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エヌ・ユニヴァーシティ

えんぴつ

作者: 白皙けいぎ

 紫の色に

 死を見出しつ

 私によりて


 思春期を迎えてからの葬式は、よりいっそう不可解なものだった。たしかに生前の優しげな眼をしている祖母を見て、「彼らが死んだら、さぞ悲しく感じるのだろうな」と思ったことはあるけど、いざその祖母が亡くなってみると「こんなものか」という思いをかみしめながら葬式に臨んだものだった。それでも「両親や兄の死はこれとは違う感じなのだろう」と己の良心に期待してみたこともあったけど、交通事故で兄が無惨な姿で自宅に送り返された様をみても「ふうん」と思うにとどまり、また母が無差別殺人に巻き込まれた時でさえ、加害者にたいする憎悪よりも、母の死に見出した、ぞくぞくとした快感が勝ったものであった。


 ぼくはいわゆる名門の生まれだった。そして子どものころはその生まれを呪ったこともある。というのも、生まれながらに将来O大学へと進み、社会科学を学んで、そして行政府の一翼を担う、というような義務を負わされていたからだ。今考えれば馬鹿らしいことなのだけれど、昔のぼくはあきらかに政治や経済よりも、理工の分野に魅力と価値を見出していた。ぼくの部屋には戦艦の模型が置かれていて、そのあまりの見栄えのよさに、それで遊ぶだけじゃものたりなく、人目を盗んでは模型戦艦を文字通り自分の舌で舐めまわした。そして模型にこびりついた自身の唾液の臭いをかいで、それとともに一種の性的な昂揚もたかまり、ぼくの心はどこか彼方へと飛び去っていったのだった。

 高等学校在学中、ぼくは父にこう云った。「父上、ぼくはO大学の進学をお断りします」と。父はすぐにぼくの云わんとすることを察したのか、

「副専攻制度を利用して、好きな工学の分野を修めればよい」と云った。

 ぼくは反論した。

「副専攻では意味がないのです。M社にエンジニアとして入職するには、副専攻程度では相手にはされないのは自明でありますので」

 父は怪訝な顔をして、

「M社なら総合職としてのツテがある。私のメンツを考えてくれたまえ。政治学、または商学を専攻しなさい。下級とはいえどもわれらは名門の氏族の人間なのだ。社会科学に進むのは召命といっても過言ではあるまい。科学では国を導けない。科学で生み出した技術を運営するものがいてこそ国は導けるのだ」

 ぼくは物怖じせず父の顔を注視した。父はなにかをこらえるようにして、言葉をいだ。

「お前が物分りの良い男であるというのは、この父たる私がよく分かっている。だからさ、もうこれ以上、私を失望させないでくれおくれ」


 理工の道に進むのはあきらめたにせよ、O大学にそのまま進学するのは癪だったので、ぼくは無理強いしてN大学の政治学科の門を叩くことにした。といっても最初の一年は文系教養課程であったので、書類上、専攻は未定ということにはなっていたのだが。

理転りてんは難しくても、このまま政治学の道をすすむのはやはりなあ」と、ある日の哲学史概論の授業中、ぼくはふと思った。教授の声がぼくの耳に入る。

「我々がいる世界は不条理であり、世界や歴史に目的はない。また我々自身も、不合理な感情によって突き動かされており、だからこそ――」

 するとぼくは突然、いつも携えているアンティークの六画エンピツの面々にペンで数字を書き入れ、それを机の上に転がした。柄にもなくその時の授業に私語がなかったので、エンピツが転がる音は教室中に響きわたった。それに反応した教授が「何の音だ」と云った。ぼくはそのような言葉など耳にもかさず、回転を終えたエンピツを見やった。四と書かれた面が上にあった。

「なるほど、数字はか」とぼくは思った。「ニニんが四は死のはじまりだっけか。合理性への批判に対してはうってつけじゃないか」するとぼくの頭の中で「シ」という音がどことなく甘美な響きをはらむようになってきた。「ドレミファソラ……シ……。私学。歯学。視学。志学……なんか違うなあ。史学しがく詩学しがく神学しんがく心学しんがく。そう斯学しがくだ。ぼくは進学しんがくせねばならない――人科じんかへと」

 こうしてぼくはボロボロになっていた専攻調査票に「氏名U、人文科学志望」と殴り書きした。


 進学してみて分かったことだけれど、人文学というのはまことにつまらないものであった。といっても悪いことばかりではなく、ぼくが人文学に進んだことが発覚すると、父はまっさきに勘当かんどうを云い渡してくれた。「失業者志望者へ」というありがたい言葉付きで。

「かくも容易に束縛から解放されるとはなあ」とぼくは思った。「はじめからそうすりゃよかったんだ」

 もっともこの勘当にともない、学費といったもろもろの金銭的支援は打ち切られたので、ぼくはアルバイトで学費の捻出を強いられたのだった。

 人文学専攻に進んで、僅かなあいだではあったけれども、はじめて学友ができた。Sというやつだった。仲がよくなった理由は一種の感覚フィーリングで、彼に人文学専攻の選択理由を訊ねると「太陽がまぶしかったから」と答えたからだ。

「カミュが好きなのかい」とその時ぼくは云った。

「読んだことはないけど、好きだよ」とSは気さくに応じてくれた。

 お互い非合理な理由で専攻を選択したので、自身の研究分野について皆目検討がつかなかった。ある日、ぼくとSは授業をさぼって近くの喫茶店に入り、無意味な雑談にふけった。そんな中、ふと卒論テーマについて話題が移った。

「君がやったみたいにエンピツを転がしてテーマを決めればいいじゃないか」とSは云った。「ひぃ、ふぅ、みぃ、って。つまり一なら比較宗教学、二ならフランス文学、三なら民俗学って感じでさ。人文科学にもいろいろあるよ」

「いやその前に大学を卒業するか否かという問題もある」

「偶数か奇数かで決めればいい。おれもそれに乗るさ」

 結果、偶数なら中退、奇数なら卒業ということになった。ぼくはエンピツを取り出して、テーブルの上に転がした。三だった。Sも同じことをした。二だった。

「じゃあ、おれは大学をやめるよ」Sはコーヒーをすすりながら冗談めかして云った。「君は家にでも帰って、もう一回エンピツを転がして、卒論の分野でも決めることだな」

 こうして日も暮れてきたということで、何事もなかったかのように、ぼくたちは喫茶店を出て別れた。

 そしてその翌日から、ぼくは大学で、もうSを見かけることはなかった。そう、彼は本当に大学を中退してしまったのだ。『偶数だったから』彼は大学をやめたのだ。

「これはすごいことだぞ」とぼくは思った。「ほんのわずかではあるけれど、S君は人間の自由意志に抗うことができたのだ」


 度重たびかさなるエンピツ転がしの結果、ぼくはロシア言語学のゼミへ入ることになった。つまり必然的にこれがぼくの卒論テーマとなる。まったくもってぼくに無縁な分野だった。このゼミの初日、簡単な自己紹介をするはこびとなり、当然ながらぼくも紹介を求められた。

「どうしてこのロシアの言語学なんかに興味を持ったのかい」と先生は訊ねた。

「わかりません」ぼくは我ながら毅然として答えた。ゼミの学生はぽかんと口を開けて、どことなく侮蔑のまなざしを向けた。先生は温厚な性質たちだったためか、

「これからその理由を探していけばいいよ」と至極穏当な返事をした。ぼくは用が済んだと思って着座したのだけれども、先生はまだ飽き足らないのか、それとも異様な関心をぼくに抱いたのか、

「でも少しくらい理由はあるんじゃないのかい」と付け加えた。ぼくは、もうなにを言えばよいのかわからなくなって、正直に、

「エンピツに従いました」と云った。静寂が教室を制して、ややもたって、不可解な哄笑が湧きおこったのだった。

 その日の授業を終えたぼくは、下宿先に帰って、適当なクッションを頭に敷いて、

「運命は自分で切り開くものとか、実存は本質に先立つとか、自由意志とか、まったくもって信じたくない話だよな」と考えた。「運命はエンピツによってもたらされなくちゃならないんだ」

 ぼくはその時、運命は与えられるものであると考えはじめていた。人は生まれつきすべてが決まっていると、本質が実存に先立っていると。


 そんなぼくにちょっとした事件が訪れたのは、大学三年の夏であった。突然ぼくの下宿先の電話に親戚から連絡があったのだ。

「君のお父さんが亡くなったよ。脳出血で急死だった」と親戚は感傷的な語調で通話してきた。

「そうですか」ぼくは無感情に云った。

「葬儀があるからFの式場に来なさい。この際、君が勘当の身であることには眼をつむるから」そう云うと、親戚は電話を切った。ぼくはひとつ溜息をついた。そして、

「次はぼくなのかな」と独り言をもらした。

 さすがに父の葬儀となると、かなり盛大なもので、黒山の人だかりが形成されていた。式は父の兄が取り仕切っているようだった。ぼくは親類の席でなく、参列者の席に着座した。そして父の遺影をながめて、なんだか気分が高揚した。それは、小さいころ、買った玩具を自宅へ持ち帰るときの、あのわくわくした感じに似ていた。けれどもその高揚した気分は時間とともに薄れていって、ただ葬儀の時間がひどく退屈に感じられるようになってきた。「帰ろうかな」とも思いはじめてきた。「どうせ勘当の身なんだし」

 そんな時、ふと、遠くの席の中にSの姿を眼にした。思わず声が出そうになった。この葬儀中、ぼくはずっとSの存在を意識していて、いざそれが終るやいなや、真っ先に彼のもとへと向かった。そして、

「どうしてS君が来てるんだい」と訊いた。

「君のお父さんの葬儀だからだよ」Sはそっけなく答えた。Sらしくない、やけにまっとうな返答であった。ぼくは何か異様な雰囲気を感じとって、

「中退したあと、何かあったのかい」とまた訊いた。Sは苦笑いして、専門学校に編入した旨を答えた。その理由をまたぼくはたずねた。Sは就職の為だと云った。

 互いにすこし気まずい空気が漂ったので、ぼくがその場を立去ろうとすると、Sはぼくを呼び止めて云った。

「まだ君はエンピツを信奉しているのかい」

「エンピツでも、賽でも、機 械がはじき出した乱数でも、なんでもかんでも信奉しているよ」とぼくは正直に応じた。

「なんでそういうことにしたのかい」

「自由意志とか考えるのが馬鹿らしくなったから」

「エンピツを転がして将来を決めることを選らんだのは、君自身の意思だろう。一種の占いを『選択』したんだ。それこそ自由意志の結果だね」Sはやけに熱っぽく云った。どうやら彼は、エンピツで大学を中退したことをひどく後悔したらしい。そしてその後悔こそが、彼の改心を導出し、凡夫へと転じさせたのだ――ぼくはそう勝手に決めつけて、彼に云った。

「じゃあ、どうしてぼくは、エンピツで将来を決めることを『選択』したの」

 Sは少し間を置いて、

「自由にともなう責任が嫌になったからじゃないか」と云った。

「それだと、どうしてぼくは自由の責任が嫌になったのかな。嫌になる人と、嫌にならない人の違いはどこから生じたのだろう。まさしく君とぼくの違いはどこから生じたのか、という問題にもつながることだよね」

「育った環境や遺伝子の違いだろう」

「じゃあ、その環境やら遺伝子は、君が、自分の自由意志にもとづいて、『選択』したものなのかい」

「ソクラテス風情だね」Sはこう云い捨てると、ずかずかと式場を後にした。

「ぼくも君も、いつか毒にんじんの杯をあおることになるだろう」Sの後姿うしろすがたを見ながらぼくは思った。「べつにソクラテスを実践したいわけじゃないのだけれど」


 ぼくの兄は事故で死に、ぼくの母は通り魔に殺され、ぼくの父は病死した。兄は大卒後、入社の初日に、信号を無視したトラックに轢かれて、死んだのだ。母は買い物の途中で、通り魔に襲われて、死んだのだ。そして父はつまらない病気で死んだ。

「ぼくのはどうなるのだろう」ある日の夜、不眠症と闘いながら、ふと思った。「事故死、殺害、病死、それとも」

 ぼくはあかりをつけて、机の上にあった、あのエンピツを転がしてみた。四の数字が上になった。

「生かシか、それが問題だ」

 ぼくは何かに憑かれたかのように、エンピツを握りしめながら下宿先から出ると、しばらく夜の街を彷徨さまよった。そしてまるで蛾のように、街灯のまわりを低回していた蜘蛛を一匹みつけると、そので作られた巣をエンピツで絡め取った。

「これは違うな」とぼくは独語どくごした。「違うんだ」

 すると付近に駅が発する紫がかった光が見えた。自殺を食い止めるために発するあの光だった。そしてぼくは、さっきの蜘蛛のごとく、その紫の光源へと、吸い込まれるようにして向かった。

「わかった。の色に従えばいいんだ。おもむくまま、へ向かおう」

 ぼくはもうすでに、ほんとうの『シ』を受け入れていたのだ。


(了)

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