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Gin

バーテンダー

作者: 志摩

  俺がそこを訪ねた時、彼の顔には既に死が現れていたように思える。もう長くはないのだろう。そう感じさせる、どうしようもない死相の現れた顔をしていた。

 仕事中に突然倒れ、入院したのが前の晩。一晩がこんなにも彼を追い込むとは。そのくたびれた様子に声も出ない。

 俺は彼の店でアルバイトをしている。

 昼間はカフェ、夜はバ―になる店、そのマスターである。

 マスターの娘と俺は同じ大学に通っていて、サークルも同じ。その紹介で、俺は彼の店で働くことになった。

 マスターは何かと面倒見の良い、世話焼きな体質で、俺にも良くしてくれる。他人とは思えない存在だった。

 四人部屋にひとりきり、窓際のベッドで本を読む。陽に照らされた姿はそのまま消え入りそうなほど、とても儚いものに思えた。

 ここのところ眼に見えて痩せてきた、そう感じていたがどうやら具合が悪かったらしい。ほとんど毎日顔を合わせていたというのに、体調の変化に気付けなかったことは悔やまれる。

 見慣れたはずの姿はとても小さく、そして弱々しくて。俺はこの小さな背中にどれほど頼ってきたのだろう。無性に寂しさが募った。

「お元気ですか?」

 なんと声をかけるべきか分からず、咄嗟に出た言葉だった。

 鼻から落ちそうな位置にある老眼鏡の上へと瞳を動かし、俺の姿を捉えると、マスターは嬉しそうに笑った。

「ええ、静かに本を読めて幸せです」

 元気である、そう言わない彼の心境を思うと笑えなかった。

 マスターは本を閉じると、何を思ったのか、ベッドから降りようとした。慌てて歩み寄りそれを阻むと、手に持っていた土産の袋を渡した。

「頼まれていた本です。探すのに苦労しました、絶版のものまでありましたし」

「それはそれは。苦労をかけましたね。ありがとう、大切に読みます」

 傍の机に袋を置き、俺が買ってきた本を出して眺めていた。

 俺は布団の上に置かれたままの、おそらく病院で買ったのだろう流行の本を見た。確か恋愛もので映画化が決まっていたはず。しかしこの類のものは彼の好みではなかったような。

「愛娘からのプレゼントですよ」

 俺の視線に気が付いてか、穏やかな表情で語り出した。

「気を使ってくれたんですよ、退屈しないように。しかしもう読み終えてしまいそうで。それで君に本を持って来るのをお願いしたんです」

 彼女はすぐに帰れるからと、本を一冊しか置いていかなかった。俺が頼まれたのは五冊、それも厚いものばかり。

 小さく笑いながら本を眺める彼が、長くなる、そう言っているような気がした。

「ああ、そうだ。君に少しお願いしたいことがあるんです」

 眼鏡を外して机に置くと、深呼吸をして瞼を閉じた。

「君も知っているように、私は本が好きでしょう? そこで小説を書こうと思った時がありまして。それから今まで少しずつ書いていましてね。後でそれを読んでもらいたいんですよ」

 俺も本は大好きだし、とても興味をそそられる言葉だった。断る理由はなかった。

「もちろん、読ませてください」

「それは良かった、文章が下手なのは勘弁してください。それと、あの子には内緒にしてください。恥ずかしいですから」

 それが先の愛娘を指していると気が付き、俺はやっと笑えた。

「あの子は文章を書くのが本業ですからね。記者の卵なんですから」

 誇らしそうに笑うマスターの姿、それが俺の見た彼の最後の姿になった。



 マスターの葬儀は秋晴れの気持ちの良い日に行われた。

 病院で会ってから三日しか経っていなかった。彼はあの日の夜、急に逝ってしまった。

 急ぎすぎた彼の死は、簡単に受け止めることのできないものだった。

 青い空と暖かい風、とても穏やかな雰囲気の葬儀だった。泣いて悲しむ参列者を、彼が笑顔で慰めてくれているような不思議な心地がした。

 俺は懸命に喪主を務める彼女を見ていられず、先に帰ってきていた。思い出の多い、彼の自宅兼職場である店に。

 彼の具合が悪くなってお休みしていたこの店も、マスターが死んでしまっては、もう開くこともないだろう。

 俺は店に入るのを躊躇い、ただ戸に手をかけただけで店を去った。寂しさがこみ上げてきて、立ち入ることができなかった。


 マスターが死んでしばらく、大学で彼女を見かけなくなった。

 俺は何もできなかった。彼女の友人として、何の力にも。マスターだったらどうしていたのだろう。どうやって彼女を救えば良かったのだろう。

 俺はぼうっと、店に向かっていた。

 店に行けば何かがわかるかもしれない、そう感じて。

 戸に手を触れると、なんだか涙がこみ上げてきた。必死に堪え、深呼吸して中に入る。

 埃っぽい店内、彼のいなくなった後、誰も来てないのは明らかだった。棚を見上げ、埃で曇った瓶たちが泣いていた。

 彼がよく立っていたカウンターの場所を眺め、その前の席に座っていると、涙が流れていった。

 酒に馴染みのなかった俺に、いちから仕込んでくれた。仕事だけでなく、私生活まで心配してくれて。手作りのご飯を食べさせてもらったり、一緒に本を買いに行ったりもした。

 たくさんの思い出が浮かんでは消えた。

 突然からんと戸のベルが鳴って、顔を上げた。

「君、バイトの子だよね」

 入って来たのはマスターが紹介してくれた、馴染みの若い女だった。長い白髪で印象に残っていた。

 一瞬、彼が戻って来たかもしれない、そう錯覚してしまった。

 それほどに、俺の頭は彼との思い出に溢れていたのだ。

 涙を拭い俺が頷くと、女は鞄から何かを取り出した。

「これを君に渡すようにと。マスターに生前から頼まれていたの」

 渡されたのは一冊のノート。ぱらぱらとめくると、そこには字がびっしり書いてあった。

「これは?」

 女に問うが、首を傾げられた。

「渡すように言われただけよ」

 そう言うとぼうっと俺を見た。

「なんでしょうか?」

 女は俺の肩にぽんと手を置くと、「頑張れ」と言って去って行く。

 俺の後ろの方を見て、笑って頑張れと言うわけの分からない女だった。

 今はそれよりも、この手の中にあるノートが優先だ。彼が俺に託したもの、その正体は一体。

 ノートをよく見るが、表紙には何も書かれておらず、とりあえず順番に読んでいくしかなさそうだった。特別古い感じはしないが、よく使い込まれている印象だった。

 表紙をめくると、一枚目にまず一言あった。


 『私のお願いを覚えていますか? 私の書いた小説を読んで欲しいと。それがこのノートです。お願いができていなかったら申し訳ない。あまりにも突然逝ったのでしょう。それでもどうか、この年寄りのお願いを聞いてください。』


 病室でのマスターの姿が思い浮かび、どうしてこんなことを頼んでいったのだろうと怪訝に思った。

 彼のいなくなった今、このノートが彼自身のように思えて。現実を受け止めきれていない俺はすぐに読み始めた。

 『これはとある女の子の取り巻く世界をつらつらと書いた話です。』という文章で、物語は始まった。




 これはとある女の子の取り巻く世界をつらつらと書いた話です。

 

 まずは人物の紹介をします。

 ある男たちが、両親が教員をしている家庭に生まれました。できの良い兄と、できの悪い弟の二人兄弟。

 兄は、成績優秀、運動も得意。学校では期待された秀才です。両親はこの兄をとても愛していました。

 弟は誰の眼から見てもできの良い息子ではなく、家族から見ても擁護できないほどに素行の悪い人間でした。運動は得意でしたが、勉強の方はお世辞にも良いとは言えないようなやんちゃな子どもだったのです。しかしそれが許されるような家庭ではなかった。勉強ができなければ運動を頑張りなさいと、優しく言ってくれるような。

 父も母も彼を侮蔑し、家庭での会話はない。それを知っていても兄は特別庇ってくれたりはしない。そんな環境でした。

 親戚には医者や弁護士がいるような一族で、勉強もできずに好き放題やっている彼の居場所は、どこを探してもありませんでした。

 彼はそんな家族に嫌気が差して家出をします。彼が中学二年生の時でした。それから彼はさらに荒れた生活を始めます。最後の歯止め、家族との繋がりを断ったせいです。

 しかし彼にも期待に応えられなかった、家族を捨てたという罪悪感があったのも確かです。それと同時にできの良い兄に対する嫉妬も。それでも何をしたら良いか分からず、彼は荒れているしかなかったのです。愚かですね。

 だからこそ、彼は何かをしたいと、変わりたいと思っていました。

 

 そして、もうひとりの重要人物。あるひとりの女性がいます。この人は兄の方の恋人です。この方についてはのちのち。

 

 本当は全てを書ければ良かったのでしょうが、私の頭の中のものを全て書き出している時間はないようですので。彼ら三人が出会った頃から話を始めようと思います。

 ここからはちゃんと小説ですから安心してください。

 拙い文章ですが、どうか読んでください。

 

 それから、最後にお願いです。

 恥ずかしいので娘には内緒にしてください。よろしくお願いします。



 中学二年で家出をして、友達の家を転々としながらなんとか学校を卒業した。高校へも一応入学はしたがすぐに辞めた。

 今は居酒屋のバイトと派遣の仕事をしながら、相変わらず友達の家を転々としている生活。

 今日もいつも通り仕事を終えて、鞄ひとつしかしかない荷物片手に、愛車の青いXJ6Nに乗って友達の家にむかっていた。

「ちは」

 何度も行っていた友人の家に笑顔で押しかけると、いつものように快く迎えてはくれなかった。

「悪い。今、彼女来ててさ」

 玄関には見知らぬ白いハイヒールがあった。

 この男にもついに彼女が……、というよりも俺の家がまたひとつ減ってしまったという思いが強かった。

「分かった。悪かったな、また今度遊ぼうな」

「すまねえ」

 そそくさ戸を閉めてしまう。気にせず俺もさっさと家を離れた。他の家を探さないと。

 二十歳を迎え、合法的に酒も飲めるし煙草も吸えるようになった。馬鹿ばかりしていた俺は、さらに調子に乗るようになっていた。しかし良いことばかりでもなかった。遊ぶ友人がどんどん減っていくのである。

 こいつのように女ができたくらいならまだ軽度で、今までも何人もいた。それよりも結婚しただの子どもができただの、そんな騒ぎだ。

 もう仲間内で集まって、昼夜問わず遊んだりできなくなった。

 周りのやつらが大人になっていく。そんな中で置き去りになっていく自分、世界から孤立していく感覚。そんな恐怖に押し潰されそうになっていた。

「俺も遊んでばかりはいられねえな」

 自分の世界の崩壊する音が聞こえる、この世界から自分が消えていく、そう思うと体が震えた。

 俺は何も考えないようにバイクに跨り、次の家にむかった。


「悪い、今日は都合悪いんだ」

「そうか……。遅くに悪かったな」

 見事に五件振られまくった俺は、もう当てがなくなっていた。

 コンビニの駐車場にバイクを停め、どこに行こうか考えた。バイクの側に座りこんでいると、眼の前を冬休みらしい学生たちが和気あいあいと話しながら歩いて行った」。怯えた顔を俺に向け、避けるように。

 近くの進学校の制服だった。あいつらはきっとこれから良い大学に進学して、良い会社に就職していくんだろうな。羨ましいとは思わない、俺らがやっているような遊びだって、こいつらは知らないんだから、なぜだかそう思った。

 携帯の電話帳を眺めるが、行けそうな家が見つからない。

 途方に暮れていると丁度良く電話が鳴り、今から海まで走りに行くらしいとのこと。することもないのでそれについて行くことにした。


 俺はセブンスターを吸いながら、愛車の青いXJ6Nに跨っていた。

 空には月が輝き、暗い地上では煙草の火がぼんやりと輝いるだけ。

 潮の匂いと煙の匂いで妙に切なくなる。

 深夜の人気のない海辺で、俺たちは冷たい風を浴びていた。

 突然、ライトが照って、波が輝き出した。

 振り返ると、沢山のバイクのライトが当たりを照らしている。バイクと人の影が大きく映り、とても不気味に見えた。

 マジェスティ、マグザム、ゼファーと、仲間たちが次々に走り出していった。

(つかさ)? どうした?」

 後ろに座っていた先輩が俺の頭を小突いた。

「すんません、俺もういいです」

「は?」

 無理やり先輩を降ろし、他の奴の後ろに乗るようにと言った。

「おい!」

 後ろで何か言っているが、聞こえないことにしよう。俺は仲間の群れとは反対方向に走った。

 一人で走りたかった。ただ静かに、何もかも忘れて。


*○*


「兄貴、俺を働かせてくれ」

 開店前でまだ暖簾は上がっていない店に、珍客が現れた。

 もう何年も会っていなかった弟、士がいきなり現れ土下座をした。

 士とは十も年が離れていて、二人仲良く育った記憶は少ない。弟は俺を避けていたし、俺も特別かまおうとはしなかった。

 他人のような家族、正直なところそんな印象だった。

「どうしたんだ? 急に」

 呆れて何も言えずに、ただそれだけを口に出した。

「俺、ちゃんと生きていきたい」

 頭を伏したまま、力強い声でそう放つ。

 家を出て行ってからというもの、良い噂は聞いていない。飲み歩いては喧嘩しているだの、深夜にバイクを乗り回しているだの。

 ここで土下座をしていても、よれよれのジャージで金髪を長く伸ばしている姿で。そんな言葉、一体どう信じろというのか。

 ひたすら動かずに頭を床に付ける。何がどうしてこんな状況になっているのやら。

 俺はただ溜息を吐いた。

「顔を上げてみろ」

 一瞬頭を動かしたが、弟はまだ頭を上げなかった。

「本気なのか」

 表情が見えないので、俺の言葉をどう受け取ったのか分からない。

 士は答えず、頭を上げることもしない。答えのない様子を見て、俺は士を追い出そうと決めた。

「……本気だ」

 先よりも強く頭を床に押し付けて、低く慎重な声が聞こえた。

 弟の士は俺が料理学校を卒業した頃から、家に帰らなくなっていた。小さい頃は俺の周りを走り回っていたのを覚えている。

 いつの頃からか俺を避けるようになり、終いには家を出た。両親は失望し、士はうちの子どもじゃないとまで言っている。

 勉強ができない、口が悪い、喧嘩っ早い。そんな三拍子が揃った弟のことを、あまり良く思っていなかったのは確かだ。ただ両親のしているような、人間と思わない、そんな扱いをするべきでもないと思っていた。

 今回こういうことになったのも、士が心から悪い人間ではないということを示唆しているような気がした。これからの士の頑張り次第ではあるが。

「いいだろう、うちで修行するといい。ただし、弟とは思わない」

 これが最大限の譲歩だ。

 とりあえず様子を見ながら、雇うことにしよう。改善する気がなさそうならすぐに辞めさせる。俺の家庭にまで迷惑がかかったら大変だ。可愛い娘に悪い影響が……。

 士はようやく顔を上げ、しかしすぐにありがとうございますと頭を下げた。

 俺の初めての弟子は不覚にも弟だった。

 

*・*

 

 今日は娘を連れ、旦那のお店に行く。

 そんな楽しい予定のはずのだったのに、生憎の雨である。

厚い灰色の雲で覆われた空、肌にまとわりつく湿気。あたしの嫌いなものばかり。

「ままぁ。あめさん、ざーざー」

 三歳になったばかりの娘を連れて歩いて行くとなると、結構な手間になる。いっそ行くのを止めてしまおうかとも思うのだが、娘はじっと窓にはりつき、眼を輝かせている。

それだけ楽しみにしているのだ、父の仕事姿を見るのを。

「そうねー、そろそろ行こうか?」

「うん!」

 元気良く返事をして、玄関まで走って行ってしまう。慌てて追いかけるあたしもあたしだが。

 お気に入りのピンクの合羽を着せて、お揃いのピンクの長靴を履かせて。

 自分の準備ができると、早く早くと先に家を出ようとする。そんなにも楽しみにしているとは。

 雨のせいで大きくなった荷物と、娘の手を掴んでゆっくりと家を出よう。

 全くもう、この子はあたしがいないと駄目なんだから。そう思い、親馬鹿にも程があると自分を戒めた。


「だからこれはこうじゃないって!」

「分かってるけどできないんだって!」

 お店に入ると、喧嘩する声が聞こえてくる。この二人の怒鳴り声を聞くのが、最近はもう日課になっている。

 お店の店長であたしの旦那、酒野武と、最近弟子入りしてきた昔の知り合い、士くん。

 アルバイトを雇う余裕がないうちの店は、忙しい時にあたしが手伝いに入ってなんとかやっていた。

 そんな中、当然来てくれるようになった士くん。非常に助かっているのだが、普通のバイトの値段よりも安く来てもらっていて、すごく申し訳ない。

 (たけ)ちゃんは、あいつは素行が悪いからこれくらいで丁度良いと言って厳しく当たるけど、そんなに悪い子ではないと思う。

 娘とはよく遊んでくれるし、修業も頑張っている。確かに口は悪いし、敬語もいまいち使えないし、改造したバイクでここに通っていて、最初の頃はご近所さんが何事かと見に来た。それでも人懐っこい性格の士くんは、すぐにご近所さんと打ち解けた。

 危ないお客さんが通っている、とか噂が経つと経営に響くから、非常に助かる。

「ぱぱぁ」

 娘が喧嘩してすごい剣幕の武に、満面の笑みで走り寄って行った。

 すると包丁を持って怒鳴っていた武は、すぐに笑顔になって娘の方を向く。

「ごめんな、パパちょっと忙しくてな。待っててよ」

 そう言ってあたしの方を向くと、座敷の方へ視線をやった。

 座敷にはテレビがあって、いつも準備が終わるのをふたりで待っている。今日もそうしろということなんだろう。

 あたしは笑顔で答えて、そっと座敷へむかう。座敷へ行ったからといって、怒鳴り声が聞こえなくなるわけではないんだけど。あのふたり、少しは大人しくしてくれるのかしら。包丁を持って怒鳴っている父なんて、子どもに良い影響を与えるシーンではない。大丈夫だろうかと少々心配になってしまう。

「テレビ見てようね」

「うん!」

 テレビの音量をいつもより大きくして、むこうの声ができるだけ聞こえないようにした。包丁を持って怒鳴る武、いつもの優しい武ちゃんを知っていても怖いと感じてしまう。こんな天気の日は余計に。

 あたしは自分の気も紛らわせるように、一緒にテレビを見た。


*●*


 兄の(たけし)は、三十歳を前に自分の店を出した。和食の料亭といった感じのお店である。

 お店を始めた時にはもう結婚していて、嫁さんのお腹には娘がいた。

 お店は今年で二年目、娘は今年で二歳になる。美味しいご飯と酒で、人気が出てようやく繁盛し出したようだ。

 俺の義姉に当たる人は愛さんと言って、兄貴が修業時代にバイトしていた料理教室の生徒さんだそうだ。

 俺から見ても兄貴と愛さんの仲が良いのが分かる。

 俺が修業に入ってから、初めて会うことになったわけだが、兄貴は俺を弟だと紹介していないようだったので、俺も特別仲良くはしなかった。


「おいちゃん!」

「はいはい」

「きょおはぶーんする!」

「はいはい」

 俺の背中に乗って、ぶーんと称する遊びをしているのが姪にあたる子、じんちゃんである。

 誰に似たのか、非常に活発的で、遊びが大好きな子である。俺は仕込みをある程度片付けると、後は開店するまで用なし。いつもじんお嬢様の下僕になっているのである。

 愛さんは、お店の掃除をしてテーブルの準備をするので、俺と交代でじんちゃんの面倒を見ることになるのだ。

 それにしても、二歳児というのは破天荒で手に負えない。

 初対面の俺に、緊張もせずに話しかけてきて、三ヶ月経った今ではこんなに懐いてしまった。

「おいちゃん、あっち!」

「はいはい」

 まだ二十代の俺はおいちゃん(おじちゃん)と呼ばれ、じんちゃんのお馬さんにされてるのである。

 まだ舌足らずで可愛いのだが、甘やかされているのか、どうにもお姫様のように育っている。

 愛さんといる時は大人しくテレビを見てくれているのに、俺といる時はいつもこう。大人しくしていてくれない。

座敷からカウンターの様子は分からないが、むこうからはよく見えるようになっている。兄貴も愛さんもこっちを気にしながら準備をしているはず。だからこそもう少しじんちゃんの教育に関して厳しくしても良いのでは、と思ってしまう。

 遠慮がないのは良いことなのか、悪いことなのか。まあ、子どもは元気な方が良いというし、俺もぐずぐずされるよりはこっちの方が楽なのは確かだ。

「士くん、大丈夫?」

 支度を終えた愛さんが、座敷に戻って来た。

「おかまいなく、頑丈なんで」

 心配そうに見られるのが俺には新鮮だった。どうにもくすぐったい気持になる。

「おいちゃん、つまんあい」

 俺の背中に跨っていたお姫様は、唐突に飛び降りるとそう言った。

「ん? 今度は何するんだ?」

 うーんと頬に手を当てて考え込む仕草をするのはとても可愛い。甘やかしたくなる気持ちも良く分かる。可愛い子どもがいると大変だと思う。

「ぱぱんとこいく」

 そう言って、甘えるような顔で見てくる。兄貴は今大丈夫なのだろうかと、愛さんを見ると、優しく頷いた。

「行っても平気だと思うわ」

 その言葉にじんちゃんは喜び、走って兄貴の方へ行こうとする。そんなじんちゃんを捕まえて、抱っこする。

「じゃあ行くか」

「いくー」

 ぶんと両手を振り上げたのが、俺の顔に当たりそうになった。全く、誰に似たのか。兄貴にも愛さんにもこんなじゃじゃ馬要素はなさそうなのに。

 俺の腕の中にいても、じんちゃんは騒ぎまくって運ぶのが大変である。

「ぱっぱあ」

 刺身の飾りを作っていた兄貴に手を振っている。

 愛さんも後ろからついて来て、一緒に見ていた。

「いつ見ても見事ねー」

 愛さんがほうっと感心している。じんちゃんも眼をきらきらさせて見ている。

 兄貴の手からは様々な飾りが作られる。俺はまだまだ未熟で上手く作れない。胡瓜にしたって、今作っている松に加え蝶、蛇腹に舞鶴などたくさんある。

 もっと修業しなければ。そうしたら俺も兄貴みたいにお店を出せるだろうか。ちゃんと生きていけるだろうか。

 眼の前に目標となる人間がいるっていうことは、現実がつきつけられて辛いけど、それに向けて頑張ることができるから良いのかもしれないと思った。


*○*


 予約用の料理の準備をしていると、座敷の方から声が聞こえてきた。どうやら愛と士が話しているらしい。

 様子を伺うと、どうやらじんが眠っているようで、ふたりで休憩中のように見えた。

 一体どんな話をしているのか気になったので、手を止めて少々耳を澄ませてみた。

「お店にはもう慣れた?」

 愛が士に聞いた。士はすぐには答えず、微妙な空気が流れる。

 おいおい、何か言えよ。愛が困るじゃないか。

 士は答えにくいのか、膝の上で眠るじんの頭を撫でていた。

 ここからでは何をしているかは見えても、表情までは見えない。俺は溜息を吐き、作業を再開する。

「どうなの? やっぱり大変かしら?」

 愛が懲りもせずまた聞いていた。こんなに怒られて、給料も安いような仕事が楽しいわけはないだろうに。どうにも答えられない士の姿を想像して失笑してしまう。

「士くん?」

「そうですね、慣れてきました。楽しいです」

「それは良かった。最近は気が利くようになってきて、俺が動くより前に動くんだって、武ちゃんも言っててね」

「そうなんですか」

「そうそう、なんだか笑いながら愚痴を言うのよ。まだまだ包丁が上手く使えないんだとか、集中力が足りんとか」

「なるほど」


 愛の話を聞いて、俺が笑いながら士の話をしていた事実を初めて知った。

 どうにも恥ずかしくなり、俺はふたりの会話を聞かないように努める。

 最初の頃は怒鳴り合いながらの仕込みだったが、最近は怒鳴らなくてもある程度できるようになってきた。忙しい時は接客もやるし、正直こういう商売にむいていると思う。

 士が弟子になって、一緒に働いてみて、そんなに悪い人間ではないのだろうということがひしひしと伝わってくる。大勢の人と関わって生活してきただろうから、俺よりもこういう仕事にむいているのかもしれない。

 士が店に突然来てから、早くも一年が経とうとしている。自炊をしていたようなので、一通りのことはできた。それでもプロの仕事は、家庭の料理とは違う。やはり覚えることはたくさんあった。

 俺も最初は大変だった。料理をやることに賛成してくれる人なんていなかったから。

 学校は勉強をやるところ、そういう育てられ方をした俺は、万年帰宅部だったし、友達と遊びに行ったという経験もほとんどない。

 いつも勉強、家でも外でも、どこでも。遊びなんてもってのほか。そんな俺の唯一の息抜きだったのが、母の手伝いとしてやっていた料理。いつしか本格的に料理をやりたいと思うようになって、親の反対を押し切り専門学校に入った。

 料理なんてくだらない、もっと勉強しろ、そればかり。親戚の弁護士事務所に、いや病院に勤めろ。教員でもいい、だから自営業なんてことはするな。そんなことしか言われなかった。

 専門学校を卒業する頃、俺は毎日のように喧嘩していた。勉強よりもやりたいことがあるんだと、幼いながらに喧嘩していた弟の姿を思い出した。あいつが家を飛び出した理由も、何となく分かり始めた。だがしかし、あいつは非行に走っていた。それは認められない、弟の悪い部分。

 確か、愛と初めて会ったのはこの頃だった気がする。

 曇天の、今にも雨の降り出しそうな昼下がり。


***

 

 子どもが両親と手を繋ぎ、仲良さげに歩いていた。

 厚い雲で覆われた空、肌にまとわりつく湿気、雨の匂い。もうすぐ雨が降り出しそうであった。

「雨、降るかな?」

 天を見上げ、両手を天へと伸ばす。雫がこの手に届くのを今か今かと待っていた。

 子どもは雨が大好きだった。雨が造る閑静な世界、雫が滴る沢山の音。雨が降りそうな時は家族みんなで公園に出かけるのが、彼女の至福だった。


 公園のベンチ、親子はそこで目の前の池を見ていた。ここの景色、ここの音が子どものお気に入りだったのだ。

 ここの公園には休憩の小さな建物があり、晴れた日はお弁当を食べる家族もいる。しかしこのような天気が悪い日は、この家族だけの憩いの場になっていた。

 雨が降り出しそうなのに、降ってこない。子どもが待ちきれずに拗ねていた。両親は仕方ないねと宥め、なかなか降り出さない雨を待っていた。

 そんな中、ひとりの男がこのベンチに向かって来ていた。傘を持っていないようで、雨が降る前に雨宿りの場所を探しているだろうか。そう両親が話していた。子どもが、傘を貸してあげようかと両親に提案し、まだ雨は降ってないんだよと言われていた。


 突然のことだった。

 眼の前に広がるのは赤い花、空中を飛び回り、世界を染めていく。あたしを、赤く染めていく。


***


「今、士が俺の店で働いてるんだ。良かったら来てくれ」

 武ちゃんが電話をしていた。

 誰と話しているのだろう、ひどい剣幕で今にも怒鳴り出しそうな雰囲気であった。

「好きにしろよ、俺は伝えたからな」

 そう言って切ってしまったようだ。

 じんを寝かしつけて、あたしもそろそろ寝ようと思っていたのに。武ちゃんが心配で眠気が霧散してしまう。

「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。ちょっと家の問題でな」

 士くんが家出をして、一人暮らしをしているらしいことは話しをしていて分かった。そんなに複雑な家庭なのだろうか。とても心配になる。

「うちみたいに母子家庭とか、そういう話?」

「ああ、いや。そういうことではないよ。士は喧嘩して家出してるんだ。それでな、両親と仲良くなくてな。後でちゃんと話すよ」

 武が悪いと言ってあたしの頭を撫でる。あたしは自分の家のことなんて気にしてないから、そんなに気を遣わなくていいのに。

「喧嘩で家出なんて、元気な子なのね」

「そうだな」

 そう言った武ちゃんは憫笑して見えた。


 あれから一週間ほど経った時だった。

 予約が多く、今日はあたしもじんを連れて、昼間からお店に手伝いに行った。

 お店が開いてから、じんには大人しくしていてねと言って、カウンターにいる常連のお客さんに任せてきた。常連さんのおかげで、いつもは子守り番の士くんも仕事ができるから、今日はいつもより回転が良かった。

 団体のお客さんが二組ほど帰って、やっと一息吐けると思っていると、戸が開いて嬉しい悲鳴を上げそうになる。入口の方へ行ってみると、それはお義父さんだった。

「お義父さん、いらっしゃいませ」

「ああ、愛さんか。混んでいるようだね、武は?」

「いますよ、どうぞ」

 お義父さんとは結婚の時にもめたこともあり、どうにも苦手意識が強かった。小学校の校長先生をなさっていて、頭も良いから、自信に充ち溢れ、威厳のある風体をしている。じんのおかげで仲直りというか、孫に会いたいからだろうけど、今ではそれなりに話をするようになった。けど、どうにも顔が怖くてやっぱり苦手。

 カウンターの開いている席に連れて行くと、武と士くんがふたり揃って眉間に皺を寄せた。

「いらっしゃいませ、すみません混んでて」

 他人行儀にそういう武ちゃん、なんだかいつもより機嫌が悪いように感じた。

「何年も音信不通の息子が来ているそうでね。どんなもんかと様子を見に来たよ」

 そう言うお義父さんは士くんを睨むように見ていた。

 お義父さんはあまりお店にこないので、士くんとは初対面かもしれない。知らない人が息子の店にいたらこんな顔になるのだろうか。そう思いつつも、あたしは座敷の片付けに行く。まだ二十一時になったばかりなのでお客さんが来るかもしれない、早めに片付けないと。

 おじいちゃんがいるのに気が付いたのか、じんはそっちへむかった。

 おじいちゃんの隣に座って、あーだのこ―だの言っていた。お願いだから、怒られるようなことはしないでほしい。

 お義父さんはとりあえず笑顔で受け入れてくれているので、仕事を終わらせ早くむこうに行こう、そう意気込む。

 お義父さんもお義母さんも、学校の先生ということがあって、なんだかとても硬い雰囲気の持ち主だった。

 天然系で周りが見えないような母とふたりで過ごしてきたあたしには、ちょっと関わりにくい印象があった。

 それにしても、音信不通の息子とは誰だろう。今日いた若いお客さんはさっき帰ってしまったし、今いるのは常連のおじちゃんおばちゃんばかり。タイミング悪く帰ってしまっただろうか。

「よくこんなのを店に入れたな」

 お義父さんの低く響く声が聞こえて、顔をそっちへ向ける。

 カウンターにいた常連さんたちが、それにつられて笑った。

「そうだよな。こんないかちい顔の兄ちゃんがな、縮こまってマスターに怒られて。もう笑ったよ。最初は不器用で見てて心配になったけど、今じゃあしっかりマスターの手伝いしてるよ」

「そうよね、おっきいバイク停まってて、何事かと思ったけど。じんちゃんのお馬さんになって座敷で子守りしてるの見たら笑っちゃって、もう」

「そうそう、最初は敬語もたじたじでね。今ではそれなりに話すようになったけど、きょどってるおかしな子だったな」

 常連さんたちは皆口々に笑い、士くんは居心地が悪そうである。

「皆さんに良くしてもらって、こいつには良い経験ですよ」

 武がフォローするけれど、常連さんがさらに笑って状況は悪化するばかり。士くんはもうただ苦笑いするだけである。

「そうですか、じんの子守りを、ね」

 お義父さんはじんの頭を撫でながら、話を聞いていた。

「おいちゃんね、じんのともだちなの」

 ねー、と士くんの方に微笑みかけるじん。子どもは場を和ませる。

「良いおじちゃんだよ、ほんと」

「そうね。いつも遊んでくれるよね」

「じんちゃんのお馬さんだよな」

 そう言ってまたからかわれ、士くんはもう今日は諦めて弄られているしかないだろう。じんもおうまのおじちゃん、とからかいだす始末。

「まだ俺二十そこそこですよ」

 不平な顔をしてそう溢す、しかしそれさえも笑いの種にされてしまう。

「そうなの? もっと上に見えたよ」

「そうよね、三十くらい」

「マスターと同じくらいかと思ってた」

 げらげらと、常連さんの容赦ない攻撃が続き、士くんはカウンターから逃げ出した。

「片付け手伝ってきます」

「おう」

 武が笑いながらこっちを見た。むこうの様子を見ていて手が止まっていたことに今気が付いた。慌てて片付けを再開する。

「いいですよ愛さん、慌てなくて。俺あっち戻りにくいんで」

 苦笑しながらこっちへ来ると、ゆっくりとした動作で片付けを始める。

「俺、久々に親父に会いましたよ」

「え?」

 問い返すと、首を傾げながら話し出した。

「十年ぶりくらいかな……まあ、言葉は交わしてないですけどね。眼の前に親父がいるなんて、居心地悪くてしょうがないですよ。兄貴も人が悪い」

 兄貴というのは、武ちゃんのことだろうか。士くんが武ちゃんを兄貴と呼ぶのを初めて聞いた。そもそもあたしはふたりが兄弟だなんて聞いていなかったから。

「本当に、人が悪いわ」

 言っておいてくれればいいのに、こんなに急に弟ができるなんて、思ってもみなかった。

「愛さん、俺が弟って知ってました?」

 顔に出ていたのか、士くんにそう言われた。

「今知ったわよ、もう。御免ね、何も知らなくて」

 やっぱりといった顔で武ちゃんの方を覗いてみた。武ちゃんはお義父さんと話しているのが忙しそうで、こっちを見てなどいなかったが。

「俺は不良息子なんで、隠して当然ですよ。それよりもなんで親父がここに来てるのか、そこが謎で」

「そうなの? 多分、電話したのよ。士くんがここにいるって」

 この前の電話を思い出し、家族のことが『武ちゃん自身の』という意味だったということに気が付いた。まわりくどい言い方をしたものだ。何も気付けなかった。

 がたんと大きな音がして振り向くと、お義父さんが立ち上がっていて、お客さんが困った眼で武とお父さんを見ていた。

「士は俺の弟だ。ちゃんとやってる」

 厳しい顔つきだった。怖くなったのか、じんはこっちに走って来ると、あたしの胸に飛び込んだ。

 お義父さんは何も言わずに出て行ってしまった。

「俺のせいだな」

 士くんはそう言うと、とぼとぼ武ちゃんの方へ歩いて行った。


*・*


「全く、今日はどうなることかと思ったわ」

 愛はエプロンを取ると、カウンターに座った。

 士がごみ捨てに行っている間に、愛が俺を叱りにきたのだ。

「悪い、俺が勝手にやったことだから。全部俺のせいだ」

「本当に。なんで弟って言ってくれなかったの?」

 俺は言葉につまる。いつ何をしでかすか分からない奴を、俺の弟だと紹介することが怖かった。そういう言葉は言いたくなかった。俺があいつのことをよく知らなかっただけで、あいつは悪い奴ではなかった。

 何も言わない俺に文句を言いたげに、愛はこっちを向かずに空を睨んでいた。

「これからはちゃんと話すようにしましょうね」

 低い声でそう言い、拗ねてはいたが、どうやら許してくれるようだ。

「すまん、今日は悪かった」

 俺は詫びの品を愛に差し出した。

「お芋の煮転がし! 怒られるって分かってたのね」

 愛は眼を輝かせながら、俺と芋を交互に見る。

 そうこうしている間に士が帰って来た。

「士、今日は飲むぞ」

「は?」

 いきなり振られた言葉に、素っ頓狂な声を上げた。父が帰ってからどうにも暗い顔をしていた士が、少しだけいつものように戻った気がした。

 しかし何事もなかったように戻って来ると、裏に行ってしまった。そのまま着替えて帰るつもりなのだろう。

 眼の前にいる愛がうきうきした表情でこっちを見ていた。

 俺は溜息を吐き、愛に笑顔を向ける。

「行ってきな」

「やった!」

 愛は着物姿とは思えぬほど俊敏に動き、士を追う。

 今日は最初から飲むつもりで、じんをお義母さんに預けることにしていた。愛には遅くなるだろうから、お義母さんに預けようと言っていたが。

 俺も愛も酒が大好きで、じんは酒から取った名前だ。

 俺はある程度強いが、愛は酒を飲むと面倒なことになるので普段は禁酒令を出している。

 そのため、あれほどに喜んでいるのだ。

「士くん、お姉さんのお酒が飲めないの?」

「いや、そうではなくて」

「飲みなさいよ、こら」

 愛にがっしり拘束され、着替え途中の士が引きずられて来た。もう少し待ってやれば良いのに、デニムに半袖シャツに頭を突っ込んで半裸の状態なんて可哀想だろう。

「今日は色々あったから、すっきりしよう」

「そうよ、そうよ。色々聞きたいこともあるし!」

 ふたりからこうも誘われれば断りにくいだろう。

 俺は今日の残りものと、作っておいた料理を出す。ついでに酒も出してしまって、これでもう逃げることはできないだろう。

「う。眼の前に出すの反則」

 ぐうと鳴る腹の音に、士はしぶしぶ席に座る。こうやってカウンター越しに士を見るのは、初めて店に来た時以来だった。

 あれからもう二年近く経つのか、しみじみ思った。

「お前は何飲むんだ?」

 士に問うと、満面の笑みで答えた。

「俺はなんでものめるぜ!」


「俺も愛も結婚の時は大変でな。お店を出すことでもめてたから、二重でもめたんだ」

「こんな娘と結婚させるわけにはいかないって、ご両親に言われて、大変だったわ」

「愛さんめっちゃ良い人なのに」

「そんなことはないわ。酒野さん夫婦にいっぱい怒られて、泣いちゃった。てへっ」

「てへって……俺も家出した時は大喧嘩ですよ。元々喧嘩ばっかりでしたけどねえ」

「俺も結局そん時の喧嘩で家出たしな」

「えっ?」

 言ってからはっととなった。酔っているせいか、俺の口も軽くなっているようだ。余計なことを言ってしまった。

 士が聞きたげにしているが、あまり聞かないで欲しい話なので俺は何も言わない。

 飲んだおかげもあり、ふたりはすっかり打ち解けたようだった。士はそれなりに飲めるらしく、愛のへらへらしている様子を面白そうに見ていた。

 カウンターをはさんで見ている、このふたりの話はなかなかに面白い。ぼけばかりの愛に士が突っ込みを入れている。

「愛、ほどほどにしないと」

「うー、分かった」

 俺が注意すると、ふいっと顔を背けながらも了解する。

「あたしもよく親と喧嘩したよー」

「そうなんですか、意外」

「そう? あたしも色々あってね」

 そう言って笑うと、頭をがたんとカウンターに打ちつけた。俺が思っていたよりも酔がまわっていたようだ。

「大丈夫ですか?」

 士が心配して愛を起こしにかかる。

 愛は唸りながら、頭を抱えていた。

「大丈夫じゃねぇよ!」

 いきなり叫ぶと、がばっと頭を後ろに逸らした。

「あーくそっ。痛え」

 酔が回りすぎて、どうやら良くないことになりそうだった。悪いところを打ったようで、頭の調子が良くないようだ。

「士、もうお開きだ。今日は上で寝ろ」

 突然言われ驚いたようだが、愛の様子を見て頷いてくれた。

 急いでカウンターから出て、愛の方へ歩みよる。愛は椅子の背もたれに寄りかかるようにして、手で顔を覆っていた。あーと唸りながらぐったりしている。

「運ぶの手伝う?」

 士が気を使ってくれたが、今はとりあえず愛を落ち着かせないと。

「大丈夫だ。面倒なことになる前に、上に行った方が良い」

 そう言って追い払うしかなった。

 酔っ払った愛がやばいと思ったのか、士は素早く出て行った。全く面倒なことになった。

「大丈夫か?」

 声をかけると、顔を俺の方へ向け力の入らない腕で殴ってきた。

「これが大丈夫に見えるのかよ、武のばかやろう」

 そう言って俺の方へ倒れ込む。

「こんなになるまで飲ませやがって、酔ったらさっさと寝かしつけてくれよ」

「悪い、愛がこんなになるなんて思ってなかったよ」

 嗚咽を上げ出すお姫様を抱え込み、抱っこして座敷まで運ぶ。座布団を引いて寝かしつけるようとするがなかなか離れないようとしないので、仕方なく一緒に横になる。

「はあ、死にたい」

「飲みすぎただけだよ、そんなこと言うな」

 すがりついて泣く彼女の頭をずっと撫で続けて、ただ彼女の口から溢れる「死にたい」という言葉を拾い続けた。



 店の上にある部屋は荷物置場になっている。兄貴が時々泊まっているらしく一通り生活用品が揃っていて、泊まるには問題なさそうだった。

 酒を飲んで家に帰れない俺は、ここに泊まることになった。

 愛さんは泥酔してしまい、兄貴も連れて帰るのを諦め座敷でふたりとも寝ることになるだろう。じんちゃんはもう眠っているので朝に帰れば大丈夫だ。それに俺も下にいない方がふたりのためによろしいはず。


 愛さんは大人しい、夫の後ろをついて行く女だ。健気に夫の世話を焼いて、献身的に支える。そんな愛さんは当然のように俺にも世話を焼いた。なんだかこっぱずかしくなるから止めて欲しいのだが。

 両親の仲の良い姿をあまり見ることなく家を出てしまった俺にとって、兄夫婦は理想の夫婦だった。

 自分の店を持ち働く夫、優しく気遣いそれを手伝う妻、楽しそうに笑う娘の笑顔に、家庭の円満さを感じていた。


 それにしても、兄貴まで家を出ているとは思わなかった。結婚する時によっぽどもめたらしい。愛さんのことでもめて喧嘩したと言っていたが、何がそんなにいけなかったのだろうか。

 良い具合に酒が入って心地良い眠気が俺を襲う。

 次第に俺の意識は遠のいていった。

 

***


 突然のことだった。

 眼の前に広がるのは赤い花、空中を飛び回り、世界を染めていく。私の身体を、赤く染めていく。

 きらきらと、何かが光っていた。

 男の手にあったのは包丁で、振り回されるそれが光っていた。

 こんな天気の悪い日は外に出ないのが普通。

 だから周りを見回しても、助けてくれる人はいない。

 あたしを抱きしめる母の腕が、きつく身体を拘束し、手を伸ばしても届かない。

 

 きらきら光る包丁、眼の前に飛び散る赤い花。

 

 ――この花はどこから散っているの?

 

 男の前に立ちはだかり、私と母を守っている父の背中。だんだんと後ろに下がってきて、最後には眼前に降ってきた。やっと手が届いた父は、もう動かない。

 

 返り血に染まり、真っ赤になった男が立っていた。

 母の悲鳴が降ってきて、私の耳に響いた。

 男は何を思ったのか、包丁を自分の方へ向けると胸へと突き刺した。何度も何度も、何度も何度も。

 沢山の赤い花を咲かせながら、辺りを真っ赤に、私を真っ赤に染めた。

 命の限界を迎え、その男もまた倒れた。私たちの上に。

 母が隣で倒れ、私を縛っていた鎖が解けた。

 父に手を伸ばす、しかしその手を掴んではくれない。

 さっきまで笑っていた父は、沢山の赤い花を降らせ倒れた。

 

 今になって雨が降りだし、辺りの血を滲ませていった。

 

 次第にできる水たまり、そこに映る私の顔は真っ赤で、そして私に話しかけた。

 

***


 ある日、深夜に電話が鳴り、のろのろと起き出すと、兄貴からだった。一週間ほど店を休むと慌てて言うと、すぐに電話は切れてしまう。訳は教えてもらえなかった。

 不思議に思いつつも、一週間も仕事がないと生活費が足りなくなってしまう。

 俺は兄貴の店で働くようになって、まず、ふらふら夜歩きするのを止めた。

 家を借りて、家具をある程度揃えて、兄貴に言われて道具を揃えて。それだけで今まで貯金していたお金はほぼ消えた。

 兄貴からお古の道具やら服やらをいただき、時にはご飯も一緒に食べ、なんとか生きていけるくらいだった。今まで遊びばかりで将来のことをあまり考えず、貯金するなんて頭がほとんどなかった。ちゃんと生きていくということが難しいと痛感していた。

 今でも友達からは遊びの誘いはくるし、バイクで遠征に行くからというお呼び出しがあったりする。しかしそんな暇はない、とひたすらに断っている。付き合いが悪いと思っていたのが、今では思われる側になったわけだ。

 時々は遊びたくなる、けれど今は忙しくて、遊びよりもやるべきことがたくさんある。今までにはない感覚だった。やることは特にない、だったら遊ぼう、という今までのどうしようもない退屈はなくなった。

 兄貴のところでの仕事はとても楽しい、やりがいがある。けれどその収入だけでやっていくのは結構厳しいのが現実。兄貴の負担になるのは嫌だから、給料を上げてとも言えない。

 俺はお店のバイトと時々の派遣のバイトでなんとかやっていた。

 今回の電話も、何か急用ができた。そのくらいのことだ、今のうちに稼げるだけ稼ごう、そう思っていた。

 十日程休んで、お店は通常通り運営するようになった。

 兄貴には特に変わった様子もなく、ただ愛さんの具合が悪くて、じんちゃんの面倒と看病で大変だったらしいと聞いた。

「愛は元々身体が良くないんだ」

 兄貴は心配そうな表情でそう言った。

 確かに愛さんは小さくて細くて弱々しい。体調を崩したら引きずりそうだ。

「じんちゃんは大丈夫なのか?」

「今はお義母さんに預けっぱなしだよ」

 兄貴は今、家族三人で暮らしている。愛さんの実家の側にアパートを借りて住んでいて、ここへは歩いてこられるくらいの距離である。

 俺たちの実家もそんなに遠くない距離にある。しかしあの両親に頼るという選択肢はなかった。

 子どもの幸せより、世間体と自分の評価を気にする人だから。悲しそうに兄貴が愚痴を言っていた時があった気がした。

「じんは甘えるのが下手なんだ。だからいっぱい我慢させちゃってる」

 嘆息する兄貴は、父の顔をしていた。俺の前では馬鹿みたいに怒鳴ってあーだこーだ言っているだけなのに、こういう顔もするのかと、なんだか面白くなった。

「面倒見切れないなら、俺が預かっても平気だぞ?」

 どうせじんお嬢様の下僕ですので、と心の中でそっと付け足した。

「そうか、それは助かる」

 そんな話をしていると、戸が開きどうやらお客さんが来たようだ。

「こんばんは」

 しばらく来ていなかった常連のお客さんが来た。いつも座るカウンター席に座り、まずはビールを注文した。

「こんばんは、お久しぶりですね」

 挨拶すると、俺が兄貴の隣にいるのを不思議そうに見ていた。

「こいつもやっと半人前ですよ」

「へぇ。包丁も握らせてもらえなかったのにねぇ」

 兄貴と二人して笑っていた。確かにこのお客さんと会ったのは俺が店に入ってすぐの頃だった。その時はただの雑用だったから、笑われても仕方ないのだが。

「ここへ来てからもう二年は経ってますからね、俺だって成長しますよ」

 ビールを持って行き、俺が不満そうに言い返すと、嘲笑された。

「ひよっこが何言ってんだか」

 隣で兄貴まで顔を背けて笑っている。そんなに笑われると、少しだけつきかけてきていた自信が崩壊していく。

「お嫁さん元気?」

 常連が聞いた、お店が静かに感じると思ったら、嫁がいないからという結論になったらしい。いつも通りお店はやっていたが、愛さんとじんちゃんは最近お店にこなくなっていた。

 兄貴はその質問に何故かひどく狼狽した。

「調子悪くて、実家にいるんですよ」

 困り顔で、つまりながらの言葉だった。兄貴は聞かれたくないような顔をした、実家にいるのはじんちゃんの方じゃなかったか。そう思ったが、聞いてはいけないと経験的に察知し、話を逸らすことにした。

「今日は何にしますか?」

「そうだな、おすすめは何かね」

 兄貴の方へ向いて問うた。兄貴は未だ動揺を隠せずにいるが、なんとか切り返す。

「今日は良い南瓜が入って。煮物とかですね」

 すると客は、困った顔をして唸り出す。

「ここの煮物は上手いんだが、それじゃビールが飲めんよ」

 そう言って口を捻らせている。兄貴も俺も、すごい顔をして考え込むその客を、小さく隠れるように笑うしかなかった。

 客はこのやりとりを不思議に思わず、愛さんの話はそれで終わった。

 様子のおかしい兄貴を見て、何か良くないことが起こっている気がしてならなかった。


 それから何日か経った日のことだった。

 仕込みをしていると、材料が足りないから買ってこい、兄貴がそう言ったのだ。

 今までになかったことで驚きつつ、こんなこともあるだろうと大人しくお使いに行った。

 その帰り道、公園の側を通った時だった。

 愛さんによく似た女性を見かけ、声をかけようとした。

しかしすぐに見失い、辺りを見回すが見つからない。

 大人しく店に戻ろうと足を向けると、眼の前に人がいた。驚くことに、それは探していた愛さんだった。

「あんた誰だよ」

 下から睨み上げ、相手を威嚇するような顔つきだった。

 愛さんは俺を知らない素振りで、話し方も仕草もいつもの大人しい彼女とは思えなかった。

「愛さん? 具合が悪いんじゃ?」

 問い返す俺に、愛さんは不思議なことを言った。

「お前、愛の知り合いなんだな?」

 俺は訳も分からず、ただ頷いた。

「じゃあ頼む、武のところに連れて行ってくれ」

 俺を睨みつけたまま言った。そのいつもと違う様子に、俺はただ首を傾げていた。どうしようもないので、とりあえず愛さんを連れてお店に戻った。


*○*


 最近いろいろあるせいか余裕がない。いつもできているはずのことができていない。今日の材料不足だって俺のミスで、余計な仕事を士にさせてしまった。

 お使いから戻った士の後ろについて来たのは、家にいるはずの愛だった。

「愛? どうしてここに?」

 士の方を見て問うが、士にも訳が分からないようだった。

 後ろにいた愛がひょいっと前に出た。

「武、私だ。愛じゃない」

 愛の顔した別人が不敵に笑った。

 一瞬で血の気が引いていくのが分かった。

 俺は士に店を閉める支度をしろと言い、愛の方へと向き直る。

「気が付いたら知らない場所にいた」

「ひとりで? どうして?」

「知らん、子どももいた。愛のフリをして家に帰れと財布を渡した」

「まさか! あの子はまだ小さいのに! ひとりにしたのか!?」

 そっぽを向いて、俺の顔を見ない。無言の肯定に、全身が震えた。俺は急いで裏に行って、愛の実家に電話をかけた。

 お義母さんがすぐに出て、じんのことを問うと、帰って来てはいないということだった。

 お店に戻ると、士が困ったようにカウンターで立ち尽くしていて、愛がカウンター席に座っていた。

「じんちゃんは?」

「戻ってない」

 士の問いに、ぶっきらぼうに答え、どうすればよいかを考える。よっぽど切羽詰っているのか、何をしたらいいのか全く思いつかなかった。

「あたしにはそれくらいしかできなかった。愛じゃないって、バレないようにしとけっていう約束だろ」

 不機嫌そうに呟いた。

 特に予約も入ってない日だったため、臨時休業の張り紙をしておいた。開店もしていないため客はいない、そしてもうこない。

 士がこっちを見ていた、何が起きているんだと問う眼で。

 こうなったらもう全てを話すしかなさそうだった。

「あゆみ、挨拶して。こいつは俺の弟の士だ」

「おとう、と? そしたら私たちの弟になるのか。初めまして、あゆみだ。今後は会わないといいな。よろしく」

 満面の笑みで言うあゆみに、士は戸惑うばかりである。

「身体を供用しているもうひとりだよ」

 俺はあゆみの隣に座り、頭を抱えた。困ったことになった。最近は落ち着いてきていたから、ふたりでいても平気だろうと家においてきたのが駄目だったのだろうか。いつ出て来るのか分からないから、対処が難しい。

「あたしには何もできないって! そもそも探しに行ったところで会話もできねえよ」

 隣であゆみが怒鳴った。

「くっそ、お前置いて行けないし、連れても行けないし」

 顔が強張って、うまく口も回らない。

「俺が探しに行くよ」

 士が言った、一瞬何を言っているのか分からなかった。

「え?」

「俺がじんちゃん探しに行くよ。それでうちに連れて帰る。ここに連れてきちゃまずいんだろ? だったらそうするしかないだろう」

 そう言い残し、さっさと店を出ていってしまった。

 士がいてくれてよかった。俺は気が動転しすぎて、何も考えられていない。士の一言がなければ、ここにじんを連れて来るところだった。

「あゆみ、とりあえず家に帰ろう」

「ん? ああ」

 あゆみはなんだかつまらなさそうな顔をしていて、髪の毛を弄んでいた。

「士、じんを頼む」

 そう祈っていることしか、今の俺にはできなかった。


*●*


「じんちゃん?」

 愛さんを見つけた辺りを探してみるが、見つからない。とりあえず、ここから愛さんの実家の方へ行ってみようか。

 愛さんのあれは、二重人格というやつだろうか。身体はひとつ、心がふたつ。今日の愛さん、ではないな。あゆみさんは全くの別人だった。

 兄貴が俺に何も話してくれなかったのは、どうしてだろう。やっぱり頼りなかったからなのだろうか。


 兄貴が両親ともめたのはこのせいだろうか。

 状況を把握していない俺は、愛さんに関しては何もすることができない。兄貴も愛さんとじんちゃん、二人の面倒は見られない。それだったらじんちゃんだけでも、俺が見ればどうにかなるかもしれない。

 兄貴は焦りからか、状況が見えていないのは明らかだった。あんな兄貴を見たのは初めてだ。あんなに何もできない、どうしたら良いか分からずに項垂れているしかない兄など。

 お店の近くで、寂しそうにとぼとぼ歩いているじんちゃんを見つけた。

「じんちゃん!」

 突然話しかけられ、虚を突かれたような顔をした。よっぽど不安だったのか、俺の顔を見るなり涙を流し出した。

「今ね、お店がちょっと大変なことになっちゃって。じんちゃん、今日は俺の家でお留守番なんだ」

 抱っこして宥めてやると、ゆっくりと口を開き出した。

「ままぁ、じん、んこと。きらいっ、にっ、なった?」

 顔を真っ赤にして、必死にそう言った。可愛そうで見ていられなくなる。

「ママはパパの手伝いに行ったんだよ。じんちゃんのこと大好きだから、大丈夫だよ」

 急いで出て来た為、財布も携帯もお店においてきてしまった。しかしお店にも戻れないから、俺の家に帰るしかない。四キロも歩くのか、子どもを抱っこしたままで。

 少し気が重いが、じんちゃんのことを思うと俺の苦労なんて軽度なもののように思えた。

 じんちゃんを背中に背負い直し、俺はゆっくり帰り道を歩いた。


***


 二十歳になる前の頃だった。ひとり暮らしがどうしてもしてみたくて、母に相談していた時だった。

 今まで色々心配をかけたこともあり、絶対に許しませんとのことだった。

「それに、料理も家事もできない子がひとり暮らしなんて無理よ」

 最もな意見だった。あたしは目玉焼きさえ焦がす、料理が全くできない女。そして掃除も洗濯も母がやっている。

小学校も中学校も、ちゃんと行かずに卒業だけした。高校は通信制だし、勉強も運動も得意じゃない。あたしには何もない、そんな現実が突きつけられた気がした。

 こうなったら料理教室に通って、料理だけでもできるようにしよう。母を見返してやるのだ。

 何日か前に料理教室のチラシを見た気がしてチラシを漁った。ようやく見つけると、第一回はなんと今日。チラシを握り締め、財布だけを持ち家を飛び出した。

 

 外はあいにくの曇りで、雨の匂いがした。傘を持ってこなかったことを後悔した。

 雲行がどんどん怪しくなって、空が暗くなる。

 とりあえず、目的地のビルに着かなくては。そう思うのに、足取りが重い。

 厚い雲で覆われた空、肌にまとわりつく湿気、雨の匂い。嫌な記憶が頭の中に蘇る。眼の前に広がるのは赤い花、空中を飛び回り、あたしを赤く染めていく。

 気が狂いそうな中、目的のビルを発見し、なんとか案内板の前に着いた。料理教室は三階らしい、今の時間なら教室がやっている最中だから見学だけでもさせてもらう。

 そう思うのに、身体が重くて立っていられなくなる。

 気持ちが悪い、しゃがみこんで息を整える。しかし、あたしの意識はどんどん沈んでいった。


 気が付くと、あたしは知らない家のソファで眠っていた。

「起きた?」

 初めて見る男だった。またやらかしただろうか。あれから何日経ったのだろう、一体今はいつだ。

「あの、今日は……」

「大丈夫だよ。気にしないで、君が愛さん?」

「え?」

 どうしてあたしの名前を知っているのだろう。今までこんなことはなかった。

「あゆみさんが言っていたよ、もうひとりの私だって」

 あゆみがあたしのことを誰かに話したのは初めてだった。

「あなたは誰なの?」

「酒野武、君の持っていた料理教室のチラシの講師助手」

 それが武ちゃんとの出会いだった。


 それから料理教室に通うことになって、武ちゃんとあたしとあゆみのよく分からない友人関係が始まった。

 初めての教室では、ハンバーグと付け合せの人参のグラッセとマッシュポテト作り。

 生徒さんは七人で、みんな年下。初めての料理という教室だったので若い子ばかり。それでもあたしが一番の初心者だった。先生も武も全体を見ているから、一人で頑張らなきゃいけない。それにしても初めてでハンバーグなんて、なんてハードルが高いのだろう。

「愛さん、フライパン」

 隣にいた先生がいきなり声をかけてきた。

 ハンバーグがプスプスという音を立てて黒い煙を放っていた。少しぼうっとしていたら、いつの間にかハンバーグが黒くなっていたのだ。

「えぇう、ああ」

 変な言葉にならない声が口から漏れて、余計に焦った。どうしよう、とりあえず冷やせば良いのだろうか。急いで水をかけなきゃ、フライパンを持ち上げ水道の方に持っていこうとすると、武ちゃんが慌ててそれを制した。

「いやいや、そんなことしても無駄だから」

「ええ?」

 フライパンを取り上げられ、あたしは手持ち無沙汰。

 武ちゃんが真っ白なお皿に真っ黒なハンバーグを救出した。

「よく火が通ってるね」

 笑いながらそう言う武ちゃん、耳まで真っ赤になって縮こまった。料理ができないって言っているようなものだ。

「大丈夫、ここは料理教室だよ。これから頑張ればいいんだから」

 ぽんと頭に乗った大きな手、笑顔であたしを励ましてくれる武ちゃんを不覚にも格好良いと感じたのは内緒。


「料理あんまりしないんですか?」

 あたしの隣の席の、高校生の女の子だった。

「ええ、母に甘えてばっかりでやったことないです」

「そうなんだ。私もそうなんで、彼氏にご飯作ってあげたくて」

 可愛い顔をするな、彼氏のために料理をするのが女の子の幸せみたいな顔だった。彼氏も仲の良い友達もいないあたしには苦い言葉だった。

 その日もうだうだ余計なことを考えってしまったせいか、ブリの照り焼きのタレを焦がした。

 武ちゃんがタレの材料を持って来てくれて、もう一度やろうという。拗ねてやる気がなくなってきたあたしに訊ねた。

「愛さんは何を考えて料理してるの?」

「失敗すること、かな」

 正直何を考えているかなんて覚えていなかったのでそう答えると、苦笑いして答えに詰まった。あたしは料理が下手と言われている気がして、余計に悲しくなった。

「料理は誰かの為にすると考えてやると、とても楽しいよ」

 誰かの為、ここでもまたその言葉。ひとり暮しするための勉強なのに、一体誰に作れというのだ。

「別に作ってあげる人なんていないもん」

 武ちゃんを困らせるつもりでそう言った。なのに、武ちゃんは軽く笑い飛ばした。

「じゃあ俺に作って」

 あたしよりも料理ができるくせに、子どものような顔をしてそう言った。なんでこの男はこんなにもあたしをどきどきさせるのだろう。こうしてあたしの恋心が育っていった。


*●*


「おじちゃん! ケーキ食べたい!」

「んー。何ケーキだ?」

「うんとね、さつまいも!」

「さつまいも?」

 そんなものどこに売っているんだか。全く兄はどんなものを食わせているんだか。

 姪っ子を預かっての生活、それが日常化していた。最近は俺に対する遠慮が薄れてきたのか、抱っこにおんぶと甘えてくるようになった。もともとあったのかは分からないが。

 子どもの扱いになれなかった俺でも、遊び相手にはなる。だがしかし、父や母のような振る舞いというのはどうにもできなかった。

 悪いことをしたら叱る、何が悪いのか諭す。それができない。俺自身そういう思い出が少ないからかもしれない。

 悪いことをすれば両親は叱るよりも何よりも、俺を軽蔑した。そんな家庭に育ったから。

 何がいけないのか、分からずに叱られている俺に何が悪いのか教えてくれたのは兄だったような、そんな思い出がふと過ぎる。

「おじちゃん作ってよ! ケーキ!」

「は? 兄貴作ってたの?」

「パパは作ってた!」

 なるほど、それでは買いに行っても見つかるわけはない。俺は仕方なく本棚にむかい、お菓子のレシピ本を探す。

 ケーキは基本ケーキなのだ。材料を少し変えればなんとかなるだろう、そんな思いで探し始めた。

「おじちゃん、これ何?」

「んー、ケーキ?」

 でき上がったのはスポンジの中にごろごろのさつまいもが入っているケーキのような、ケーキではない別の何か。

 口を開けて待っているじんちゃんの口に入れてやる。

「パパのがおいしい」

 口の中をもごもごとさせながら、表情を変えずにそういうじんちゃんがとても不憫に思えた。

「そうだよな、俺の限界はこの辺だ。すまん」

 心からの懺悔だった。するとじんちゃんは口を開けてこっちを向く。

「あーん」

 どうやら食べてはくれるらしい。それほどまずいわけでもないのだろうか。

 口に入れてやりつつ、俺も食べてみた。なんというか、ものすごく甘い蒸しパンのような感じの仕上がりだった。

「ケーキではないな……」

 喜んでいるのかいないのか、ただ無心に食べ続ける姪の頭を撫でる。

「練習しておくからな」

 訳も分からず、ただ頭を撫でられ喜んでいるこの子のためにも、あまり触れたことのないお菓子の世界に足を踏み入れる覚悟をした。


 この日の夜はお店があったので、じんちゃんを連れて一緒に行った。お店は一週間のうちの半分しかやっていない。兄貴は仕込みの半分ほどをして、ちょっとお店に出ると帰ってしまう。俺がほとんどやっているようなものだった。

 裏口から入ってお店を開け、とりあえず仕込み。兄貴がお店にいる時間が少なくなり、愛さんはこられない。俺が料理も接客もしなくてはならなくて、最近では大所帯の予約は断っている状態。そんな状態でも常連さんたちに助けられなんとこなしていた。

 それでもお店を閉めるよりはましだろう。いつの間にか、ここでのひとり仕事に慣れていた。前は兄貴の指示で動いていた作業も、今ではひとりで全部やらなくてはならない。

 気が付けばもう二年以上になるのだ。

 お店はなんとかなっても、なんとかならないこともある。

 俺は手を繋いでいる小さな女の子に微笑みかける。

「テレビでも見ててくれな」

 客席の一番目の届くところに座らせ、仕事にかかる。

 自分自身、家族にいい思い出はほとんどない。それでもこんなに小さい頃は家族みんなで遊びに行った、そんなこともあったような気がする。

 ふと眼をやると、こっちを見ていたらしく眼があった。笑みを返すと恥ずかしいのかすぐにテレビの方に振り向く。そんなことを何度か繰り返した。

 子どもが可愛いと思うのはこんな時だろうか。眼元も口元も勝手に緩んできてしまう。

 ある程度の仕込みが終わり、じんちゃんの方へ行くと、喜んでこっちにむかって来る。

「終わった?」

「うん。パパ来るまでもちょっと待ってような」

 こくんと可愛らしく頷き、俺がテレビの前に座ると膝の上に乗って来た。

 大人しく待っていられる聞き分けの良い子。だからといって寂しくないはずがない。

 自分が寂しい思いをしているわけではないのに、悲しくなってくる。一人ぼっちでいるこの子が、俺なんかと一緒にいなければならないこの子が、本当に可愛そうだと思う。

「おじちゃん、パパまだ?」

「そうだな、今日は遅いな」

 いつもなら、仕込みが終わる前には来ているのに。今日はもうすぐ店を開ける時間だというのに現れない。

 俺もずっとは相手をしていられない、どうしたものか。

 お店の電話が鳴り、出てみると兄だった。

 あゆみさんがいなくなったらしく、探しに行かなくてはならないため、今日は行けそうにないとのことだった。そしてじんちゃんを泊めてくれと。荷物はお義母さんが持っていくとのことだった。

 不安そうにこっちを見つめるじんちゃんに、俺は笑顔を向けることしかできなかった。

「ママの具合が悪くって、今日はちょっとこれそうにないと」

 見るからにしょんぼりしていた。全てはわからなくても、今の状況がおかしいのは分かっているだろう。

 お店はもう開けてしまったし、今日は早めに閉めて家に帰ろう。

 俺はだんだんとひとりで店をやる回数が増えていった。


***

 

 何も言わず、何も聞かれず、ただ愛を守るためだけに。自分の生きていく理由はあの子なのだから。

 他の誰かなんていらない、ただこの世界を守れれば。歪んでしまったけれど、それでもここでしか生きられないのだから。


 あの時、どうしてあのことを話したのだろう。

 長くいるつもりはなかったから、さっさと追い出したくなるような台詞を吐きたかったのだろうか。幸せそうな家庭に住む男を、子供の心配をしていた母親を殺してしまいたかったのか。そうすればこの家庭も壊れるのだから。みんな壊れるのだから。

 武はあたしたちの良き理解者だった。気持ち悪がったりせず、どちらかを否定することもせず、ただあたしたちをそのまま受け入れてくれる。そんな人だった。


「どうして家に帰れないの?」

 男は問う、何食わぬ顔で。

 その顔が無償に腹立たしく、お前の家出の理由なんてたかが知れている。そう言われているように感じられた。

 咄嗟に息が溢れた、笑ったように見えたかもしれない。

「家にいられないの。ママの顔を見てると、思い出しちゃって」

 あたしはそうして初対面の男に、恐ろしい事件を語った。


 長い話だった。話すのに疲れ、嘆息していると啜り泣く声が聞こえた。

 顔を上げると、眼の前の男が泣いていた。

「なぜ泣いているの?」

「分からない、ただ涙が出たんだ」

 幼い子供が眼の前で父の死を見た。しかも殺人事件である。憐れだと、同情されたのだろうか。

 しかしそのような泣き方には見えない。本当にただ涙がながれている、そんな感じの。感情的に泣いているとか、そうすべき処世術の手を使っているとか、そんな汚い涙ではない、そう思えた。

「君は家に帰るべきだ」

 突然、男がそう言った。ついさきほど、家に帰れない理由を話したばかりなのに。

 そんな不満げな表情を察したのか、男はそのまま口を開いた。

「お母さんにはもう、君しかいないんだろう?」

 その言葉が鋭い槍になって私に刺さった。視界は次第に赤く染まっていき、雨と血の臭いが鼻につくようになる。


 ――母には私しかいない?

 

 愛には私しかいないのに?

 あの時、私を守ってくれなかったのに?


*●*


「今日はりんごのタルトだぞー」

「やったー!」

 じんちゃんはは今やうちに住むようになっていた。それほどに愛さんの調子が良くないのだ。兄貴の話を聞くと、今ではほとんどがあゆみさんになっていて、愛さんが出ることがほとんどないらしい。

 あゆみさんは部屋に引きこもるか、飛び出していなくなるかのどちらかだそうでお義母さんと交代で見張るような生活をしているらしい。

 電話でしか話すことがなくなった兄は、憔悴しているようで声にも力がない。このままではみんな倒れてしまいそうだった。

 お店も今では閉めてしまって、俺は家でじんちゃんの子守に徹していた。兄貴の貯金を切り崩し、節約しながらなんとか生活している。兄貴も俺も、長引くことをなんとなく予見しているのだ。

 愛さんのことを相談できる人が少ないらしく、どうにも改善しないらしい。嫁の心配をしていて、娘の心配をしている暇がないというのもおかしな話なんだが。俺が側にいるからと言って、安心していいわけではないのに。俺はしょせん叔父であって、父でも母でもない。


*・*


 気が付くと、ベッドの上で頬が痒かった。どうやら泣いていたようで、濡れた頬が乾き痒いようだった。

 今日がいつなのか分からない。こんなにも状況が把握できていないこともあまりないのだが。あたしがいつまであたしでいられるのか。全てが謎だった。


 武ちゃんはあたしたちの良き理解者だった。気持ち悪がったりせず、どちらかを否定することもせず、ただあたしたちを受け入れてくれる。そんな人だった。あたしたちはふたりとも武ちゃんが好きだった。元々はひとり、そういうこともあるだろうと笑った。

 眼の前で父が死んだあの日のせいで私たちはこうなり、全ては狂ったのかもしれない。


 眼の前で起きたことを受け入れられなかった私は、こうなった自分を受け入れられなかった。これは自分じゃない、私は愛じゃない、そう言い聞かせた。

 そうだ、あたしはあゆみだ、愛じゃないんだ。これはあたしじゃないんだ。


 そうして愛とあゆみがひとつの身体に混在するようになった。


 あれほど好きだった雨は、今では悩みの種でしかない。灰色の空、薄暗い世界、空気中の雨の臭い。そのどれかであたしの頭は痛みを放つ。頭と身体の動きを制限し、意識をどこかへ飛ばしていく。


 父の話、母の話、あたしの話。どれについてでも、あまり長く話していると頭が痛んだ、身体が痛み、心が痛む。

 視界に赤が滲む。話している相手の顔に、あたしの身体に。そして目の前にはいつの間にかあの男がいる。

 そうして気が付くと、あたしはどこか知らない場所にいる。あの男のいない、安全な場所に。



 私のことを受け入れる人はいなかった。

 私はもう一人の愛。元々はなかったもの。いらないもの、そう言われる。

 でも愛には私がいないといけない。愛を守るのはあたしだけ、全てを理解できるのは私だけ。


 ――本当は死んでしまいたかった。あの時に父の隣で母と三人で。


 ――本当は死にたくない。自分一人だけでも助かりたかった。


 二つの心、二つの思い。言わないけれど知っている、自分たちの、この不思議な関係がある理由。

 どちらかが均衡を破れば、何が起こるかわからない。何が起きてもおかしくない。


 だって、あれからもう二十年くらいになるんだよ。

 あたしたちはもう壊れてる、

 私たちは元々壊れてる、


 ――あの時にどうして死ななかったんだろう?


 あれ以来、ママの顔が見られない。あの血の海が蘇ってくる。

 転がっている父の身体、私の手をつかんでくれない母、そして私の上に降ってきた知らない男。

 水面に反射する笑顔、忘れられない悲鳴のような笑い声。

身体に刃を突き刺し、


 なんで笑っているの?

 楽しいから……

 誰が笑っているの?

 あの男が……

 本当にあの男?

 あの男……水面に写る顔……

 写っているのは誰?

 写っているのは、あたし……?


*○*


 あゆみと愛と初めて会ったのは専門学校を卒業した頃。

 曇天の、今にも雨の降り出しそうな昼下がり。バイト先の料理教室で、授業が終わり片付けをしていた時だった。

 雑用はバイトの仕事、先生はちゃっちゃと帰ってしまい、戸締り確認して警備員に鍵を渡すまでが仕事だった。

 鍵を渡してビルを出た時、案内板の前にしゃがみこんでいる女の子がいた。

 ジャージ姿で財布だけを持って、今にも降り出しそうな空を見つめていた。

 何をしているのだろう、まだ高校生くらいに見えるのだが。

「なんだよ」

 じっと見ていたせいか、女の子に睨まれてしまう。

「いや。何してるのかなと、思って」

 素直にそう言うと、その子は溜息を吐き、俺に言った。

「なんでここにいんのか、分かんねぇんだよ」

 そう言って頭を抱えていた。

 手に握りしめていた紙を俺に渡し、自分にも問いかけているように言った。

「多分、これに行きたかったんじゃねえかな」

 うちの料理教室のチラシだった。しかし今日の教室は終わっているし、次は来週である。

 そう説明すると、その子は困ったことを言い出した。

「私をあんたの家に連れっててくれ」

「え? 君の家は?」

「帰れないの」

「帰れない? なんで?」

「色々あるのよ」

 連れて行ってくれないなら他の男を探す。そう言って歩き出すその子を、そのまま放り出すわけにはいかなかった。

 両親になんと言おう。女の子を拾いましただなんて、俺が人攫いみたいだし。しかしこの状況をどう説明すれば。

 とりあえず家に帰りながら、必死に理由を考えた。


「その子は何?」

 家に帰った俺を出迎えた母がそう問うた。当然である。

「家に帰れないらしくて、どうしようもなくて連れてきたんだよ」

「はあ?」

 素っ頓狂な声を上げ、俺を睨みつける母。俺共々追い出されそうな勢いだ。その鬼のような形相に怯えているかと思ったらが、どうやら後ろの子は平気なようだった。

「大丈夫、家聞いてちゃんと送ってくから」

 そう言うと後ろの子が俺の背に一撃をくれた。母は仕方がないという顔で俺たちを上げてくれた。

「すみません」

 そう言って上がる彼女は一応それなりの礼儀はあるらしい。

 客間にふたりで座り、とりあえず話を聞かないとならない。

「それで、君が家に帰れない状況って一体どういうものなんだ?」

 改めて聞いた俺に、彼女は驚いたようだった。

「結局聞くのかよ。こんな話聞いたって気持ち悪いだけだって」

 まるで弟のようだった。拗ねると話を聞いて欲しいくせに、言いたくないとそっぽを向く。同じ行動をとった。

 弟がふらふらと家に帰らなくなっていた頃で、どうしてもほうっておけなかった。

 ちらちらととこっちの様子を伺っているのは、どうやら弟と同じらしい。

 しばらくすれば話してくれるだろう。


 キッチンタイマーに起こされ、夢はそこで終わった。鍋の確認に行くと、煮魚が良い色に染まっていた。夕飯はできたし、あゆみを呼びに行こう。

 懐かしいことを思い出したものだ。どうして今、出会った時のことを思い出したのだろう。

 あゆみの部屋に行くと、襖の前でお義母さんが横になっていた。昨日もひとりで飛び出していくのではないかと、心配で眠れなかったらしい。

 お母さんを起こし、食事ができたことを伝えた。お義母さんは先に行ってるわねと、諦めたように言った。

 あゆみの部屋の襖を開け、あゆみにも声をかける。

「あゆみ、夕飯食おう?」

 俺が声をかけに行くと、返事はない。

 諦めて今日も麩の前に座り込む。最近は部屋から出てこない日も多くなっていたため、こうやってどちらかが襖の前にいる状態だった。

 がたんと背にしていた麩が動き、後ろに転がってしまった。あゆみが部屋から出て来てくれた、そんな当たり前のことにひどく安心した。

「今日はお前の好きな芋の煮転がしもあるぞ」

 そう言ったが、すたすたと歩いて行ってしまった。

 慌てて追いかけると、テーブルで待つお義母さんが、やっと出て来た自分の娘を見て安堵するの分かった。

「武くんがせっかく作ってくれたんだもの。温かいうちに食べないと」

 俺は席につき、あゆみが隣に座る……はずだったが、あゆみはそのまま台所へむかう。

「あゆみ?」

 怪訝に思う俺たちを他所に、あゆみはがたがたと何かを漁り始める。

 お義母さんが席を立とうとするのを静止し、俺がついていった。

「あゆみ? 喉渇いたのか?」

 しゃがんで何かを探しているあゆみに声をかけるが返事がない。隣にしゃがみこむと、あゆみが掴んでいたのは俺が使っている包丁だった。

 俺はすぐに何をしようとしているのか察知し、それを取り上げにかかる。

 しゅっと音を立て、掌に激痛が走り、悲鳴が出た。

 なんとか眼を開けると、あゆみが光のない眼で俺をぼんやりと見返していた。

「ばいばい」

 そう言って自身に包丁を向ける。

 俺はなんとか手を伸ばし、包丁を鷲掴みにした。もう切れているのだからと、躊躇はなかった。

 異変に気づいたお義母さんが駆け寄って来て、凄まじい悲鳴を上げた。あたりに散乱する血を見て、その場にへたりこんでしまっていた。

 手伝ってくれればいいのに、そう思いながらあゆみから包丁を取り上げた。

「お義母さん、すみません救急車を呼んでもらっても」

 そう言って、この場から遠ざけようとするのに、お義母さんは動けないようでアクションを起こしてくれない。

「包丁返せよ」

「駄目だよ、これは俺のでしょ」

 包丁を俺の後ろに置き、あゆみの身体に触れた。

 気が付くのが早かったようで、どうやらどこにも傷はついていなかった。不服そうにこっちを見上げるあゆみに、なんだか気が抜けてしまう。こんな状況でなければとても可愛らしい顔なのに。

「やっと部屋から出て来たと思えば、これなんだからもう。俺も困っちゃうよ」

 零れたのは、どうしようもない笑み。溜息も、怒りも湧いてこない。ただ仕方がないという思いで笑むしかなかった。

 苦痛で眼が良く開けられない中、あゆみと眼があった気がした。

「武、楽しいか?」

 当然のようにそう聞いてくるあゆみに、なんだか応じる気力もなくなっていく。

「楽しいわけないでしょ」

 やっとのことそう返すと、俺は血を流し過ぎたのか眼が霞んで見えなくなってくる。

 どんどん狭くなる視界。あゆみが視界の中にいない。手を伸ばすと誰かがそれを掴んだ。

「あゆみ?」

「武ちゃん、ごめんね」

 そう聞こえた気がした。


*●*


 兄貴からの連絡がこない中、お義母さんから電話がかかってきた。

「士くん、ひとりでちょっと出られる?」

「今丁度寝ついたところなんで、大丈夫ですけど。どこに行けば?」

「桜ヶ丘総合病院なんだけど……」

「え?」

 どうして病院に行かなければいけないのだろう。兄貴もあゆみさんも家にいるのではなかったのか。

「ごめんさない」

 嗚咽とともにそう言う、電話越しでも分かる濡れた声。

「何があったんですか」

 聞こえてきたのは、返事を許さない悲しい現実だった。


 ――あゆみさんが兄貴を刺し、自殺を図った。

 

「そんな、今二人は?」

「集中治療室に。でも」

 でも、その言葉の続きを聞くのが躊躇われた。しかし、現実は待ってくれない。

「何があってもおかしくないって」

 頭を抱えるしかなかった。今までなんでこうならなかったんだろう。いつ何が起きてもおかしないくらいの状況であったのに。こうなんて思いもしなかった。きっとどうにかなるって、そう思っていた。

「おじちゃん?」

 起こしてしまったのか、俺の後ろにじんが来ていた。気が付かないうちに声が大きくなっていたようだ。

「ごめんな、起こしちゃって」

 眼を擦りながら俺の服を掴み、放してくれない。

「すみません、またかけ直します」

 手短に言って電話を切ってしまった。俺がどうしようもなくなっても、この子に不安を伝染させてはいけない。

「ごめんな。お布団行って寝よう」

 布団まで連れて行って寝かしつけようとするのに、どうやら寝が覚めてしまったのか眠ってくれない。今日は病院には行けなさそうだ。この子を一人にしておけないし、何より俺の余裕がない。

「おじちゃん、いたいかおしてる」

「え?」

 いきなり言われたそんな言葉に動揺が隠せない。俺は本当に余裕がないらしい。

「いたいいたい?」

 俺の顔を覗き込み、心配そうな顔をしてくる。何も知らないはずなのに、何かを悟ってしまっている。何か問題が起きていることを心のどこかで気付いてしまっている。そう感じさせる。

「大丈夫だよ。寝たら直るから、一緒に寝よう?」

 そう言って、俺自身も上手く誤魔化そうとする。しかし、何ともすることができない。なんの力もないことに妙に苛立ち、眼が冴えていく。


*●*


 愛さんは兄貴を刺した後、自分をめった刺しにしたそうだ。

 その光景を見たお義母さんは、とある昔の事件を思い出して意識を失ってしまったそうだ。

 気が付いた時にはあたりは血の海で、ふたりとも虫の息だったそう。

 俺は集中治療室の前で愛さん家族に起きた事件を聞き、そして兄貴がどうして彼女たちを過保護なまでに守っていたのかを知った。

 兄貴と愛さんの亡くなった夜、俺は仕方なく実家に電話をかけた。しばらく会っていない息子が突然死んで何を言うかと思えば、私たちの言う事を聞かないから罰が下ったと言った。こんな両親殺してやろうかと思った。自分のことしか考えていない、こんな両親を持ったことが恥ずかしい。

 葬式はうちでやりますから。両親がお義母さんに電話で言ったそうだ。これ以上うちに泥を塗らないでとまで。

 あんな親の開く葬式なんて、そう兄貴が言うかもしれないが俺にはなんともできなかった。俺は何よりもじんのことを優先させた。葬式を開くというよりも、両親を失ったじんを守ることを。

 パパとママは遠くに行ってしまった。もう会えないんだよ。そう言い聞かせてもまだじんは受け入れられていない。死んだという言葉を知っていても、それを受け入れるのは大人でも難しい。

 じんには辛いが、現実を受け止めるためにもと、お義母さんと三人で葬式に来た。

 ふたりは事故死ということになっており、一気に両親をなくしたじんには悲哀の視線が集まっていた。

 棺桶に入っている動かない両親を見て、じんは涙を流さなかった。だがふたりがいよいよ焼かれるという時になって、大声で泣き出した。ずっと我慢していたのか、その時初めて死を感じたか。

 俺はじんをを抱っこしてそろそろとその場を出た。

 じんはなかなか泣き止まず、パパママと叫んでいた。静かな火葬場に、大きな声が反響していた。

 疲れて眠るまで、じんは泣き続けた。その頃には人がぞろぞろと出て来て、皆帰るようだった。

「じんちゃん大丈夫?」

 そう言いに来たのはお義母さんだった。

 俺の背で眠っているじんを見ると、安堵の息を吐いた。娘をなくしているこの人も、相当に参っているようだ。二、三日の間に相当やつれた。

「大丈夫ですか?」

 かける言葉が見つからず、そんな言葉しか言えなかった。

 ふたりで話していたところに、運悪く母が来てしまった。

 家出をした不良息子、兄貴を殺した嫁の母親、そんなふたりを見かけ半狂乱に悲鳴を上げた。

「こんなことになってどうしてくれるんです! うちの子が殺されて、しかも嫁のせいなんて! 周りの人になんて思われるか分かったもんじゃない!」

 甲高い声で叫ぶ母の言葉は、何を言っているかなんとか聞き取れる程度のものだった。

 俺はヒステリックに怒鳴って泣く、こんな母が嫌いで家を出たんだった。声を聞いただけで吐き気がする。

「すみません、なんと言ったらいいか……」

 律儀に返しているお義母さんが不憫に思えた。

 親父が声を聞いて駆けつけて来ると、母を裏に連れて行こうとする。しかし母の足は地に縫いついているように動かなかった。

 親父の眼が俺に、帰れと訴えていた。

 何もできない俺は、ただ謝り続けるお義母さんを連れて帰ることしかできなかった。叫び続ける母と、睨み続ける父を背に。

 

 家に連れて帰っても、お義母さんは譫言のように謝り続けた。眠っていたじんが起きたらしく、隣の部屋から襖ごしにこっち眺めていた。

 じんにこれ以上見せてはいけないと思い、俺はじんのいる部屋に行って襖を閉めてしまう。その前に座り込んで、これでもう、じんがこの先を見ることはない。

 皆壊れてしまった。そう思った。

「そもそも壊れていたのか……」

 呟いて笑ってしまった。そもそもまともな人間なんてこの世にはいないのではないか。

 今日にしたって、葬式の最中叫びだす母、それを見て何もしない父、譫言のように謝り続ける義母、そして嗤っている俺。

 あいつらも俺も皆狂ってる。子どもの死と世間体を織り交ぜて気にしていたあいつらと、俺はなにも変わらない。兄貴ならどうしたのだろか。兄貴も狂っていたのだろうか。

 もう何も信じられない、そう思えた。

「おじちゃん、大丈夫?」

 心配そうな顔をして、俺の頭に手を置いてなでなで。よく兄貴が愛さんにやっていたやつだった。

 この子は、今がどんな状況なのかよく分かっていないからこんなことができるのだろうか。無性に泣きたくなって、それでもこの子の前で泣いてはいけないとこらえる。

「ありがとう」

 じんを抱きしめて、頭を撫でる。

 俺よりも弱いはずのこの子が、俺を励ましている。そんな優しい子に、これ以上寂しい思いさせてはいけない、悲しませてはいけない。

 狂った世界でこの子だけは守らなければいけない。そう思った。


 いつの間にかふたりで眠ってしまったようで、辺りは真っ暗だった。

 俺の腹を枕にするように寝ていたじんを起こさないように、起き上がり、布団に寝かせた。

 静かすぎる家の様子に無性に不安になって、隣の部屋に行くと、そこには誰もいなかった。

 全部の部屋を確認に回るが、人影がない。庭にまで降りてみるが、お義母さんはいなかった。

「嘘だろ」

 現実はさらに俺を苦しめた。


*●*

 

 縁側にじんとふたりで横になり、ぼうっと空を眺める。

 穏やかな陽気が今の俺たちの状況を笑っているような、そんな感じがした。

 お義母さんがいなくなってから半月、俺はもう帰って来ることはないだろうと思っている。彼女の抱えきれないほどに、問題は大きいということだろう。そのせいでもっと大きな問題が起こるというのに。

 結局、彼女の心配は自分の娘までであって、孫にまではいかなかったらしい。お義母さんは逃げ出し、じんは置いていかれた。それが現実。

 じんは今でも、おばあちゃん帰ってこない? と毎日のように聞いてくる。この家から離れないのもそのせいだろう。

 今ではこの家に二人で住み込んで、帰りを待ちながらのんびりと暮らしている。

 じんの精神が不安定で、泣いたり叫んだりすることがある。それを落ち着かせるためにも、今は休養が必要だった。

 お金の問題もあり、本当は仕事をすべきなのだが、じんをひとりにしてはおけない。外に出るのは難しかった。どうにもうまくいかない焦りから、俺の頭まで狂いそうだった。

 兄も義姉も義母も、いっぺんにいなくなった。

 こんな人生を歩むことになるとは思っていなかった。

 小さな頃描いていた夢は、こんなものではなかったような。そもそもどんな夢を見ていたのかなんて思い出すこともできないが。

「大きくなったら何になりたい?」

 隣で寝転がる少女は大きな瞳を瞬かせ、うーんと考え込んでいた。どうやら恥ずかしがっているようで、なかなか答えてくれない。

「何になりたい?」

 少女に視線を合わせゆっくり問うた。少女はやっとこちらを見て答えてくれた。

「おじちゃん。あたしね、お嫁さんになりたいな」

 頬を赤らめ、照れながら話す姿。俺の嫁になりたいというのか、なんだか親馬鹿になった気分だ。

 自分も相当に丸くなったものだな。なるほど、これを愛おしいと人は言うのか。そう思うとなぜだか笑みが溢れた。

「そうか、じゃあ早く大きくなって良い旦那さん見つけないとな」

 壊さないように優しく頭に手を伸ばす。柔らかい髪が、小さな頭がその脆さを痛感させた。

「うん。パパみたいなかっこいい旦那さん見つけて、ママみたいに綺麗なお嫁さんになるの」

 その言葉が俺の心に突き刺さった。

「そうだな」

 俺はそうしか言えなかった。よく分からない感情を、下手くそな笑顔で何もかも包み込んで。

 じんと一緒に暮らそう。俺とじん、二人でこの家に。

 この子が大きくなって、自分のことがひとりでできるようになるまでは。


 この子は何も知らない、純粋で脆い。

 この子を幸せにすることが、俺の今できる唯一のこと。


 俺はこの子の親になる。

 何もかも失ってしまった、俺に唯一残ったもの。この子のために、俺だけはずっと一緒にいると誓おう。

 



 

「今日は何すればいい?」

 店の手伝いをしているじんが訊ねた。

「今日は多分常連さんしか来ないし、お客さんのお話し相手かな」

「はあい」

 カウンター席に座り込み、一見客のように見える。まだ中学生の彼女は客にしては若すぎるが、外見的にはもう大人の女性のなりをしていた。

「最近お母さんに似てきましたね」

「そう?」

 彼女の記憶に両親の姿はほとんどなく、それは私から聞いたもの、そして写真のものしかないかもしれない。

 それでも両親を愛し、その死を悼んで生きている。自分が愛されていたことを知っているから。

 両親の死について、詳しいことは何も知らない。ただ愛されていたことを知っているだけ。

 あのふたりは、自分が壊れていると言っていた。

 自分が世界を壊すと言っていた。

 だからあの男の真似をして、自分を殺したのだろうか。

 自分が壊れた原因だから、自分を治すことも可能だと思ったのだろうか。

 全てを知ることはもう叶わない、あのふたりは死んだ。最愛の男とともに。

 

 全てを話すという道を、その険しい道を歩むことから俺が逃げたから。

 いつになれば、このどうしようもなく複雑で、悲しみに満ちた彼女の居場所だった世界の全てを告げることができるだろう。

「感慨に耽っちゃって、もう年かしら?」

 姪が笑った、まだまだ子供っぽい無邪気な顔で。

「全く、口が悪いのは誰に似たんだか。まぁこの店を初めて、もう十年近くなりますからね」

 兄のお店を改築して始めたカフェ。趣味だったカクテル作りを本格的に勉強し、最近では、夜ではバーのような雰囲気でもお店を開いている。

 そろそろ自分の役目は終わりかもしれない。そう思うようになった。

 この子ももうすぐ大人になり、ここから出ていくのはそんなに先ではない。そして、自分の身体も老いている。普通の人のそれよりも、具合がよろしくないと知ったのは最近のこと。長くないことは眼に見えていた。

「私とおじさんの付き合いも十年くらいになるのか」

 昔のことを思い出しているのか、懐かしそうにそう言った。お互いに考えてこんでいて、こんな時にお客さんが来たらすぐに動けなさそうだと笑う。

「おじさんは結婚しないの?」

「はい?」

 突然の質問に動揺し、問いを返してしまった。

「結婚、だよ。だって、生涯独身なんてもったいないでしょ? まだまだ人生長いじゃない」

 屈託のない笑みでそう言うのは、まるで世話焼きの近所のおばさんのよう。

「まあ、こんな大きな子供がいるし。幸せは充分に味わってますよ」

「そう?」

 本心からの言葉だったか、どうやら彼女には不満らしく拗ねたかおをする。

「本当ですよ」

 それでも彼女は納得しない。いったい何が不満なのだろう。

「こんな大きな子供がいるから結婚できないんじゃないの?」

 困った顔をしていると、恥ずかしげに答えた。

 こちらまで恥ずかしい思いになる。自分のせいだと、攻めるお年頃になったようで。こんなにも大きくなって、なんだか誇らしい。

「君の結婚式が見れるのなら、それで十分だよ」

 愛する娘のためにをプッシー・キャット作りながら、そうひっそりと呟いた。



 

 





 最後まで読んでいただきありがとうございます。

 君は「じん」という名前を見つけてしまえば、読み止めることはできないと思っていたので。きっと最後まで読んでくれたと思います。


 これは私の娘、正確には姪ですが、彼女と私、兄夫婦の話です。

 兄と義姉の日記、本人たちから聞いた話も含め、ほぼ現実の通りに書いてあると思います。

 いきなりこんな話を読ませてしまってすみません。


 さて、これが私の書ける精一杯の作品です。

 作品と呼べるのかどうか、それも怪しいところですね。

 君はこれを読んで何を思うでしょうか。私に聞きたいことが多くあるだろうとは思います。私はもうこの世にいないでしょうから、何も問うことできませんね。書くだけ書いて逃げる私を責めるでしょうか。それと分かっていてこういう行動をした私を責めてください。あの世で反省してますね。

 それでも誰かには知っていて欲しい事実だったのです。

 じん――尋の友人である君には、特に。酒野尋という女の子は、こういうことがあって私の娘となりました。

 彼女自身、この全てを知っているわけではありません。

 彼女は幼かったし、私も若かった。

 全てを上手く伝えることはできなかったし、今でもできるのかどうか分かりません。

 私は本当の娘のように育てたつもりです。それが尋にとって良かったのか、悪かったのかは分かりません。

 ただ、君の関わっている尋という人間は、こんな環境で育ちました。気まぐれで、不安定で、弱々しい彼女のことを、どうか悪く思わないでください。

 彼女の置かれた環境というものは、君の思っている以上に難しいものなのです。

 それよりも私の元ヤンというところに驚きましたかね、まあそこはあまり突っ込まないように。


 君という人間に会えて本当に良かった。

 君が尋の友達として店に来て、私と一緒に働いてくれて。

 とても楽しい時間を過ごすことができました。

 私はあの子の結婚式に出られているのでしょうか、そこだけがこれ書いている中の唯一不安なところです。

 君の先輩にあたる護くん、彼と良い感じだと思うんですけれどね、二人ともいじっぱりなのでお互いに歩み寄らないと難しいですかね。

 私が出られないようなら、代わりに父親として出てやってください(冗談ですけど)。

 あの子は良くも悪くも愛さんに似ています。

 強がりなところも、不安定なところも。小さくて覚えていないはずなのに、どんどん彼女に似てくるので、とても心配になります。

 どうかこれからも、あの子の良き友人として一緒にいてあげてください。

 あの子を支えるつもりで、実は支えられていたのは私の方だったのかもしれません。尋がいたから、頑張れた。そう思うのです。

 この話を彼女に伝えるかどうかはお任せします。

 あの子に必要なのは、君のような良き友人でしょう。これからもどうか仲良くしてやってください。

 老人の書いた拙い文章に、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 君にはこの店を引き継いでもらえたら。そう思っています。私が兄貴から引き継ぎ、そして私から誰かへと受け継がれていったら。とても素敵なことだと思いませんか。

 このお店は尋のものになる予定なので、全ては彼女次第ですけど。護くんもここでは長くバイトしてましたし、彼と取り合いにでもなるでしょうか。君がお店を出すとしたら、きっと良い相談相手になってくれるはずです。

 君はこういう職に就くのも良いかもしれないと、以前言ってましたね。それならばどこか違う場所でやらずに、是非ここを使ってください。尋と護くん相談して、上手くやっていけると信じています。私が一生懸命育てった弟子ですからね。

 

 それでは、さようなら。

 

 君たちの末永い幸せを祈りながら、私は一足先にお花畑に行ってきます。

 

 

 マスターより




 結婚式を明日に控える二人は、不服そうな顔をしてこのノートを読んでいた。

カウンターには四つのグラス。この二人のもの、俺のもの、そして誰もいないカウンター端の()の分。

「なるほど、こういうことがあったわけね」

「俺には詳しいこと何も教えてくれなかったのに」

 結婚式に出るという希望が叶わなかった父の思いを、今ここで知った娘は、寂しそうに笑った。

「一緒にいて欲しかったな……」

 俺がこのタイミングでこのノートを渡したこと、あなたはどう思っていますか。

 俺は今でも尋の友人で、きっとこれからも友人であり続けます。俺は伝えることを選びました。尋のためというよりは、あなたのため、でしょうか。

 眼の前にいる二人を見ていると、自然と笑みが溢れた。

「まあ、こういうことなんで。これは尋に渡しておくよ」

 今では俺の店となった店のカウンター。

 尋と護さんが並び座って、このノートを感慨深く眺めていた。彼女は古いノートをぎゅっと抱きしめ、そっと息を吐いた。

「あたしは大丈夫だよ。この人と幸せになるから、天国で見守っててね」


 

 

 

 これからも彼の心は俺たちと一緒に、そしてこの店と共にここにあり続けるだろう。

 

 静かな店内に、からんと、氷の音が鳴った。

 彼の、バーテンダーのグラスだった。












バーテンダー




















志摩
































バーテンダー



ドライ・ジン15ml

ドライ・シェリー15ml

ドライ・ベルモット15ml

デュボネ15ml

グランマルニエ1tsp



材料をミキシング・グラスでステアし

カクテルグラスに注ぐ






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