最後、そして進出
三月二十三日、とうとう宇佐飛行場へ進出する。列をなして滑走路へ向かう私たちの頭上では太陽がまばゆい光を発し、冬用飛行服の体を温める。この温もりも空へ上がれば冷えるのだろう。
「大丈夫かよ」
隣でふらつく重一が少し心配だ。重一だけではない。多くの者が、ふらりゆらりと揺れている。
昨日は基地全体での送別会とも祝賀会とも言えないような大きな宴会があった。今日は無礼講だと佐藤隊長も一緒になって皆大いに飲み騒いだ。
中には下宿先や家族と共に過ごす人もおり、私は宴会の途中で抜けて大石家へ帰ったため、その後どうなったのか分からない。
しかし、それは今の現状を見れば一目瞭然だ。宴会自体は誰一人暗い表情をしなかった。それが隊長がいるからなどという理由ではなのは明らかだ。
皆、互のことをよくわかっている。ただ、騒ぎすぎた。二日酔いで出撃とは何とも軍らしくないな。
ともかく私たちは集合場所であるエプロンへ到着した。途中通り過ぎた滑走路沿いには、すでに国旗を手に手に多くの人が並んでいた。
さっと見渡しただけでも地元の人に混じって見知らぬ人や、新聞記者らしき人の姿も見えた。
この寂れた飛行場にここまで人が集まったのは初めてではないかと思い起こす。
宇佐空へ進出する特攻隊員が揃った事が露木司令官に伝えられる。それを確認した指令は一つ頷き、声を張り上げた。
誰一人物音を立てない静寂の中「今日は晴天である」より訓示が始まった。
「この時を護国の神が待っていたのであろう。今この国は非常に危機的な状況下にある、それを救わんとするのが諸君である。」
指令はぐるりと隊員を見る。
「諸君らの心中は今すぐにでも出撃し、敵を殲滅したい思いに駆られていると思う。ここ幾日かの厳しい訓練、よく耐えた。宇佐へ進出したあかつきには、出撃の時が来るまでよく休んで心身闘志を高めてもらいたい。成功を期待する」
宇佐へいったらする事がないのか……。私は訓示を聞きながら関係のないことを考えていた。
「出立の盃を」
その言葉とともに私たちは白い布が掛けられている長机へと集まった。佐藤隊長を上座に望む机の両サイドへ隊員たちが狭苦しく並ぶ。
机に掛けられた布はどこを見てもシミもシワもない。その上にこれまた白い盃と酒瓶が置いてある。
隊長が注ぐようにとの指示をだし、私たちは互いに注ぎ合った。全員が次終わったのを見計らって隊長が口を開く。
「燃料は宇佐までの片道分しかない。くれぐれもはぐれないように。着いた先で誰ひとり欠けることなく顔を見られることを期待する」
手にした盃を勢いよくあおる。中に入っていたのは水だった。
上空へ上がれば酒が少量でも酔うというからそのためだろう。少なくとも二日酔いの連中には酔い醒ましの足しになるかもしれない。
中身の無くなった盃を素早く静かに机へ戻す。ここまで来ると、さあいよいよだという気持ちになり、色々な意味で胸が高鳴った。
マワセの合図とともに、少し離れた所から機体が暖気運転を始めた音が響く。一気に周りが騒がしくなった。
先に向かった者は、知り合いか家族の前で少し立ち止まって最後の別れをする。中には記者に話を聞かれている者もいた。
私も遅れまいと人垣で作られた道を通り、自機へと向かう。左右でバラバラと振られる旗が目に刺さるような錯覚を引き起こし、私の目を瞬かせる。
「和雄さん!」
声のした方を向くと、大石家の面々と佐代子が視界に入る。それを確認した私は小走りにそこへ駆け寄った。
「来てくださったんですね」
軽く会釈を交わして向き合う。佐代子に少々違和感を感じたが、それがなにだか分からない。
「ええ、もちろんですよ」
親父さんは背筋を伸ばし、改まった表情をする。そして「この国をよろしく頼みます」と深々と頭を下げた。
それに大石家の面々が後に続いて頭を垂れる。私はそれを見て感極まって体の体温が一気に上がるのを感じた。
「任せてください。必ずお守りします」
その一言だけを私は返した。
「これを私と思って持って行ってください」
佐代子が差し出したそれを受け取る。布のハギレで作られた小さな人形だった。しかし、そこから生えている髪がやけに生々しく感じる。
思わず佐代子の髪を見た。不自然に切り揃えられた後ろ髪が風に一つ揺れた。
ああそうか、先ほど抱いた違和感の正体はこれか。しかし、一人の女性に自らの髪を切ってしまうほど想われているとは思いもしなかった。
申し訳ない気持ちもあったが、嬉しさがそれを覆い隠している。
「ありがとう、靖国まで持って行く」
私は人形を胸ポケットに入れて背筋を伸ばし、敬礼をした。
「では、もう行きます。お世話になりました」
大石家の面々に背を向け、歩き出した先ではすでにエンジン音が高らかに唸りを上げている。
頭を抱えるように翼がたたまれた機体の向こうには格納庫が佇み、二度と帰らない鳥たちを見据えていた。
近づくほどに唸りは腹に低く響き、心臓を激しく揺さぶった。
自分の搭乗機へ到着する。渋い濃緑色で塗られた機体に白い縁の日の丸が胴体に描かれ、尾翼には白で『ヒメ-305』の文字がよく目立っている。
機の両走には、チョークにつながれている縄を持った整備員が立て膝の状態で待機している。
私が翼の根元に足をかけると、それを見た整備兵が駆け足でこちらへやって来て敬礼した。
「整備はしっかりしておきました。ご武運を」
「整備ありがとう御座います、使わせてもらいます」
私は一番後部席である電信席へ体を滑り込ませた。この席はたたまれた翼の影響を受けないが、全部二席は翼の下をくぐって搭乗しなければならない。
以前ここで頭を打っている奴がいた事を思い出しだす。機種より左側の内壁に畳まれている椅子を引き出し、後ろ向きで腰を降ろした。
決して座り心地が良いとは言えない金属製の硬くて冷たい椅子を伝ってエンジンの振動が尻を震わせる。
「遅くなりました!」
先に来ていた二人に一言ことわる。辺りを見渡してみると、すでに殆どの者が機に乗り込んだようだ。
チョークが外され、機体を少し前へ出したところで整備兵が数人がかりで畳まれていた翼を開いていく。
そして開ききったところで誘導路を滑走路へ向けてタキシングを始めた。
主軸輪と比べて尾輪はガタガタとよく跳ね、後部席に座っている私は毎回尻の骨が痛くなって困る。離陸するときなどはさらに跳ね回っていつも舌を噛みそうになる。
揺れる視界の中、前を見てみると後続機が間隔をあけて続く。
滑走路へ到着した。油圧の空気の抜けたような音と共にフラップが降り、プロペラが巻き起こす風が砂塵を巻き込みつつ暗緑色の翼を千二百メートルの滑走路へ押し出す。
次第に回転数が上がる車輪が巻き上げた小石が機体にあたってカラカラと音を出している。
滑走路沿いに集まった人々が振る無数の国旗が、一斉に飛び立ったガンの群れのようだ。
佐代子は見つからない。こればっかりは仕方ない。最後に話せただけでも良かったのだ。
傾いていた機体が水平になり、ふわりと足元が救われるような感覚が襲う。私はこの瞬間が一番好きだ。何か大きなものから解放されるような爽快感が心を躍らせるのだ。
高度が見る間に上がり、地上にいる人の顔の判別ができなくなる。機銃が取り外されて広がった視界には後から続く機影が写り、その下でポツリとエプロンに残された白い長机がどこか虚しい。
目を上空へ転じれば旋回する九七式艦攻とは別の他の旋回する編隊があった。他基地からの輸送飛行らしい。
全機が飛び立ったのを確認して佐藤大尉へ報告し、風防をガラリと閉めた。
私たちとは反対に滑走路へ降下する輸送部隊を尻目に編隊を組んで南西へと機首を向ける。何気なく鶉野飛行場を見直した時、ふと佐代子が見えたような気がした。
刻一刻と変化する景色を楽しみながら電信装置を注意する。酔いでふらつく他の機が少し心配だ。
上空から見た宇佐は姫路と比べてはるかに広かった。
山並みから北に向かって滑走路をはさんだ東側に民家と田畑とその中に半円形の壕らしきものがいくつか見える。知らない形だ。
西側には誘導路が格子状に張り巡らされている広いエプロンであろう開けた地が広がっている。
二キロメートル四方ほどありそうなその広場には、すでに到着した他の航空隊の機体がポツポツと並び、その奥に庁舎を始めとする主要な建物が固まっているのが伺える。
管制に着陸許可をもらい、私の乗った機は徐々に高度を下げてアプローチに入った。
低速になる着陸時の揚力を増すためには風に向かって飛ばなければならない。この宇佐の場合は瀬戸内から山側へ向かう潮風を使う。
そのため私は後ろ向きに座って正面に山々を望み、海に背を向けている。高度が下がって機首が少し上を向く。
上から点で見ていた建物が水平に流れるようになったところで機体に軽い衝撃が走った。主軸のサスペンションで吸収しきれなかった振動と尾輪より直接伝わる振動で視界が揺れる。
ホイールブレーキの甲高い音と共にスピードが下がってゆく。さすが佐藤大尉。陸上滑走路に必要は無いが、見事な三点着陸だった。私には到底真似できない。
そのまま誘導員の指示に従って広いエプロンの一角に機体を固定させた。翼は広げておくようだ。
まだ日は高い。宇佐までは二時間程の飛行であった。