空襲
十九日、この日も朝から訓練であった。いつもの通りに瀬戸内海へ出向き、近くの艦船へ向かって進入訓練を行う。
そして三角航法で基地へ帰投する。一回の飛行訓練は半日、昼食をとりに一度基地へ戻るようなものだ。
今、機体は巣に戻った鳥のように翼をたたみ、群がる整備兵によって燃料の補給や軽い整備を受けている。
それを横目に私たち搭乗員は飯を食べ、先ほどの訓練反省会を開いていた。
うまくできなかった理由やその改善策。自分と敵の命を吹き消す為の技術を磨く。今更ながらおかしなものだ。
聞き慣れないエンジン音が聞こえてきたのは、再び訓練をするために格納庫に向かっている時だった。
重く腹に響く栄エンジン音とは違い、軽くやる気のなさそうな唸りだ。
「米軍機だ!」
佐藤隊長が声を上げると同時に警報が鳴り響いた。
「壕へ急げ! グズグズするなっ!
すでに黒いつぶてが群青の機影に変わっている。辺りは怒号に包まれ、昼下がりの静けさが一気にかき消された。
どうしてこんな近くまで接近するまで気がつけなかった。あっちの方角は四国や瀬戸内を通るはずだ。
心の中で悪態を付きながら私は防空壕目指して走った。他の仲間は別の防空壕へ向かっている。
あれだけの人数が一つの防空壕に入るわけがない。どうせ追い出されるなら他のへ向かったほうが得策だ。
おおよそ十字の影が爆音と共に私の上を通り過ぎた。とっさに近くの斜面に体を伏せてやり過ごす。
プロペラが風を切り裂く振動が空気を震わせ、押し出された風が周囲の草を横凪にする。
紫電によく似たドングリのような胴体。そこに無理やり取って付けたような五枚の翼がその重そうな胴体を必死に支えていた。
青い背中に白い腹は、私にとって不格好な青魚のように見えて仕方ない。滑稽な飛行機だ。
散開した敵機は翼下にぶら下げた黒光りする楕円形の物体を次々と落としていく。耳障りな甲高い風切り音。直後に響く轟音と振動。
飛行場、いや工場の方だ。あそこでは佐代子が働いているはずだ。助けに行きたいが、それが出来ないこの状況下。さらに行ったとして何ができるとも限らず、ただ無事を祈る自分が非常にもどかしい。
地上から光の筋が空に吹き上がった。飛行場近くに五機設置されている九六式二連装対空機銃だ。
二五ミリの弾丸が毎分二四〇発の連射速度で空を泳ぐ魚に向かって突き進み、数発ごとに混ぜられている曳光弾が力強く光りの軌道を描いている。
味方の反撃があるのは何とも心強い。少しだけ安心したが、一向に当たる気配がない。逆に苛立たせてくる。
「なにをやっとる下手くそめが」
悪態ついたところで爆弾を落とし終えた敵機が機銃掃射を始めた。これでは早く防空壕へ入らなければ死ぬ確率が桁違いに上がってしまう。
いつまでもこんな所でグズグズしているわけにもいかず、私は再び走り出した。斜め上空で落雷のような音がしたと認知したと同時に、私の目の前を金属の矢が風切り音高らかに土を跳ね上げた。
明らかに私を狙った機銃掃射。あいつらは人一人に向かってわざわざ撃つのか!
外道めと吐き捨てたいところだが、悔しい事にそれだけ敵は余裕だということだ。何とも腹立たしい。
その白い腹をカッさばいて刺身にしてやろうかと思ったが、今の自分には逃げる事しかできない。それが無性に腹立たしかった。
どっちにしろ今のは運がよかった。もう少し前へいれば今頃体中に大穴が空いていただろう。相手も当たらなかった事に苛立ったのか、旋回して機首をもう一度私へ向ける。
「んなっ!」
私はあっちの物陰こっちの窪みと逃げ惑う。これはあまりに酷すぎる。
光りを伴う鉄の矢は地面をえぐり草を吹き飛ばし、石を砕く。私が身を隠した木に着弾した嫌な振動が背中を伝い、まるで生きた心地がしない。
黒い影が頭上を通り過ぎたときに機体から火花が散り、金属同士の接触音が聞こえた。視界に入ったその翼には数箇所穴が空いている。
当てたか! しかし、喜んだところで米軍機は何食わぬ様子で旋回する。何ともしぶといやつだ。
「おーい、和雄。はやく!」
ふと声をした方を見ると、一番近い防空壕の入口から福喜多が手を振っている。
「アホ! 隠れとけや!」
手元にあった石を投げつけ怒鳴る。石は届いていないが、重一は悲壮な顔をしながら他の兵に引きずり込まれていった。
まったくあいつは軍人に向いていない。幸い米軍機は弾を撃ち尽くしたのか、編隊を組んで元来た方へ飛び去っていった。
「助かった……」
エンジンの唸りと空気の震えが遠く掻き消えた時に私はやっと生きていると身をもって感じていた。
今は空襲警報も止み、先ほどの騒ぎが嘘のような静けさが戻っている。
壕内からも避難していた人々が出てそれぞれに散っていく。そんな中福喜多がこちらへ来るのが見えた。
「しかし、お前はアホか。あれじゃ撃ってくださいって言ってるようなもんやろ」
「だって」
「だってもくそもあるか!」
「せっかくな、人が心配したったのに」
空襲の結果、数名が死んだらしい。その中には工場で働いていた女性も子供も含まれているという。
幸いというべきかどうか分からないが、特攻隊員の戦死者は無かった。
しかし一方で身内が、親しい知り合いが殺された事により、地元の人々は大きな悲しみと不安に駆られた。
いや、地元民だけではない。私だって他の兵だってそうだ。身近な人が死ぬ恐怖、特攻もできずに地上で死ぬ恐怖。
こんな内陸まで侵入を許してしまう現状を見ても、やはりこの戦争は勝てるとは思えなかった。
昼夕の穴埋め作業も終わり、今の時間は夜の一〇時頃だろうか。真っ暗であるはずの夜の闇を、空に浮かんだ月が雲の影から地上を照らし出す。
尻から伝わる冷たさがどこか気持ちいい。これで鈴虫でも鳴いていたら良かったのにと、私は大石家の縁側で一人思っていた。
私の階級である二飛曹を含む下士官は二日に一回の外泊日がある。海軍航空隊員と地元民との交流を深めようと、ここ鶉野飛行場では下宿が行われている。
外泊日はそれぞれが下宿先の家に泊まる日のことだ。大石家もこれにあたり、下宿先を探している私を受け入れてくれた。今日はその外泊日にあたる。
暗幕を掛けられた電灯からの微光が庭に私の影を切り取っている。
それを眺めていると影がもう一つ増える。私は上半身をねじるように振り向くと、佐代子がポツリと立っていた。
「どうしたん?」
出来るだけ静かに問いかける。あのことかもしれない。そう思い、自分の横に座るよう隣を軽く叩いた。
月明かりの静寂の中で私と隣に座った佐代子の呼吸の音だけが聞こえる。
「親父さんに聞いたん?」
佐代子は何がと言わずともわかったようだ。小さく頷く。
「このことは俺から親父さんに頼んだことや。親父さんを責めんでくれな」
「でも、どうして……」
「俺は必ず死ぬ身や。お前にはわかるやろ? それに婚約は元々親同士が決めたことや、そこまで気にする必要はないと思う」
出来るだけ優しく問いかけた。
「でも、たとえ親同士が決めたことだとしても、私はあなたを愛しています」
そう言って顔を上げたその表情は真剣そのものだ。まいった、私はこういうのに弱いのだ。
「せめて名前だけでも。私はそれだけで生きて行けます」
私だってできるならそうしたい。しかしそれは叶わないし、やってはいけないのだ。私は小さく首を振りながら答えた。
「俺は国のために死んでいく。でもな、それは家族やこの家の人たち、そして佐代子さん。大切な物を守るためには国を守らないとあかんからや。わかってくれるな?」
佐代子の頭にそっと手を置く。
「それに妻持ちは特攻したらあかん決まりになっとる。それはお前を守れんということや」
佐代子は泣き崩れた。それを私はただ謝りながら抱きしめることしかできない。
生まれた時代が違ったら。そんな事は夢物語だとしても思わずにはいられなかった。