宇佐から串良へ
兵舎内に鳴り響いた起床ラッパの鋭く頭に響く音がぼんやりとした頭を覚醒させる。
身に染みている日課のせいもあり、反射的に飛び起きて慌ただしく寝具の片付けをおこなう。
そう言えば軍に入りたての頃はこれが中々難しかった。毛布を畳むのに、少しでもずれていると尻をひっぱたかれたものだから、たまったものじゃない。
叩かれたわけでもないのに尻を抑えてぶるりと一つ身震いした。
勢い良く開けた窓の外では空に雲が多く広がり、暖かかった前日の陽気が嘘のように肌寒い。
前に整列している同期の頭越しに見える山桜の桃色が施された山肌を遠目に、整列場所へ駆けてきた時の上がった動機を押さえ込もうと深く深呼吸する。
目を開くと、郵便の車が今にも止まりそうなエンジン音を響かせているのが視界の端に映った。
司令や佐藤大尉の朝の訓示等を聞き、そして解散の後、駆け足で一斉に隊舎に向かう。
「おい谷川、ちょっと待て」
ビリになるものかと駆け出したのも束の間、後ろから佐藤大尉に呼び止められた。何も怪しいことはしていないはずだが、上の人に声を掛けられるといつも心臓が止まりそうになる。
それを知ってか知らずか、保坂は意地の悪い笑みを私に向け、階段の上に消えていった。
「さっきお前宛にお前の母親から郵便物が届いてな。早く渡したほうがいいだろう」
母からの物だと聞いて、それこそ心臓が止まりそうになった。もしかして母は私が特攻隊に志願したことを知っているのか。
もし知っているとしたら、この中に入っているのは一体なんなのか。そもそも何処で知った。
手渡され、手の中にあるこんもりと膨らんだ頭大の包みに目を落としたまま思考の渦が激しさを増し、包みしか認識できなくなる。
「間に合って良かったな」と大尉に肩を叩かれてハッと我にかえった。
辺りは数人の士官だけが立ち話をしている程度で、朝の静かな空気へ戻っていた。いつの間にか包が手元にある事から、礼も何も言わずに大尉から受け取ってしまったらしい。
通常ならゲンコツものだが、何もせずに去っていった大尉の背中を、まだ頭の回らないまま見送った。
日が高くなるにつれて雲はますます空を覆い、薄く張った雲の屋根の向こうから太陽の光が透き通ってぼやけてい見える。
いい天気とは言えないが、淡い太陽光が見送りに来てくれた健三爺さんの深いシワをより際立たせていた。
「もう桜の咲く時期ですけど、今年は何を植えるんです?」
「いつも通り米と野菜を少々。それとカンショを植えようと思っちょります。うちの芋は甘くて美味いんじゃけんど食べて貰いたかったじゃな。季節が季節なだけに無理じゃったが」
「ほんまですか? よかったらまた靖国に持ってきてくれたら嬉しいです」
保坂が図々しくもそんな事を言った。初めて会った時から遠慮のないやつだとは思っていたが、それは誰に対しても変わらないらしい。
それでも健三爺さんは泣きそうな笑顔で了承してくれた。
「焼き芋がいいな、あの口の中にへばりつく熱さがたまらんねん」
「ほんまか。それより、あれは放っといていいんですか?」
焼き芋の良さを語る保坂を軽くあしらい、福喜多と二人楽しそうに話す幸子さんへ目を向ける。
健三爺さんは親代わりであるから幸子さんの事を孫以上に、娘の様に大切にしていたはずだ。
「ああ、構わないじゃ。今だけ好きにさせておきます」
そういう健三爺さんの顔はどこかで干し柿をくれたお婆さんの表情と重なった。
「おい、もう行かなあかん」
楽しい時間は早く過ぎるものだ。頭の上では重々しい唸りをあげながら数十機の銀翼が空へ駆け上っていく。
先発の隊だろう。もう一時間もすれば自分たちも空へ上がらないといけない。ほんとうは全く話し足りなかったがこればかりは仕方ない。
「あの団子汁、最後にもう一度食べときたかったですよ」
「ほんまそれよ、今日みたいな肌寒い日にはさらにうまかったやろうしな」
幸子さんの団子汁をいつもの様に褒め、足元の飛行カバンを手にさあ行こうというところで、爺さんがそう言って幸子さんと共に深々と頭を下げた。
「お三方、こんまいまじお世話になったんや。この国をどうかお頼み申し上げます」
私たちはそれに、ひと呼吸の敬礼で答えて集合場所へ駆けた。
司令らの訓示を受け、卓上へ並べられた水盃を交わした後、女学生の列の前を通ってすでにエンジンの掛かった自分の搭乗機の前に向かう。
死化粧を施され、すっかり綺麗になった九七式艦攻はより一層凛々しい風貌を醸し出していた。
飛行服を整え、カバンの中に母からの封筒が入っていることを確認し、整備兵の手を借りて機へと乗り込んだ。
「整備ありがとう」
「ご武運を祈ります」
補助をしてくれた整備兵と軽く敬礼を交わす。
空に上がり、機体が安定したところでカバンから封筒を取り出す。結局何が書いてあるかが怖くて今まで開けることが出来なかった。
暴れる心臓を深呼吸で落ち着け、封を破って中身を手に出した。出てきたのは小さな巾着と一枚の手紙。
手紙には特攻隊に関する事は一切書かれていなかった。書かれていたのは私を心配し、励まし、応援する言葉がずらりと並んでいる。
母にどれだけ想われているか。それだけが只々、鐘の震えるように心を響かせた。ふと手を目にやると少し湿っぽい。
泣いているのか。しかしこれだけ言えるのは、死にたくないから泣いているのではない。
何も知らない母が、私が死んだ事を知った時に悲しむ事が悲しい。
鼻を一つすすり、これ以上涙が出ないように、低い雲の上に広がる青空を仰いだ。
前日とは打って変わって水色一色に染まった空に、桜色の枝々がよく映えている。その枝々が風に揺られ、散らせていく花びらが美しさの中に静かな寂しさを感じた。
短い間を精一杯、華やかに咲き誇り、枯れる間もなく散っていく。つくづく私たち特攻隊とよく似ている。
手の甲に舞い降りてきた一枚の花の欠片を、ふうと吹き飛ばし、胸ポケットから母のくれたお守りを取り出す。
藍色に幾重もの白い線が縦に走っているお守りは、一見少巾着と言った方が合っているかもしれない。
手紙には母がいつも付いていますという言葉が添えられていた。言うなればこれは母の分身と言ってもいい。
実際にこの中には母の髪と私が昔から大切にしていたドングリが入っている。しかし小学生の時に拾い、どこか気に入って取っておいたドングリと共に出撃すると言うのは何とも不思議な縁だ。
お守りを手のひらで一つ撫で、元のポケットにしまって緩い斜面に立っている桜の木の下に仰向けに寝転がった。
眼前一杯に広がる桜色。風に吹かれて、ひらりひらりと降ってくる花びらを眺めている内に、いつの間にか意識が暗転していた。




