた。
最初は底の見えない高さに震えてたけど慣れちゃったし・・・。
「・・・ねえシレン、あとどれだけかかるの」
「・・・月が真上にくる前には終わると思うんだけど・・・」
「・・・深夜まで歩くの!?」
つい、イライラしてシレンに当たっちゃう・・・
だけどシレンはいつもの当惑顔で笑う。
「大丈夫だよ、俺も一緒だから」
「・・・・・・・・・・・・」
・・・・ああもう。
そういう反応が、照れくさくてしょうがない。
「そっ、そういう問題じゃないでしょっ!?」
「・・・あは、やっぱり・・・?」
私はぶすっとそっぽを向いて、踏みならすように大股で吊り橋を歩き始めた。
慌ててシレンもついてくる。
その際、私は横目でちらりと後ろのシレンを見た。
・・・顔に出してはなかったけど、なんか焦ってるみたい、シレン。
どうしたんだろ。
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月もだいぶ上の方に昇ってきた。
もう3度目の、異世界での夜。
空を仰ぐと、写真でも見たことないような満天の星の海がどこまでも広がっている。
その中心を巨大な青白い月。
視線を下ろしてみると、水晶の谷がそのまま夜空を映して、まるでこの世界そのもの全てが宇宙の真ん中にあるみたいだった。
その上、私たちは吊り橋の上。橋が軋む音さえしなかったら空中散歩してるみたいな変な気分だ。
「綺麗だね」
ぼそっと、声が漏れた。
うん、そうだねって後ろから聞こえる。
とても小さな声で言ったつもりだったんだけど、シレンは一応返事をしてくれた。
「やっぱり違うんだなあ・・・」
私の世界とは。
こんな綺麗な場所にいると、私自身がなんだかとても小さな存在に感じる。
まあ、実際にそうなんだろう
世界は、こんなにも大きくて、優しい・・・
「レイ」
ふいに名前を呼ばれて、私は振り向いた。
そこには、今の私と同じように背後を見つめているシレンがいる。
――なんだか、様子がおかしい・・・?
「ど、どうしたの?」
特別意味もなく、私は小声で囁いた。
シレンは無言のまま。
「シレン・・・?」
なんか変だ。明らかにおかしい。
不安になって、私は語気を強めて繰り返した。
「シレン・・・っ!」
すると、シレンはこちらを向いた。
いつになく険しい表情。
すっ・・・と私に近づく。
「しれ・・・」
「ごめん」
その瞬間、ぐりんと世界が反転した。
一瞬何をされたのかと思ったけど、腰をがっしり掴まれてシレンの肩に乗せられていることから、後ろ向きに担ぎ上げられたことがわかった。
「ちょ、シレン!?」
そんなほっそい身体で、私なんか担いで肩が壊れちゃわないだろうか。
だけどシレンは、人を抱えているとは思えない早さで吊り橋を走り始める。
あんまりバランスがとれない格好で、自分が向いている方向と逆に進むっていうのは思ったよりも怖い。
私は悲鳴のような声でシレンの名前を呼び続けた。
「しっ・・・シレン!!やあっ・・・めっ・・・!」
だけどシレンは返事せずに駆け抜けていく。
もう、なんなの!?
顔の横でたなびくシレンの長い三つ編みを横目で見送りながら、私はもう訳がわかんなくて担がれるままになる。
ふと、冷静になって真正面を向いた。
相変わらず水晶の谷は空を映して輝いている。
・・・ん?
なんか、違和感が・・・ある・・・?
あんなに、ギラギラと赤い光を出してたっけ。
それに気づいた瞬間、ふっ・・・と水晶の谷中の光が消えた。
「え・・・」
闇に包まれる谷。走りつづける、私を担いだシレン。
風が、通り抜けて――
再び、赤い光が谷中に灯った。
光なんかじゃない。
あれは・・・目。
無数の目が、私たちを睨みつけている。
闇が、もぞりと動いた。
その瞬間、黒い物体が凄まじい勢いで吊り橋を渡ってきた。
「・・・やっ・・・!」
変な声を漏らしちゃったけどこの際気になんてしていられない。
追いつかれる・・・っ!!
そこでシレンが吊り橋を渡り終えた。
何かを考える暇もなく、すばやく私を下ろし、腰の鞘から剣を抜く。
そして、躊躇いなく橋をつなぐ柱に斬りつけた。
ぐらりとスローモーションのように橋が落ちていく。
それと同時に、黒い物体も橋と一緒にバランスをくずす。
物体・・・はどうやら大群の集まりだったみたいで、黒い物はバラバラに飛散しながら、暗い谷底へと、悲鳴もなく落ちていった――――
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
それを見送った私たち。
私はぐにゃっと地面にへたり込んだ。
・・・やばい、立てない。
「い、今のなに・・・?」
「悪食な“ノワール”だよ。危なかった・・・」
冷や汗をかいた額をぬぐって、シレンは答えた。
「えと、ノワールって・・・?」
・・・とりあえず、話が読めない部分は聞いとこう。お疲れだろうけど。
「え?・・・あー、えっと、・・・簡単に言うと“この世界”だけにいる生き物・・・解る?」
「うん、まあ・・・」
相変わらず説明は下手だ。
普通の生き物じゃないっていうのは解るけど・・・
「で、この水晶の谷にいる“ノワール”は月が真上にきたら凶暴化するんだ」
「え」
聞いてないぞそんなこと。
「しかも凶暴化した“ノワール”はレイみたいに異世界からきた人間が大好物・・・」
なっ・・・!?
大好物・・・食べるのが!?
私は抜けていた腰を上げ、シレンにつかみかかった。
「なんでそれをもっと早く言わないの――!!」
「だ、だってレイが怖がるかなと思って・・・」
可哀想なくらいキョドるシレン。だけど、今の私にはそんなこと気にならない。
「言ってくれてたら休憩とかっ・・・もっと早く歩いたのにっ・・・怖い思いしなくてすんだでしょ――!?」
ひたすら怒鳴った。
そうしてないと、がたがたと身体が震えて止まらない。
シレンは悪くないの、解ってるのに。
私を助けようと、あんなに頑張ってくれたのに。
休憩とかのことだって、私が何回も
「疲れた」とか言ったから気を使ってくれたんじゃないか。
自分勝手だ。
私のばか・・・
ふいに、シレンの手が顔に伸びてきた。
「え」
ぐいっと親指で目を拭われて、私はきょとんとした。
な、泣いてた?私。
シレンは微笑んで、
「ごめんね、怖かったよね」
・・・
てんで子ども扱い。
気がつくと、私は再び座り込んでぼろぼろ泣いていた。
隣でちょっと慌てながら、頭を撫でてくれるシレン。
怖かったとは素直にいえなかったけど、どうせ丸出しだ。だって泣いてるもの。
私、こんなに泣き虫だったっけ?
まあ、いっか・・・
なんでもいい、この安心感にずっと身体を委ねていたかった。
私も、まだまだ子どもだな。
泣きつかれて眠るまで、私は声を上げて泣き続けた──