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母とふるさと

 昭和二十年三月一六日の朝、電車のモーターの振動が木製の椅子を通して私の尻を震わせている。


 軍帽を脱ぎ、むず痒い頭を掻きつつ車内を見渡す。


 木の温かみがある車内には二座式の腰掛けが並んでいる。天井では橙の光りを放つはずの電灯はその明かりを灯さず、死んだように車外の光に当てられているのが少し印象的だった。


 光りの差す元を追って窓の外を見ると、田と雑木林が入り乱れた田園風景が流れていく。


 初春のうららかな印象を与えて来るその景色は、私が所属している鶉野飛行場での事を思い出させた。





 同年二月十日


 その日、私が所属している姫路海軍航空隊、兵庫県の内陸部にある鶉野飛行場では訓練生を含む航空機乗員の面々が滑走路に整列していた。


 この飛行場は昭和十七年、河西郡九会村鶉野の原野約八十三万坪と民家、学校等が立ち退いた場所にある。


 ここに呉海軍建設の指揮の元、地元各地からの勤労奉仕隊。学徒増員、そして朝鮮半島より来た人々の突貫作業により、昭和十七年十月一日に完成しものだ。


 この飛行場は飛行機搭乗員養成が一番の目的で、実用機による最終飛行訓練基地である。私も乙種飛行予科練習生を経てこの飛行場で最終飛行訓練をしていた。



 びゅう、と肌を突き刺すような寒風が吹き抜ける。

寒い。今、真っ赤になっているであろう耳に湯でもかけたらさぞ痛いだろう。


 たわいない感想を頭に浮かべながら視線の先へ意識を戻す。


「米艦隊の沖縄上陸が予想されている! 我々は断固としてこれを阻止しなければならない!」


 整列した隊員の前を歩いていた司令の露木専治大佐が第一声を放つ。


「上陸を許せば本土への空襲も以前より痛烈なるだろう」


 立ち止まった司令が顔だけこちらへ向け、ひと呼吸置いて続ける。


「……そのために君らには新兵器に乗ってもらいたい。それは特攻兵器であり、生還を期すことは有り得ない必死の兵器である」


 なんだそれは。生還を帰すことは無いということはどういう事なのだ。横に並ぶ同期の横顔をちらりと見ると、同じ様な心境なのだろう。僅かに眉を寄せていた。


「簡単に言えば君らが普段、飛行訓練に使っている九七艦攻または天山に搭乗し、爆弾を抱えたまま敵艦めがけて体当たりするということだ」


 空気が肌を刺す。これは寒さなどによるものではない。ピンと張り詰めたこの場の空気が肌を刺している。


 私自身、顔が緊張で突っ張っているのが分かる。それ程までに衝撃的なことだった。


「真に護国の赤誠に燃え、一命を捧げて悔いないと思う者は志願用紙にマルを、それ以外はバツを書いて提出して欲しい。ただし、後世の憂いある者、すなわち長男や妻子持ちは志願を禁ずる。以上!」


 私だって軍人の端くれだ。今の日本が置かれている状況だってよくわかるし、連日繰り返される神戸の空襲をとっても一目瞭然だ。


 ならば自分はどうする? 自分の身を犠牲にしてこれを阻止するのか? 周りも私も立ち去っていく司令に視線を固定しながら動くことすら忘れていた。



 その日の晩、宿舎の毛布に包まれながら、私は司令が言ったことを考えた。


 身動き一つしないが、他の者も同じなのだろう。雰囲気が何時もとはまったく違う。普段は笑顔で話す友人も今日ばかりは皆一様に額にしわを寄せていた。


 その翌日の晩、私はマルを書いた。





 航空隊内での志願数は百と二十人。私はこの中から選抜され、特攻訓練をすることとなった。


 特攻隊員になったからと言って待遇などが変わった事は無い。陸軍はどうか知らないが、海軍は心構えを厳粛にするため特別扱いはしないという。


 特攻隊員となってから、いつも訓練で乗っている九七式艦攻を見ると頭の中に今までの事が蘇ってくる。


 自分は何なのか。自分は何の為に生き、死んでいくのか。私の場合は三日考え、答えを出した。中には数週間悩む者もいたが、多くの人は私と同じようだった。


 最初は暗い顔で考え事をしていた他の面々も、一時をすぎれば皆以前よりも活きのいい水を得た魚のようになった。


 笑い合い、茶化し合いながら訓練を続ける。私も同じだった。


 そういえば以前、佐藤大尉に最後に母に会うために外出日を一日だけ増やしてほしいと頼み込んだ。その外出許可、二日間の帰省許可が下りたのだ。


 大尉が司令に働きかけてくれたことは風の噂で聞いている。これには礼を言っても言い切れない。





「もしもし兵隊さん、お隣よろしい?」


 突然掛けられた声に驚いて振り返る。少し腰の曲がったお婆さんが背もたれに手をかけて立っていた。


「あ、ああ……すいません。どうぞ」


 そう言って私は少し横へずれる。駅に着いていた事も気づかなかった。


 車内を見ると、客は多い方だが席が空いていない訳ではない。お婆さんは何故、わざわざ自分の隣にしたのだろう。


「ありがとう。すいませんね、なんか兵隊さんの事が気になって」


 お婆さんは、よたりと腰をおろして顔をこちらへ向ける。


「え、どうしてです?」


「えらい怖い顔しとったんです。なんかあったんかと思って」


「少し考え事しとったんです。大層なことではないですよ」


 そう告げるとお婆さんはニッと笑い、「ほんま? なら笑った方が良いんと違います?」とまるで悪戯っ子のように言った。


 私はその様子に思わず吹き出し、笑ってしまう。張り詰めていた気がほぐされていくようだ。


「ほら、笑った。えくぼが可愛い」


 可愛いとは失礼な。


「私の孫もね、この前帰ってきた時ずっと兵隊さんと同じ顔しとったんです。それでつい声かけてしまったの。迷惑やったかしら?」


「そんなことないですよ。むしろ気がほぐれてありがたいぐらいです」


「孫は何やら南の方へ出撃するんや言うてましてな、それで難しい顔しとったんですって。自分はいつ死ぬかわからない、とかなんとか」


「南の方と言うと沖縄ですか?」


「それが答えてくれんかったんです。私、もう心配で心配で……」


 お婆さんはうつむきながら話した。答えなかったとなると自分と同じなのかもしれない。


 もしこの予想が当たっていた場合、お婆さんのお孫さんは生きて帰ることはまずないだろう。


「きっとお孫さんは立派にやってくれます」


 大丈夫だとか死なないなどと無責任な事は言えない。それでもお婆さんはまた笑を浮かべた。


 私はその笑顔を見ると無性に心が苦しくなるのを覚えた。


「よかった。あ、そうや、これ食べます?」


 お婆さんはそう言って手元の風呂敷から干し柿を取り出してこちらへ差し出す。


 私はいいんですかと一度聞き、頂いた。ねっとりとした食感と、柿特有の甘味がなんともうまい。


「私の孫も干し柿が大好きなんですよ」


 嬉しそうに孫の話を続けるお婆さんを見やった。そのしわくちゃな笑顔は本当に幸せそうで、いかにこの人が孫の事を大切にしているのかがわかる。


 もし孫が先に旅立ったとき、このお婆さんはどんな気持ちになるのだろう。考えただけでも悲しい事だ。私も人の事は言えないが。





『鈴蘭台、鈴蘭台に到着です』


 降りる駅までの小一時間、お婆さんは途切れることなく喋り続けていた。


 楽しそうに言葉を紡いでいる所を途中で切らせるのは少々心苦しいが、降りなければならない。


「あの、私ここで降りないと」


「あら、そうなの? ごめんなさいね、ずっとしゃべり続けちゃって」


「いえ、楽しかったですよ」


 そう言いながら私は席を立ち、中心を通る通路へ出る。


「あ、兵隊さん。最後にお名前、いいですか?」


「谷川、谷川和雄です。干し柿ありがとうございました。では失礼します」


 私は一礼し、電車を降りた。戸が締まり、茶色い車体が連続した唸り音をあげて加速する。私はそんな電車に向かって再度頭を下げた。


 二両編成の長い車体が山々の谷間に消えていった後、空を見上げる。


 薄めた藍を塗り広げたかの様な青空に、刻一刻と形を変えながら流れる雲がなんとも気持ちがいい。


 強めの風が私の真っ白な第二種軍服の裾をめくった。



 改札の駅員に切符を渡し、外へ出る。駅周辺の街はまだ新しく、老朽化した建物は昔からこの地に建っていた数軒だけにとどまっている。


 元々ただの田舎だったここ鈴蘭台は昭和三年、私が生まれて翌年に神戸の避暑地として開発が始まっている。


 スズランと言う名前も関西の軽井沢にふさわしい名前として決まったものだ。ただ、個人的なことではあるが私はスズランの花を見たことがない。


 南へ視線を向ければ六甲の山並みと菊水山がひときわ際立っている。あれを超えればすぐ海だ。そのまま後ろを向いても左右を見ても幾多の山々に囲まれた街である鈴蘭台。


 有馬街道を通れば海辺の都心から近く、避暑地となったのは当然だったのかもしれない。


 その時空襲警報のけたたましい唸りが菊水山を越えてかすかに聞こえてきた。


 アメリカの空襲が続き、毎日警報がなるという現状。それが目と鼻の先で起こっている。痛烈な危機感が私の身を襲った。


 今までの自分にはなすすべが無かった。しかし今は違う。特攻という手段を手に入れたのだ。見ていろ。今に目にもの言わせてやる! 心の奥で怒鳴りつける。


 しばらくすると警報はぴたりと止んだ。誤認だったのだろう。やはり皆も神経質になっている。





 駅前の町並みを抜け、北西の方向に歩く。家の塀を左へ曲がると、谷沿いに田畑と雑木林が入り混じった景色が目に入った。


 今は土の塊が転がり、少し緑が見え始めただけの田も夏になれば鮮やかな濃緑に覆われる。


 思えばこの近くでよく遊んだ。草笛を吹き、カブトエビをひっつかみ、そして水田に落ちる。


 そこで見つからずに逃げられたら良かったものだが、見つかった日には一日中休む暇なく草取りをさせられた。今思えば無性に懐かしい。


 ぐねぐねと蛇行した細道を歩いていくと、神社の森の前に出る。小高い山を横に狭い敷地を持つこの場所も昔からの遊び場だ。


「おお、和雄やん」


 少し寄っていこうとした所で声が掛けられる。この声は当時ガキ大将だった山西の家の康介だ。


「なんや、お前か。こんな所で何しとるん?」


「なんやとはなんや。それに何しとるんはこっちの台詞や」


 視線を康介の方へ向けると、肘の少し手前までしかない左腕をこちらへ向けていた。そこから先の袖が幽霊のように垂れ下がっている。


 康介は私と共に海軍へ入隊したものの、予科練の訓練中に事故を起こしていた。その時に左腕と左目の視力を失ったと聞いている。


「ここが少し懐かしくてな。寄ってこうと」


 康介は「ふーん」とどうでも良さそうに応えた。


「ああ、これか。お前が見るんは初めてやったな」


 私の視線に気が付いた康介は左腕をさする。私はそれに適当に返事を返し、境内へと歩を進めた。


「ちょっと格好良いやろ」


「いや、まったく。左目、何も見えんの?」


 後をついてきた康介に問いかける。康介は相変わらずの性格だ。昔から少しも苦しんでいる素振りなど一つもしたことがなく、いつでも堂々と笑って飛ばした。


 左の目と腕が無いだけで、仕事などほとんどない。農作業など特にやりにくいだろう。


「まったくって訳ではないな、光がわかる程度には見えとる。それでも海軍からは用無しよ。堂々とその制服着てるお前が羨ましいわ、ほんま」


「そうでもないわ」


 ふと木製の小さな鳥居の上に石がズラリと並んでいるのが視界に入ってきた。木々の枝葉に光が遮られて薄暗い中、それは何かの儀式の用で不気味に見える。


「ああ、これか。まだ乗っとったんか」


「飽きずによう投げたよな」


 これは私達が昔遊びで投げた物だ。うまく乗った時の爽快感が病みつきになり、近所の子供たちに一気に広がった。もちろん大人に見つかれば罰当たりと叱られた。


 鳥居をくぐり、本殿の前の小さな広場へ出る。入って右手には、見上げれば後ろへ下がってしまう程の大杉が立ち、御神木として祀られている。


 そんな神聖な空気が漂うこの場所も、相変わらず薄暗い。境内は夏になれば蚊の宝庫となってしまうのが玉に傷だろう。


「懐かしいわ、ようここでチャンバラやったよな」


「おう。覚えとるか、お前蜂に頭刺されとったやろ」


 康介の片頬に笑みが浮かんだ。私はこの顔が昔から嫌いでたまらない。


「あれを忘れられるか。人の頭に小便引っ掛けやがって。まったく、思い出しただけで頭痒なる」


 私は怒り心頭といった感じで声を尖らせた。昔からの馴染みな分、康介はそれを冗談だと分かっている。


「な、それはお前のためを思ってやな」


「嘘つけ。腹抱えて転げまわっとったんはどこのどいつや」


「いや……、でもあれは傑作やった。落ってった花ん中に蜂が入っとるとはな。しかも頭からほかほかの黄色い液体垂れながしとる。いや、ほんま傑作傑作」


 ケタケタと腹を抱えて笑う康介。これは本気で頭にきた。手荷物を放り捨て、勢いよく康介に組み付く。今は相手が片腕ないなど関係ない。


「アホ、やかましいわ!」


「お? くるか。この康介が片手で相手してやる」


「あの時の恨み。忘れたと思っとったかコンチクショウめ!」


 昔遊んだ場所で。昔から見守られてきた歳神様の前で私たちは転げ回った。顔をひっぱたき、背中にまたがり、玉を握りつぶす。


 楽しかった。楽しかったと言っても喧嘩好きの暴れ者ではなく、幼い頃に戻ったようなものだ。





 茅で葺かれた苔むした屋根に、緩やかな曲線を描く流造の本殿。その前の石段の上に私たちは腰をかけていた。支給された腕時計の針は正午を指している。


「お前、何かあったやろ」


「特別攻撃隊ってのがな」


 康介が少し目を見開いた。


「少し噂で聞いたことがあるわ。なんでも必死隊とかなんとか」


「搭乗機もろとも敵艦に体当たり」


「なら、お前もうすぐ死ぬんか」


「ま、国を守れるんや。それに選ばれてこんなに名誉なことはないで」


 康介は肯定も否定もしなかった。死ねば軍神と言われても、知人が死んで行くのが辛くない訳はない。


 私だって訓練中に死んでいった仲間の事を今でも思う。康介とて友人が必ず死ぬ作戦に行くとなれば思うところがあるのだろう。喜べず、悲しめない。


 ただ、「俺も身体がこんなではなかったら」

とつぶやいていた。


「いつ行くん?」


「予定では三月二十三日に大分へ進出することになっとる」


「早いな。おばさんには言うん?」


「わからん。けど、言えそうにはないわ」


「そうやろうな。俺も黙っとく」


「すまん」


 私はそう言って立ち上がる。日も傾き始めた。そろそろ家に帰らないといけない。


「この国を、お頼みします」


 康介はそう言って深く頭を下げた。あの康介が誰に言われるでもなく、自らの意思で頭を下げたのだ。


 思わぬ行為に私は少々面食らったが、とっさに敬礼を返す。今まで味わったことのない心の熱くなるような、不思議な感じであった。





 生垣に囲まれた茅葺き民家。薄いガラスがはめ込まれた格子状のドアを軽くたたく。


「母さん?」


 二、三度繰り返すが、なかなか出てこない。裏にでも居るのだろうか。庭をぐるりと周ると、鍋を洗っている母がそこに居た。


 「母さん」そう呼ぶと母は動きを止め、振り返る。そして数度瞬きしたあと、そのおっとりとした顔を輝くような笑顔にした。


「和雄! お帰りなさい。どうしたんこんな時に?」


「外出日を一日だけ増やしてもらって。明日帰るから


 母は手ぬぐいで手を拭きながら小走りで駆け寄ってきた。


「早いんね。もっとゆっくり出来たら良かったのに」


「まあ無理言って増やしてもらったし、普通なら認められんことや。贅沢は言えんわ」


 母は少々浮かない顔をする。


「あ、これ大石さんが」


 新聞紙で包まれた土産を渡す。それを受け取る母の手には、あかぎれが痛々しいほど出来ていた。


「ほんま、悪いわぁ。こちらがお世話になっとるのにこんな物まで頂いて。何かお礼せんとね」


「あ、鍋。後やっとくわ」


「ありがとう。お茶用意しとくわね」


 たわしを手に取り、やりかけの鍋へ擦りつけた。井戸水が氷のようにに冷たい。


 こんなもので濡らし続けていれば、あかぎれの一つや二つは簡単に出来るだろう。まったく弟の哲夫は何をやってる。





「母さん」


「ああ、和雄。お茶入っとるよ」


 ちゃぶ台の上に湯気をあげる茶と、干し芋が用意してあった。芋は豊富な糖分の証拠に表面が白く粉吹いている。焼いたらさぞうまいだろう。


「これ、大石さんから?」


「そうよ、食べるもの大変やのに悪いわぁ」


 食料も配給制となったこの時勢では芋一つとて貴重である。下宿での世話になっていながらここまでしてくれる。感謝してもしきれない。


「多喜と哲夫は?」


 そう言えば二人の兄弟の声を聞いていない。


「学校よ。もうすぐ帰って来るはずやけど」


「そうか……」


 そういえば学校があった。学校も今となっては懐かしい。


「ところで、いま訓練の方はどう? ちゃんとやってる?」


 母さんが心配そうに少し首を傾げる。


「もうすぐ終わり。まあ、電信員やからそんなに難しくないんやけど」


「でも、覚える事多いんちゃうの?」


「覚えてしまえばそれでいいから。操縦員なんか覚えるだけじゃあかんしね」


 母が「ふーん」と茶を啜る。


「和雄はできんの?」


「ちょっとはできるけど、着艦とか高度な操縦は無理」


「あらそうなん。てっきり全部できんとあかんのかと思っとったわ。それで、訓練終わったらどうなるん?」


 自然な会話とは言え、痛いところを突いてくる。


「ん、まあ。一応出撃する予定がはいってる」


 少し声が震えた。


「ほんまぁ。お祝いしないとあかんね」


「いや、そんなんせんでいいよ」


「遠慮せんでもいいのよ。それより、くれぐれも気をつけるんよ」


「・・・・・・わかっとるよ」


 嬉しそうな母を横目に、私はどうしたらいいのか分からなかった 。


「ただいまー」


「あっ、兄ちゃんや。兄ちゃんが帰ってきとる」


 もやもやと時間を浪費している所に、七つになったばかりの多喜と、もうすぐ十二になる哲夫が帰ってきた。


「おう多喜、元気そうやな」


「うん!」


 多喜のおかっぱ頭を撫でてやると、あどけなさが抜けない顔を緩めた。


「哲夫もあほな事しとらんやろな」


「大丈夫やって。兄ちゃんこそ下宿先の人に迷惑かけとらんやろな」


「こいつめ!」


「こら、二人共しっかり挨拶しなさい」


 生意気な口を叩く哲夫と小さな多喜。母さんがその二人の頭に軽く手を置いた。


「おかえりなさい」


「ん、ただいま」





 布のかぶせられた裸電球。こんな田舎に空襲なんてしないだろうと思うが、それでも念のため光を外に出さないようにしている。


 食卓の上には赤飯と芋という何とも豪華なもの。久しぶりに纏う着物と座敷が心を落ち着かせてくれる。


「そう言えばここって空襲大丈夫なん? 今日の朝も聞こえてきたけど」


 誰よりも少ないご飯をつつく母さんに問いかける。つい先ほどの事になるが、母にはもう少ししっかり食べて欲しいと頼んだが、頑として聞いてくれなかった。


「ええ、まあなんとかね。夜になるとここら一帯は真っ暗になるし、山を越えてはこんね」


「でも僕ら警報が鳴るたびに逃げらされるねん。最近は毎日」


「そうそう。鳴った途端先生が、各自逃げるように、解散。って言って一人でどっかいっちゃうねん」


 ちびっ子二人も口々にそう言った。


「無責任な先生や」


「うん、仕方ないから近くの林の中に逃げるけど。多いときなんか一日二、三回はあるねん」


 それは中々いい考えだ。自分が皆を連れて逃げているという哲夫の頭を撫でてやる。


「でもな、もうじき兄ちゃんがみんなやっつけてくれるんやろ?」


 二人がキラキラした目を私に向ける。母さんもその傍らで嬉しそうにクスクスと笑っていた。


「おう、任せろ。みんな兄ちゃんがやっつけてやる」


「兄ちゃん格好良い!」


叶うことの無い悲しい嘘だった。


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