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 夜散歩に出ようと思ったのは潤のせいだった。夕方、帰り際に「今日は満月や」と呟いたのを耳にした。何気なく聞き流していたのだが、アパートに戻るとその言葉がやけに気になりはじめた。そういえば、私は夜の海を見たことがなかったのだ。

 とても蒸し暑い夜だった。涼しさと月の光を求めて、私はミュールを履いた。

 海は気持ちよさそうにたゆたっていた。誰もいない海を見るのも初めてだ。海が、静かに自分だけの時間を楽しんでいるみたいだった。波の音が囁きに聞こえる。

 月明かりで足元ははっきりしていた。なんとかのひとつおぼえみたいに私は岩場を目指していた。この習慣はきっと、島を出て行くその日まで続くことだろう。

 先の方に人の姿が見えた。白いTシャツが夜の中でほのかに浮かんでいる。顔は暗くてよく見えない。まさかと思って歩みを早めると、風が懐かしい匂いで知らせてくれた。

「潤……」

 私たちは正反対の反応をした。落ち着いていたのは彼の方だった。

「どうしてここに……」

 驚きを隠せない私に対して「散歩」と彼は素っ気なく答えた。たしかにそれは私がする以上にとても自然な行動だ。けれど偶然という言葉を超越しているように思えてならなかった。私たちの間には海と月のキーワードしかなかったのに。その両方の引力だとでも言えるのだろうか。とにかく私はこの出会いが理解できずに、その場に立ちつくした。

「座れば?」

 夜に融けてしまいそうな手で潤はコンクリートを二、三度叩いた。私が逡巡していると察してくれたらしく、顔を背けて静かに言った。

「心配せんでも島の人間は夜も朝も早いけん、こんなとこ来やせん」

 その優しさに安心して、私は潤の隣に腰をおろした。同じ高さでこんなに近く人の気配を感じるのはずいぶん久し振りだ。岩にぶつかる波の音がやけに大きく聞こえる。

 夜空では淡い満月がオーロラをまとったみたいに幾重もの光を放っていた。スプーンで綺麗にすくった蜂蜜みたいだ。月の路が海を渡ってまっすぐ私と潤のもとへ届いている。かぐや姫はきっとこの路を還ったのだとわかった。これならもういろんな意味で迷いようがない。

 潤がちらっと腕時計を見てから言った。

「干潮や」

 つられて私も海に顔を向けた。彼の言葉のとおり、海は沈んでいた。月光を受けて揺れる波が普段よりも遠い。いつも見ている海なのにどこか奇妙だった。波も島も稜線もいつもと変わらないはずなのに、まるで鏡に映った部屋の中をふと見た時のように、不思議な違和感と新鮮さがある。それはすぐに修正されるズレ、しかし、一瞬はっとした気持ちの揺れを無視することなどできない。

 海の姿はもう全部知ったと思っていた。毎日の散歩でこの海に親しんだつもりだった。

 海はこんな姿もしていたのだ。

 急に身体が疼いて、胸の奥が痛くなった。この感覚は覚えている。初めてこの海を見た時、この海で生きる人たちを見た時と同じだ。あれから違う海に出会う度に、私の身体は科学反応に似た変化を示す。潤と知り合った時も、梅雨の時も、そして今も、私をつつく心地良い痛みが全身を駆け巡る。

 身を乗り出して岩場を覗いてみると、いつもは見えない黒い岩肌のずっと深い部分があらわになっていた。潤はこれよりもさらに深い部分まで見知っているのだと思うと、なぜか熱いものが込み上げてきた。幼い頃、なくなった海の水はどこへいくのだろうと真剣に考えたことがある。その模範回答はやがて知ることができたけれど、あの時の不思議な気持ちはなかなか消えなかった。

 世界における水分の絶対量は一定しているので、だれかが涙を流すとその分だけ海の水が少なくなると、どこかの詩人が言っていた。満潮はひとがだれも涙をながさないひとときで、干潮はひとがみな涙をながすひとときなのだと。今ならとても共感できる。なんて素敵な理屈だろう。学校でも教えればいいのに。

 今は世界中でひとが泣いているのだ。哀しい涙や嬉しい涙、理由のない涙なんかで地上は溢れている。海はその涙を吸収してもっと深く碧く、豊かに、優しくなっていくのだ。

 みんなの涙が毎日海に通じている。泣くことが、傷ついた心を癒すとても大切な薬だと、みんな知っている。だからみんな自分の瞳や自分の心に海を持っている。そうやって自分を調節している。

 私は自分の海を探していたのかもしれない。いつのまにか涙を流さなくなって内なる海をなくした私は、本物の海を恐れるようになった。それが自分のものであったことも忘れて遠ざけてしまった。抱えていた様々な不安も焦燥も、自分の一部として自分の中に貯めておくものだと思い込むようになった。私の恐怖と涙を穏やかに受け入れ、私と通じる海が、本当はずっと欲しかったのに。

 ずっと昔の記憶の断片をたどるような、曖昧でもどかしい旅をしてきた。出発点も行き先もない、虚無的な旅。しかし、見つかる保証もなかったこの世界で、私のコンパスは狂うことなく大切なものを指し示した。月島に来て私は泣くことを思い出した。涙の流れていく場所を取り戻した。私の身体はこの海と同じ成分でできている。そういえば生命は、ずっと遡れば海から生まれたのだった。

「オレは一生ここにおる。よそには行かん。ここで、海と暮らす」

 誰よりも海に近い潤の瞳が、月島の海を穏やかに包もうとしていた。

「そうね、潤にはそれができる。潤はここが一番似合うから。私は……」

 跡切れた言葉の続きを私は必死に追いかけた。様々な感情や事実がひしめきあって、まだ答えまで届かないでいた。もっと時間が必要だった。潤が何もかも承知している

かように静かに頷いた。


「でも、私もここが好き。月島の海が好き」


 たとえどんな未来を迎えようとこの事実だけは変わらない。子どもたちがたわむれる海、心を震わせる夕焼け、月光にさざめく波、潤がどこまでも潜っていく海。その海は、私の内にもあるのだから。もし私がこことは程遠い場所へ行くことになっても、この海は永遠に私とつながっている。

 けれど今だけはここにいたかった。この海の前で私は泣くことだってできる。月にも夜にも優しすぎる気配にも見られたってかまわないと思った。それらはすべて海と同じ種類のものだ。

「潤……」

 黒檀のようなつぶらな瞳が近づく。遠くて触れられなかった滑らかな存在が、私の手のひらをそっと包み込む。

 必要なのは時間、それからほんの少しの勇気。

 月の光が吐息のように優しく私たちを照らしていた。風が私の髪を絡めるようになでた。もてあそばれる私の髪が、わずかに震える手触りで撫ぜられる。

 つられて見つめたのはほんの一瞬のこと。

 不意に潮の匂いが静かに私の唇にも降りてきた。



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