覚悟
私はあの時覚悟を決めた。しかし、もう一度母の、多喜と哲夫の顔を見てわからなくなってしまった。
あの時マルをつけたのはなぜだ。そうだ、周りの目が怖かった。条件が揃っている自分が志願しなければ他に誰がいる。
仕方がなかった。いや、志願者は他にも沢山いた。なら自分が行かなくてもいいのではないか?
もういっそのこと逃げてしまおうか。逃げて母のそばで家族を支えたほうがよっぽどいい。
本当にそうか。違う。ここで逃げればこの家は笑いものだ。それにあれは強制ではなかった。私は自らの意思で志願したのだ。何のために?
国のためだ。国を守れればこの土地を守れる。それは家族を守ることと何ら変わらない。皆死んでしまったら元も子も無いではないか。
自分一つの命で守れるのだ。嬉しいことだ。そう、この身をとしてでも守らなければならない。
一機一艦葬る事ができるこの作戦はそれが可能だ。できなくては困るのだ。
ふと意識を視線に戻すと、ガラス越しに入ってくる月明かりに照らされた天井板が目に入ってきた。
その天井の人の顔に見える年輪の模様が昔は怖かった。慣れていたはずだが、どうしてか今とてつもなく恐ろしく見える。
それを見ていると、次第にわずかな光も消え去り、私とその顔だけが暗闇に浮かび上がるような錯覚。まるで死そのものを表すようなその顔がどんどんと大きくなっていく。
怖い。もはや夢か現実か、それとも幻想なのかもわからない。
『お前は死ぬのだ』
腹にのしかかるような声が響く。何が起こっている。
『お前は成したいことも成せずに死んでいく』
そんなものあるものか。
『機体と同じように身体が細切れになって死んでいく』
国のためだ。
『お前一人が死んだところでこの国は負ける。ただの無駄死にだ』
違うと言いたくても口にができなかった。自分の奥に潜む思い、感情。否定など出来ない。進んで死にたいと思う人間などこの世にいるものか。
『愛してやまない佐代子を置いて死んでいく。無責任だ』
国を、大切な人を守るためだと頭で分かっていても、体が精神が拒絶する。
『そんなに死にたいか。なら私が今ここで殺してやろう』
そう言って顔はどんどんと近づいてくる。逃げようとしても体が動かない。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が溢れ出る。助けて! 死にたくない! 母さん、助けて!
勢いよく体を起こす。心臓が痛いほど早く動き、体をしっとりと濡らす汗が肌寒い。
上を見てみると、今までと何ら変わらない月明かりに照らされた天井があった。
そうか、あれは夢だ。いつの間にか寝ていたらしい。それにしても自身が動揺していた事は自覚していたが、まさかあんな物まで見るとは思わなかった。
現状を理解すると、遠くでけたたましく鳴り響いている空襲警報に気づいた。時計は二時を指している。
気になった私は力の抜けた体を動かして縁側へ出た。夜の風が体を冷やす。
ぶるりと身震いして音のする方へ視線を向けると、山の向こうが夕焼けのように赤くなっていた。朝焼けか。一瞬そう思ったが、さっき見た時計は二時を指していたため有り得ない。それに一部だけが赤いのだ。
朝焼けならもっと広く赤く染まり、空ももっと明るい。地上の炎の光を反射してキラキラと光るB29のジュラルミンの機体と、空襲警報に混じって聞こえてくる腹のそこを突き上げるような爆発音が大規模な空襲だと物語っていた。
「和雄も起きたん?」
母が静かにふすまの奥から顔をだした。
「母さん。あれって」
「ええ、空襲ね。今までと比べ物にならんぐらいの規模の
「逃げなくてもいいん?」
「ここらに逃げる場所なんてないんよ。山に逃げてもいいんやけど、そう変わるとは思わんしね」
今あの場所で無数の人間が死んでいく。子供も年寄りも女性も関係なく死んでいく。
親戚一家は無事だろうか。昔よく遊んだ啓太や良子はちゃんと逃げられているのか。
もうこんな事が許されてたまるか。そうだ、私が行くのは少しでもこの事態を広めないためだ。私が行けば少しでも米軍の足かせになる。それでいい。
さっきの夢は私自身の心の迷いが見せただけのものだ。なら迷わなければいい。私は守るために死ぬ。それだけだ。
「母さん、俺が守ってみせるから」
いきなりの発言に母は少し驚いた顔をする。
「どうしたん、いきなり」
「あれを見てるとさ、なんか心が決まったっていうか、ね」
軽く返事をした母はどこか嬉しそうな悲しそうな複雑な表情をしていた。
空襲が始まって二時間程経った頃、ようやく爆発音は止んだ。上空に光の反射が見えないことから爆撃は終わったのだろう。
ひっきりなしに飛来し続けた爆撃機。どれだけの爆弾を落としていったのだろう。とにかく長かった。
空襲警報が鳴り止み、当たりに静けさが戻る。
「終わったみたいやね」
母がぼそりとつぶやいた。
「でも、まだあそこは燃えとる」
「そうね」
今なお赤く染まる山際の空。静けさが戻った今、何も知らなければ只の綺麗な光景に見えるだろう。
「母さん」
少し顔をかしげる母を前に、私は特攻隊の事を言おうとした。言ったほうが良いのか。言わざるべきか分からない。
その時、ボーンと時計が一度鐘を鳴らした。
「あ、いや。父さんの事はなんか分かった?」
「それがわからんのよ。何処でなにしてるんだかねぇ」
そう言って母は寂しそうに、とても寂しそうに小さく笑った。
日が高く昇り、春の陽気が戻っている。私は海軍服を着込み、部屋の中をぐるりと見回した。
止まることなく動き続ける時計も、蝋燭を落として焦がしてしまった畳も、ただそこにある柱でさえもみな懐かしい。
玄関の扉をくぐり、駅へ向かう。昨日に増して快晴の空を、春の暖かさに目覚めたミツバチがブンと飛んでいった。
「和雄、色々と気をつけるんよ」
駅のホームにもうすぐ電車が来ると報が鳴ったあと、母がそう言った。
「大丈夫、分かってるって。心配せんでいい」
「大石さんによろしく言っといてね。これも渡しといて」
「多喜、哲夫。こっちへ」
母から顔ほどの風呂敷を受け取り、ちびっ子二人を呼び寄せて視線を合わせる。
「二人共、俺がおらん分しっかり母さんを支えるんやぞ」
「兄ちゃん、わかっとるよ」
哲夫が腰に手を当て胸を張って頷く。
「特に哲夫、お前は男やねんから母さんにあんな手させるなよ」
胸を張りすぎて飛び出た腹をポンと叩き、あかぎれで痛々しい母さんの手へ視線を向ける。
「ご、ごめんなさい」
「これからはしっかりな」
私は二人の頭を乱暴に撫でる。
「母さん……」
電車が来た。本当にこのまま言わないでいいのか。後で知ったほうが悲しみは少なくはないか。悩んでいる内に電車は駅へ入ってくる。
「じゃあ母さん、もう行きます」
少なくとも行ってきますとは言えない。
「母さん、お体にお気を付けて。お元気で」
「なあに、いきなり他人行儀で」
「いや……なんとなく」
私は電車のドアを開け、車内に乗り込んで後ろを振り返った。
「行ってらっしゃい」
母の笑顔に軽く手を上げて返事を返す。モーターが唸りを上げ始めた。
駅を離れて景色の流れが早くなる頃、私は一種の虚脱感に襲われた。そのまま近くの座席に座り込み、何気なく外を見る。
家から離れていく。もう戻ることは叶わない。迷わないと決めても、やはり別れ際はどこか悲しくなってしまう。
男だというのに泣きそうになってしまった。恥ずかしいことこの上ない。
神戸有馬電気鉄道と三木電気鉄道を経て、国鉄北条線に乗り換える。北条線は蒸気機関車が客車を引く。
蒸気機関車というものは厄介なもので、トンネルに入るときには窓を締めなければ皆真っ黒になり、口の中は石炭粉でジャリジャリになる。汽笛が鳴るとおちおち弁当も食べていられない。
しかし、遠くから聞こえる汽笛はどこか郷愁を漂わせる。特に静かな夜に響く汽笛は故郷を思い出させ、予科練の時など涙を流したこともあった。
夕日に照らされる網引駅で下車し、そんなことを思った。
飛行場近くの低い斜面にいくつも掘られた防空壕の前を通る。この防空壕は素掘りとコンクリートで固められたものが有り、飛行場を中心として点在している。
司令室や弾薬庫などの重要建築物はいち早くコンクリートの壕内に移された。内陸にこんなものが作られるほど戦況は切迫しているのだと、いつ見ても思う。
中は夏でも涼しいが、外からの明かりはほとんど入り込まず、三メートルも奥に入れば真っ暗になる。
空襲があればこの中で米軍機が去るのをひたすら待つのだ。ほとほと嫌になる。
私の実家とは違う瓦屋根の家。作りも全く違い、最初に入ったときは不思議な感じを拭えなかった。
橙の日差しに縁どりされた自分の影が浮かぶ木製戸をたたく。ひと呼吸程置いたあと、中からしわがれた声が返ってきた。
ガラリと戸が開き、髪に白髪の多いゴツゴツとした顔が出てくる。
「ただいま帰りました」
「おう、お帰り。もう帰ってきたんか。」
開いた玄関から漂う大石家特有の匂いが鼻をくすぐる。私はこの匂いが嫌いではない。どこか優しい落ち着く香りがするのだ。
「ちょっと待っとれよ」
そう言った後で親父さんが家の中に向かって「谷川が帰ってきた」と叫ぶ。すると、すぐに中から足音が聞こえ、私より一つ下の女性が顔を出す。
きょろっとしたその顔は、若干のつり目にふっくらとした頬が愛らしさを醸し出している。
私の家と大石家が以前から交流のあるという事もあり、随分前にこの佐代子さんと婚約を結んでいた。私達も心情的に、お互いまんざらでもない。
「お帰りなさい和雄さん」
「ありがとう」
佐代子は藍色のもんぺを着、髪を後ろでねじってまとめる銃後髷をしている。この時代、女性は華やかな洒落た格好は出来ない。
突然の空襲に備え常にもんぺと防空頭巾を着用し、3分でまとめる事が出来る銃後髷が一般的となる。
「どう? お母さんとは会えました?」
「おかげさまで。でも特攻隊の事は言えなかった」
「そうですか……」
佐代子が少し寂しそうな顔をする。それを横目に、私は親父さんに話があると小声で伝えた。
「これ、母が大石さんにと」
母さんから渡されていた包を親父さんに渡す。
「ああ、すまん。佐代子、これを」
「はい」
親父さんは佐代子に奥に引っ込んでいなさいと目で伝える。佐代子はそれを察して戸を閉め、家の奥へ入っていった。
「大石さん、前々から言おうと思っていたのですが、私と佐代子さんの婚約を破棄してもらいたいのです」
親父さんは額にしわを寄せる。
「それは、死ぬからか?」
「ええ、親同士が決めた縁談とはいえ、私は佐代子さんを心から愛しています。だからこそ私は身を引きたい」
「俺とて男や、お前の考えはよくわかる。親としても死にゆく者に嫁がせるような真似はしたくない
腕を組んでじろりと私を睨みつける。まるで鬼教官に睨まれたような錯覚に陥った。
「しかしな、あの子は素直に分かりましたとは言わん。頑固なところだけ俺に似よってからに……」
「ならどうすれば」
「一応こっちから言っておく。一応な。でも多分聞いたらお前のところへ飛んでいくやろう。親の間で結んだものとは言え、すまんがその時はお前から説得を頼む」
「申し訳、ありませんでした」
そう言って私は頭を下げる。地面を見つめ続けていると、肩に手を置かれた。
親父さんが戸を占める直前に小さく「すまない」と言っているのが聞こえた。
親父さんに謝る要素など存在しないのに。全ては私が招いた事だ。もう一度頭を下げ、空を仰ぐ。太陽は揺らめきながら山際に消えようとしていた。
「ほら、はよ上がれ。虫が入る」
親父さんが家の中を指差し、私はそれに従って玄関で靴を脱いだ。軋む床を通り、広い一室に入る。
「いらっしゃい」
先の佐代子より三、四歳年上の大人びた女性がこちらへ顔を向けて軽く頭を下げた。佐代子の一つ上の姉で名を幸子という。
大石家は三姉妹で幸子さんは次女に当たる。息子は居ないため、親父さんやおばさんは私のことを本当の息子のように思ってくれているらしい。
「今夜もおじゃまします」
私も軽く会釈を返した。さっき奥に行った佐代子の姿が見えないのが気になるが、荷物を預かると言う幸子さんへ手渡した。
「他の人はどこに?」
「お母さんは料理を、美代子姉さんは赤ちゃんがグズって……。佐代子は奥に引っ込んだきり出てこんね」
長女である美代子さんは戦争で夫を亡くし、二人の子供を家族の手を借りながら育てている。
辛いだろうに、そんなことも思わせずに育児をする姿に私は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「和雄兄たんや」
五歳になる長男の誠が奥から駆け寄って足にまとわりつき、私はその顔を撫でくりまわす。
「おう、小僧っ子。また悪戯ばっかりしとらんやろうな」
「うん!」
私のズボンを引っ張りながらそう元気に答えた。
「嘘おっしゃい! さんざん悪戯しとったくせに! 和雄さん、いらっしゃい」
美代子さんが赤子を腕に抱いて出てきた。しっかりとまとめてあるはずの髪が、ほどけて四方にはねている。さては小僧っ子の仕業だな。
「おじゃましてます……大変そうですね」
美代子さんは「もう慣れたわ」と苦笑いし、少し控えめに続ける。
「それより、お母さんとは話せた? 特攻のこととか……」
「それが、言えずじまいで……」
「難しいね」
真面目な話をしているのも構わず、誠は私の体によじ登ろうとしている。ビリっと嫌な音が聞こえた。音のした所へ目を向けると、袖のつなぎ目が破れて取れそうになっている。
「誠!」
美代子さんが慌てて誠を引き剥がし、頬をひっぱたく。
大声で泣き出す誠の声を聞いてか佐代子が奥から顔を出し、破れた私の服を見るなり無理やり脱がしてまた奥へと引っ込んでいった。
素早く無言で服を持っていった佐代子の顔はどこか悲しそうであった。
一部始終を見ていた親父さんと幸子さんが腹を抱えて笑い、何事かと顔を出したおばさんに話をきかせてまた笑う。
美代子さんは自分の息子が引き起こした事態に落ち込みうなだれていた。小さくなった美代子さんをなだながら笑う面々。
暖かい家族だ、私は心からそう思った。