そんな、小さなmellow
体育祭の競技が、いつの間にか決まっていた。
伊織は黒板をじっと見つめたまま、動かない。それに楓は首を傾げ、麻子は苦笑を浮かべた。百メートル走と四百メートルリレーの場所に、自身の名前があった。
「ほら、伊織ちゃん。話し合い参加しないで読書してるからだよ」
指摘されて、伊織は僅かにたじろぐ。しかし、彼女は反省の意思など更々ない。
「……リレーとか面倒なんだけど」
「体力テストで伊織ちゃん、トップだったんだからしょうがないよ」
「え、黒崎さん、そうだったの?」
「…………偶然、だっただけ」
先日の体育の時間に行われた、体力テスト。本気を出さなければ良かった、と伊織は若干後悔している。しかし、中学時代にバスケ部のエースであった彼女の運動能力は並大抵のものではない。後悔はしているが、流石に元運動部の性から手を抜くことなど出来なかっただろう。
「だって言ってなかったっけ?それをもとに競技決めるんだよーって」
「…………」
その言葉で、伊織は内心で前言撤回した。……やはり、手を抜けばよかった。
「百メートル走は別に単体だから良いけど、なんでリレーまで出なきゃいけないの」
「だから伊織ちゃんがトップだからでしょー」
そんな麻子は二人三脚らしい。それには楓も出場するようで、他にも同様にリレーに出場予定だという。
「二人は何部だったの?」
「わたしは吹奏楽部だよ、フルートやってたんだ。伊織ちゃんはバスケ部のエースだったんだよー!」
「へえ、エースとか凄かったんだ」
「そうそう!伊織ちゃんほんとかっこよかったんだよー!」
麻子の燥ぎように、伊織はふっと笑みを浮かべる。なんというか、相変わらずだ。
「…………」
「……?なに?」
「!いや……」
思わず、といったようにじっと見てくる楓に、伊織は怪訝な表情を浮かべる。それに楓ははっと我に返って、慌てて言葉を探し始めた。
「その、佐野さんってほんと、黒崎さんのこと好きだよなと」
「だって伊織ちゃんはわたしのお姉ちゃんだもんね!」
「……まあ、微妙なラインだね」
完全に否定は出来ない。苦笑しながら、伊織は抱き着いてきた麻子を受け止めた。
- - -
小笠の気合の入りようは半端ないが、クラスの面々はあまり乗り気ではないようだった。それでも、体育の時間は真面目に体育祭の競技練習に取り組んでいる。別段心配はないように思えた。……尤も、伊織は自身の競技で問題が起きなければ関係ないのだが。
「いーおーりーちゃーんっ……」
そんなある日、麻子が嫌に名前を伸ばしながら泣きついてきた。それに伊織は読書の手を止め、怪訝な表情を浮かべる。
「……なに」
「……再来週、テストだよね」
「……ああ、そういえば」
今月末に四日間に渡って行われる、中間考査。それを今更のように思い出して、伊織は頷く。
「今日からお世話になっても良い!?」
「一週間自分でやったらね」
「冷たいっ!」
「あんたがぬるいだけ」
そんなことか、と伊織はブックマークしたページを開き、再び本に視線を落とす。中学から変わらない、いつものやりとりだ。
「あれ、佐野さん勉強出来てなかったっけ?」
「それは範囲が狭いから。あと伊織ちゃんにヒント貰いながらやってただけだよー……」
「そっか。じゃあ黒崎さん頭良いんだ」
「……あんたには負けるんじゃない、新入生代表さん」
本人にそのつもりはないが、皮肉のようなそれに、楓は思わずおかしそうに笑う。笑われるような要素があったか、と気になって本から視線を外した伊織の方が首を傾げた。
「じゃあちょっと勝負しようよ」
「……はあ?」
何がどうしてそうなった。ありありと書かれた表情に、楓は尚も笑う。
「うん、だってまぐれだったかもしれないし?」
「……よく言う」
どこか余裕そうな表情に、伊織は顔を顰める。テストなんて適当に点数を取れば良い、と切り捨てる伊織は、今度こそ本に集中しようと正面を向いた。
「――勝った方は負けた方に何かひとつ命令出来る権利が景品、ってことで」
その言葉に、伊織は一瞬動きを止めた。僅かに瞠目して、直後、目を細める。
「……良いよ」
「お、意外。乗ったね。じゃあ、そういうことで」
「……え、珍し……」
目を瞬かせる麻子の隣で、笑みを濃くした楓がひとつ頷いた。
- - -
「ねえ、伊織ちゃん。なんで勝負しようと思ったの?」
週末、結局勉強を教えてくれと、麻子が家まで押しかけてきた。そんな彼女は現在、ソファを陣取っている。テーブルに広がる教科書を見る伊織に、あれから気になっていたことを訊ねてみた。
「……最近ちょっと外野が煩いから」
「外野……?もしかして伊織ちゃん……!?」
「違うけど、予防線。そんな面倒事に一々巻き込まれたくないし」
淡々と話す伊織に、当事者ではない麻子の方が驚いていた。予想していたことは起こっていないようだが、それでも不安は拭えない。しかし本人は何とも思っていないようで、麻子は思わず嘆息した。
「……まあ、何もないなら良いけど……」
「それより麻子、あんたはそっちの心配よりこっちの心配でしょ。何の為にうちまで来たわけ」
教えないよ、と既にノートの次ページまで勉強を進めている伊織に、はっと我に返って麻子も教科書を手に取った。
「……ああ、そうそう」
漸く麻子のスイッチが入った時、ふと思い出したように伊織がペンを止める。
「今日、バイトあるから。泊まってくんでしょ、留守番宜しく」
「はーい」
気の抜けた返事をする麻子に、大丈夫だろうかと若干心配になりながら、伊織は勉強を再開した。
数時間後、携帯のアラームが鳴ったことで、伊織は勉強を中断した。手早く準備を済ませ、麻子とりんごに留守番を任せてカフェへ向かう。いつも時間に余裕を持って行くが、今日に限って電車が遅れた為、ぎりぎりの入りになった。
「遅くなりました」
「ああ、お疲れ様。電車遅れたんだって?大変だね」
控室に入ると、既に来ていたもうひとりのバイトがいた。女子大生の片岡美月である。
「まあでも、この時間から客足が多くなるから、間に合って良かったよ」
「そうですね」
制服に着替えて、軽く鏡でチェックする。問題がないことを確認して、控室を後にした。
「そういえば、もうすぐテストじゃない?」
「ええ、一週間後です」
「余裕だねえ、流石伊織ちゃん」
「ほんと、羨ましいな」
美月が笑うその奥で、話を聞いていたらしいマスターの息子、緒方真也も頷く。今年三十三歳らしいが、それほどの年齢を感じさせないところが親子そっくりだ、と伊織は思った。
「今日はマスター、いらっしゃらないんですね」
「ああ、たまには娘と遊びたい、って。多分今相当じじばか炸裂してるよ」
「じじばか……!」
「じじばか……全く想像つきませんが」
「そりゃ、父さんいつもあんなんだしなあ」
身重の彼の妻・紗知の代わりに、交代で娘の未来の面倒を見ているらしい。意外な一面を出しているマスターの話で盛り上がりながら、今日もカフェ・フェリーチェは上々の売り上げを収めた。
「……ただいま……?」
業務終了後、帰宅すると、静まり返った家の中に伊織は首を傾げる。なんだか以前にもこうしたことがあったな、と若干デジャヴを感じていると、予想通りの光景に思わず笑みがこぼれた。
「……まったく、なにやってんだか」
ソファに、麻子とりんごが寄り添って眠っている。いつからそんな状態になっていたのか分からないが、いくら初夏とはいえ、何も掛けずに寝ていては風邪をひく。
軽く身体を揺すって起こせば、目を覚ました麻子が勢いよく起き上がる様子を見て、伊織はまたおかしそうに笑った。




