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「これは、ちゃんとした食べ物や。オレが今、海ン中から採ってきたんや。食えんはずがない」
彼は器用にサザエを取り出し、それを口に含んで咀嚼した。私は押しつけられたサザエを持ったまま、茫然とその光景をみつめていた。
「あの、これ、帰って焼いてみる。焼いたら食べられるかもしれないから」
自分の食わず嫌いのモノを目の前で豪快に、それも生で食べられてしまってはそう言うしかない。そして実行もしなければならないだろう。それが不思議と嫌ではなかった。
「なんでこんなウマいモンが嫌いなんやろな。 本土の人間の味覚はようわからん」
言いながら潤はサザエの殻を海に向かって放り投げた。綺麗な弧を描いてそれは波に飲まれていった。
アパートに持ち帰ったサザエを私は焼いてみた。そのグロテスクな形状は見ないようにして少しだけかじってみた。口の中に潮の味が広がった。そしてちょっとずつ口に入れていった。ひと噛みするごとに爽やかな苦みと磯の匂いが溶けだしてくるかのようで、思っていたよりもまともな味だった。潤にそのことを告げると、「オレの言った通りやろ」と、日差しの中で得意気に笑った。
梅雨に入る少し前、いつものように海から上がってきた潤が私に言った。
「夏になったらさ、泳ごうや。あんた真っ白で病気みたいやし。ちょっとは日に焼けたほうがええよ」
私は自分の手と潤の手を見た。同じ人種で同じ場所に住んでいて同じ空気を吸っているのに、私たちの手はまったく違っている。それは色の問題だけではない。その手の逞しさ、その手が掴むことのできる未来の大きさの違い。私は緩やかに首を振った。
「泳げないから……」
「泳げんって、保育所の先生がそんなんでええんか?」
「プールでは泳げるよ」
「なら同じことやんか、海やって」
私は彼から目を離し、日が沈む前の海を見遣った。濃紺の色彩の中を漁船がやけにゆっくりと横切っていく。
「海、苦手だから」
見る分にはいい。殊にここの夕焼けはいつまででも眺めていたい。だけど、その海に入るのは抵抗がある。
「なんで、なんで海嫌いなんや?」
潤がまるで自分のおもちゃをけなされた子どもみたいに、すねた口調で言った。
「海は人間だけのものじゃないから」
私は答えた。プールなら平気だ。泳げる。だってそこは人間が人間のために用意した世界だから。あの冷たい水は私とは違う物質だけど、それでも庇護膜のように感じられる。立てば足がつく、それも大事だ。だけど海は違う。海は絶えず動いているしたくさんのものを抱えている。私の苦手な魚だったり見たことのない生物だったり異国の匂いだったり未知の時間だったり。見渡せない事実、底の見えない恐怖。そのうえ海は平気で人を傷つける。簡単に私たちの息の根を止める。
そんなことを跡切れ跡切れに伝えると、潤は軽く鼻を鳴らした。
「そんな綺麗事言いよったらオレら生きていけん」
背中に冷たい感触が走った。真冬の海の水と同じ温度が私と潤の間に降りてくる。
そうだ、この海は島の人間にとって生活の場所。潤たちの命をつないできた場所だ。この自然に、神様に、潤たちは生かしてもらっている。それは私の言うとおり海が人間だけのものではないということ。結論は間違っていない。だが発想の原点がズレている。海の豊かさも恐ろしさも想像しかできない私が、それを肌で感じてきた人間に意見できるはずなどない。
「ごめん」
私の声は風に飲まれた。潤に、ここで生きてきた人たちに、そして海に頭を下げた。