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「せんせい、僕な、じゅうめえとるは泳げるがで」
「僕はもっと泳げるで」
「せんせい、夏になったらあたしといっしょに泳ごうね」
太陽には薄く雲がかかっていた。いつもの岩場で私は海に背を向ける形でコンクリに座っていた。両脇にはミクちゃんとミクちゃんの姉貴分にあたる女の子がおり、前には同じ保育所の男の子たちがいた。彼らの足元の道路には石で大きく「かかし」の絵が描いてある。今時こんな遊びを知っている子どもは珍しい。
あの日、私がここで初めてミクちゃんと会った日から、私は安心して曇りの日にもここへ来るようになった。そのうち飽きたミクちゃんが友達を連れてきて、その子がまた遊び友達を連れてきて……と、子どもの数は数珠つなぎに増えていった。今では保育所の半分の子どもたちが、家に帰ったあとまたここへ集まる。私は仕事が残っているのでここへくるのは一番最後になる。私はまず子どもたちに声をかけ、海から潤が顔を出すのを待ち、一声かけてからまた子どもたちの相手をする。「仕事にとらわれず子どもと接することは良いことです」と所長からもお褒めの言葉をいただいたし、「先生、いつもありがとうございます」と島の人たちにもお礼を言われるようになった。潤と会っている事実は変わらないのにプラスアルファができただけでえらい違いだ。
しかし楽しいことばかりではない。子どもたちと一緒にいるということはその分だけ責任がついて回るということだ。ちょっと転んだくらいならお咎めは受けないだろうが、もし海で事故にでもあったらそれは私のせいになる。
その点、潤はわかってくれていたみたいで、はっきりと言ってくれた。
「おまえらは危ないけん、来んな。なんかあったらオレが殺される」
潤は島の子どもたちにとって一種のヒーローみたいなものだった。大人たちに負けないほど潜ることができるし、子どもたちにも優しい。潤に気に入られようとみんな彼の言うことを素直に聞く。
「僕もおっきくなったら潤にいちゃんみたいに潜れるようになるけん」
男の子たちは毎日のように私にそう言っている。
「あたしも、あたしも潜れるようになるけんね」
「ふん、女には無理や」
「なんでよ、今やってあたし、あんたらより背も高いし、泳ぎも上手やもんね」
女の子だって十分勇ましい。
「あぁはいはい、みんな上手だからね。夏になったら先生に見せてね」
私は言いながら海を見ようとした。潤の息づかいが迫ってきた気がした。しかし、女の子が私の手を掴んだ。
「せんせい、あたし上手なんよ」
得意気なその子を見て私もほほ笑んだ。すると、今までおとなしかったミクちゃんまでもが私の服を引っ張った。
「せんせい、いっしょに泳ごうね」
にっこり笑った幼顔があまりにも可愛いくて思わず抱きしめたくなった。
「うーん、でも先生、泳ぐのうまくないからなぁ」
「わたしが教えてあげる」
「そうね、ミクちゃんは潤の姪だもんね。泳ぐのも上手よね」
こんな小さな子どもたちも、この広い海で泳ぐことができる。こんな小さな手足をばたつかせる。それは遊びのようでそれだけの意味ではない。これから先ここで生きていく者たちは泳げなくてはいけない。やがてはそれが生活に欠かせないものとなるかもしれないから。
「保育園児に泳ぎを教わる先生ってのも情けないと思うぞ」
私の上に影がかぶさるのと同時に声が降ってきた。海から上がってきた潤がいきなり私の横に飛び降りた。小百合ちゃんがウィンドブレーカーを手渡す。
「オレが教えてやるよ。泳ぎ方くらい」
タオルで頭をふきながらぶっきらぼうに潤が言った。
「潤にいちゃん、僕も教えてっ。僕な、潜れるようになりたい」
「あたしもっ」
子どもたちが次々押し寄せていくのを「わかったわかった」と請け合いながら、彼の瞳はまっすぐこちらを向いていた。海の名残を止めているような、少し潤んだ瞳。
「休み、どうするかまだ決めてないし……」
私のつたない恐怖が私の手足と唇をまだ覆っていた。海はこんなに近いのに、潮風も子どもたちも潤も私を誘っているのに、私は踏み出すことができない。潤は何も言わず私を睨んで、そのまま背を向けて歩き出した。子どもたちが後ろをついていく。波の音と私だけが取り残された。空はいつのまにか黒ずんでいた。
それからまたしばらく雨の日が続いた。空が泣くと海も泣く。波の音がさめざめと私の耳に響いていた。雨と海と両方向から襲われ、私の髪も身体も湿気を帯びていた。もう飽和状態だ。今試しにナイフで指を切ってみると、血ではなくて水が流れ出てきそうだ。
足取りも溜息もこの傘も、身体も心もすべてが重たい。この島は水に浸かっている。光の届かない海の底で浮上する時を待っている。大丈夫、息苦しいのは今だけだ。やがては晴れ渡った空と太陽に祝福される時がやって来る。皮膚が熱を感じ、涼しさと冷たさを欲する季節はもう、すぐそこだ。その頃には、私の心も乾いているに違いない。
七月に入ると、晴れの日がめっきり多くなった。狭い島中にセミの大音声が響き渡って頭をクラクラさせる。保育所の庭でも子どもたちがクマゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミを捕まえては遊んでいた。私はそれまでセミの種類なんてちっとも知らなかった。
子どもたちは日に日に黒さを増していった。あのミクちゃんでさえ、綺麗な褐色になっていた。今では岩場に集まることはなくて、みんな海岸で遊ぶようになっていた。小学生たちもやってきて、騒ぎつつ小さい子たちの面倒をみていた。さすがに子どもたちだけで泳ぐことは禁じられているらしく、まだ幼い子は波打ち際で走り回ったり生き物を捕まえたりではあったが、それでも十分楽しそうだった。
代わりに岩場には別のメンバーが集まるようになっていた。大きい小学生や中学生が潜る練習をするようになったのだ。私はまずそこで彼らを見物し、潤を確認してから海岸に出向いた。もう噂の的になるのはこりごりだ。潤は潜るのを少し早めに切り上げて、海岸までやってきては子どもたちの餌食になっていた。子どもは疲れるということを知らない。ここでは潤が俄かの先生だった。彼の監視のもとで子どもたちは泳ぐことを許される。小学生も園児も一緒になって、日が暮れるまで海とたわむれる。子どもたちの声が響く夕焼けもなかなかいいもんだと思った。それはとても懐かしい情景だった。