忘れぬ夜
宇佐神宮への参拝が終わったのは日も傾いてしばらく経ってからだった。
来るときに通った巨大な鳥居をくぐり、外へ出たところで佐藤大尉が満面の笑みを浮かべながら私たちに体を向けて止まる。
「明日は宇佐を立つことになる。串良についてからは難しいだろうから、今日の内に出撃祝いの宴会でもしよう。嫌な者は抜けても構わん」
突然の言葉に集団が一気に騒がしくなる。大尉に向かって行きますと叫ぶ者、友人と肩を叩き合って喜ぶ者など様々に喜びを表現していた。
私たちがつられて行った所は、宇佐神宮と基地の中間辺りにある海軍指定の食事処だ。
十字路の角にあり、立派な佇まいをした二階建て建築。きっと歴史も深いのだろう。
宴会を行う部屋は、この人数のため部屋と部屋の間のふすまを取り払って広い一つの部屋にしている。
佐藤大尉は事前に言っていたらしく、座敷には既に配膳がされ終わっていた。
ただ、そこまで広くないこの場所に、六十数名もの人が押しかけるという事でかなり無理をしたのだろう。
女将さんは笑顔そのものだったが、髪が少し乱れている。なんだか非常に申し訳ない気分になってきた。
「さあ、はじめよう」
ある程度落ち着いてきたところで、佐藤大尉が声を張り上げる。各々で喋っていた喧騒が静まり返り、全ての視線が佐藤大尉へ集まった。
「今日は俺たち姫空の景気づけだ 。まあ仲良く楽しんでもらいたい。さあ、食え」
わあっと音が溢れ出す。食事に飛びつく者、一気に酒を煽る者など出だしは様々だが、宴会は始まった。
私も未だ慣れない酒を飲み、喉元が熱くなる感覚に悶えながら輪の中へ入っていく。
開始して幾分も経たないうちに、出来上がった奴が出てくる。席を立ち、座敷を徘徊しながら「お前はどこの出だ、俺は乙飛だ」というように片っ端から絡んで行くのだ。
当の私も頭がポーっと気分がいい。多分これは酔っているのだろうが、今まで酒に酔った事が無い分初めての感覚に余計気分が良い。
目の前の食事はもうとっくに食べ終わっている。
辺りを見渡してみると、福喜多が困った顔で数人に囲まれているのが目に入った。大方、保阪に幸子さんとの事を言い触らされているのだろう。
面白そうだ。私はすぐさま福喜多のいる集団へと向かった。
「ほんでな、そこで言ったんや」
顔を真っ赤にした福喜多がろれつの回らない口調で喋っている。
「おお、なんて言った!?」
「それは秘密やに」
福喜多はニヤニヤと薄ら笑っていたが、手近の奴に「言え!」と肩を掴まれて前後左右に激しく揺り動かされたために、その表情はすぐに苦悶へと変わった。
「なあ、何の話ししとるん?」
わかりきった質問を、近場にいた人に聞く。
「いやな、保坂がな、これの色気話をし始めてよ。大騒ぎになってる」
福喜多を指さし答えた。やはりそう言うことか。昼間は逃げられたが、今の状況ではそれも無理だろう。
「しかしよ、聞く話だけじゃ恋人ってわけでは無いみたいだけど、なんで?」
「んぁ、それはそうやに。お互い気持ちが分かっとってもそれは言えん」
「……まあな」
理由は全員が大体察し、馬鹿騒ぎが止んだ。おなじ運命を共にするのだから仕方ない。
「でもな、そこにおる谷川和雄ってやつはちゃんとした相手がいるから、そう言う話はそいつに聞いてくれ」
少し湿っぽくなった空気を無理やり吹き飛ばすように福喜多が私を指差して叫んだ。その指に釣られて福喜多を取り囲んでいた集団が一斉に私の方を向く。
その数々の視線に私は嫌な予感しかせず、咄嗟に逃げようとしたが、時すでに遅く腕や足をしっかりと捕まえられてしまった。
「福喜多、おまえ覚えてろや」
じたばたしている私をチラリ横目で見て、奴はしたり顔をした。私は手に持った盃に視線を落とした福喜多を睨みつける。
そんな目の前に、真っ赤に染まった別の若い顔が割り込んできた。
「で、どうなんだ」
真っ赤な顔が口を開く。
「どうって……何が?」
「どんな人だって聞いている」
周囲へ目を向ければ興味深心と顔に書いてある面々が私を取り囲んでいた。これは諦めるしかなさそうだ。
私は少し天井を向いたあと、酒の助けを得て口を開いた。
「そりゃ、もう可愛いもんやで」
とたんに周りが冷やかしで騒がしくなる。私はそれを手で制して続けた。
「あいつはな、綺麗っていうより可愛いて感じやねん。背も低めでこう、若干の吊り目がまたたまらんな」
両手の指を丸めて、双眼鏡を除く様に目へやった。
「確かに守ってやりたくなる気持ちになるな」
福喜多が横から口をだす。
「福喜多、ちっこいお前が言っても説得力無いわ。それにああ見えてもしっかりしてるねんぞ」
福喜多は背の事を言われ「わかってるわ」とつぶやいて少し落ち込んだ。
「ところでお前、どういう経緯でどこまでいったよ」
私が福喜多の肩を叩いて謝っているところに新たな質問が飛ぶ。
「それは秘密や」
そう捨て台詞を残し、一瞬の隙をついて逃げ出した。
宴会も佳境に差し掛かった所で誰かが歌い出す。『艦隊勤務』や『鶉野小唄』。継いで、同期の桜を全員で歌う。
〽
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょう国のため
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないか なぜか気が合うて別れられぬ
一筋の光も漏らさない夜の街に、哀調の帯びた野太い旋律が響く。
宴会もそろそろ切り上げなのだろう。この歌はそういうものだ。
そして同期の桜は曲調といい歌詞といい私達特攻隊のために生まれたようなものだと言われても違和感がない。
肩を組んで歌う者、膝を叩きながら歌う者。そうして歌は続く。
〽
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
店の外に出ると酒で火照った顔を夜風が撫でた。とても心地が良い。上を向けば高く昇った月が金色に輝き、少し掛かった雲が光の輪郭を帯びていた。
月に照らし出された暗い小道を酔いどれと共に基地へと足を向ける。
基地のまで帰ってくると、女性と思える影が門柱の端に立っているのが見えた。小さめの体つきに見覚えのある立ち姿。まさかとは思うが、そんなはずはない。
私を含む集団がゆっくりと近づく。そんな私たちに気がついたであろうその人が走ってくる。その姿を見て心臓が早鐘を打ち始めた。
そしてその早鐘は、影が私に抱きついてきてさらに早くなる。抱きついてきたのはやはりというべきか、佐代子だった。
しばらく私は顔を胸に埋める頭を眺めながら言葉を失っていたが、なんとか「どうして」と一言だけ絞り出す。
「一時間だ、一時間で帰ってこい」
そんな様子を見た佐藤大尉が懐中時計をポケットにしまいながらそう言ってくれた。現時点で帰省時間も押している中でさらに一時間もくれるのか。
私も時計を出して見ると、針は二十一時を指している。外出が禁止されている時間だ。基地内に入っていく大尉に私は感謝の念を込めて敬礼をした。
子供たちがいつも遊んでいる海辺を歩く。此処に来るまでの会話はなく、ただ憲兵に見つからないように黙々と歩いてきた。
「どうして此処に?」
足を止めて少し前へ出た背中へ先と同じ質問を投げかける。
「どうしても会いたくて、我慢ができんかったんです」
「親父さんには?」
「黙って出てきて……でも、もしかしたら気づいとったかもしれないです」
私はきめ細かい砂から、背を向けたまま軽く振り向いている佐代子の横顔へ目を動かす。
「家を出るとき鉢合わせて、複雑そうな顔をしとりました」
それはそうだろう。嫁入り前の娘が別れを告げた男を見送りにわざわざこんな所まで行くというのだ。
自分に娘がいたとしたら同じ思いをしたに違いない。しかしこの沈黙をどうしたらいいのか。
どうしても落ち着けずに、足元にあった小さな貝殻を手に取って親指でひと撫でした。少し湿り気を帯びた貝殻は、月明かりをうけて艶やかな薄桃色の光沢を発している。
桜貝だろうか、佐代子の頬によく似ている。
「お願いです」
突然胸元に持たれ掛かってきた佐代子を慌てて抱きとめた。一体何をお願いするというのか。
暗さも相まって佐代子の表情は全く見れずに意図が読めない。もぞもぞと言いにくそうにしている佐代子に続きを促した。
「お願いです、一度で……一度でいいから抱いてください」
「しかし……そうは言ってもやな」
「あなたの考えていることはわかります。それでも私はあなたに抱かれたい。愛する人に抱かれたいというのは女として一番大切な事です」
言葉を返せない。佐代子の目を見れば本気であるのは分かるし、私とて嫌なはずはない。
しかし、それでも抱けない事情というものがある。もどかしい気持ちを抱きつつ、胸元で僅かに震える体をそっと抱きしめた。
途端にその小さな温もりに胸の中のもどかしさがすっと消える。すまないと思いながらも、私にはもう目の前の彼女しか見えなかった。