予想外のone side
「――では、明日から宜しく頼みますよ」
それを受けて一礼すると、伊織は店を後にした。カフェ・フェリーチェ、それがこの店の名前である。幸せを意味するそのカフェは、店内の雰囲気も従業員も、確かにそう感じられる空間を創り出しているように感じた。学校から近い距離にあるこのカフェは、しかし意外にも見つけにくい場所にあった。
即日採用を受けて、明日から研修に入ることになった。面接をしてくれたのは、カフェのマスターだった。端整な顔立ちの、まさに紳士的な老人。それが伊織のマスターに対する第一印象である。
実はこのカフェ、知る人ぞ知るといったもので、客足が多いわけではないらしい。伊織としては寧ろありがたいことではあるが。元々家族で経営していたようだが、嫁が産休を取る為に代わりにひとり、探していたのだという。従業員は現在マスターとその息子、そして伊織の他にバイトとして少し前から勤めているらしい、大学二年の女性。明日シフトが入っているようで、すぐに対面出来ることが分かった。
「ただいま……?」
外に出たついでに買い物をして帰ると、いつもやってくるはずのりんごの姿がない。それに首を傾げながら中に入ると、ソファのひじ掛けの上で丸くなっているのに気付いた。丁度日の当たる位置であることを思い出し、伊織はふっと笑みを浮かべる。
「……あ、起きた。おはよう、りんご。ただいま」
ビニール袋の擦れる音で目が覚めたらしい。首を持ち上げてこちらを見るりんごに、彼女は小さく笑った。
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カフェ・フェリーチェで働き始めてから数日。ひと通りの仕事を把握したところで、バイトを始めたことを麻子に告げれば、彼女は目を瞬かせた。
「え……ええええええ!?」
「……煩い」
しかしどうも衝撃的な話だったらしい。至近距離にもかかわらず大声で叫ばれ、伊織は思わず耳を塞いで顔を顰めた。
「なん……なんで!?え、どうしたの急に!?」
「ちょっと落ち着きなよ。……この前行ったケーキバイキングの店、気に入ったから」
「……あー、確かに、伊織ちゃんああいう雰囲気のところ好きだもんねえ」
言えば、納得したように麻子が頷いた。
学校自体、バイトをすることは禁止しているわけではない。現に既に新入生の中でもバイトをしている生徒は少なくなかった。
「おはよう、黒崎さん、佐野さん」
サブバッグが隣の机の上に置かれた音と、直後に降りてきた声に伊織と麻子が視線を向ける。相変わらず周囲の一部が喧しいが、入学して数日ずっとこの調子なのだ、流石に慣れてきた。
「……おはよう……山、崎?」
「日向くんだよ伊織ちゃん。おはよう」
「今日はまた随分と離れたね、ひと文字も掠ってない」
おかしそうに笑いながら言う楓に、麻子は苦笑を返す。伊織が苗字を間違えるのも、入学してから相変わらずのことである。楓の苗字もそうではあるが、基本的に麻子以外の名前をまともに覚えていなかった。流石に伊織も小さく謝ると、楓は気にしてないと笑いながら首を振った。
「それよりさ、教室来る前に職員室寄ったんだけど、小笠が体育祭の件で随分張り切った声あげてたんだ」
変わった話題に、気になる一言を聞いて麻子は首を傾げた。
「え、百合ちゃん適当が好きだったんじゃないの?」
「そうなんだけど、なんか“今年は勝ったら焼肉ね!”とか言ってたなあ」
「……要するに体育祭でどっかの担任と賭けてるってことでしょ」
「かもね」
そういえば体育の授業で六月の頭にやるらしい体育祭の話が出ていたことを思い出し、伊織が淡々と口にする。それを言えば、麻子も納得した。
「百合ちゃん、焼肉賭けてるんだ……なんか意外」
「まあ、あの人の場合、例外なんだろうけど」
どこかで聞いたような話に、思わず伊織は僅かに顔を引き攣らせた。
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その日は、バイトに入る時間が少し遅かった。家に一度帰るのも面倒であり、余ってしまった時間をどうしようかと思案して、伊織は図書室に行くことを決めた。そういえば、何だかんだで一度もまだ図書室には足を踏み入れていない。読書は好きだが、今まではずっと持参した本を自席で読み耽ることが多かったからだった。
図書室へ入ると、その広さに僅かに瞠目する。流石に蔵書量は途轍もないようだ。本の多さに内心で感動しつつ、一時間ほどで読み終えられるような本を探していく。色々と興味を惹くようなタイトルが並んでおり、暫くは図書室通いが放課後イベントになりそうだ、と考えながら、軽めの本を手に取った。
選んだのは、好きな作家のひとりの短編集。これならば、万が一読み終わらなくても、切りが悪くはならないだろう。本を選んだところで、次は席を探し始めた。何だかんだ、放課後の図書室は人が多い。
「(……あ)」
ふと、奥の方の席に見知った人物を見つけた。
「(……隣の席の……新田、だっけ)」
隣の席、ということは認識しているが、未だに名前は覚えられない。例の如く、伊織は間違えていた。
楓が本を読む光景はあまり目にしない。加えて、そんなイメージもない。しかし、もしかしたら本当は読書が好きなのかもしれない。だが、伊織にはそれが新鮮だった。静かに本を読み耽るその姿を暫く見、伊織は手近な席に着く。なんとなく、惹き込まれるような気がした。
「(いや……気のせいかな。まあ良いや、早く読もう)」
思考を切り替えて表紙をめくり、文章に視線を落とす。忽ち、彼女の意識は本の世界に引き込まれていった。




