声にならないyour heart
気付けば、下校時刻になっていた。立ち位置や小物の配置など、限界まで最終チェックを済ませると、外はもう完全に日が沈んでいた。
「伊織ちゃん」
ごみを纏めていると、片付けが終わったらしい麻子が声をかけてきた。その手を止めて振り返ると、彼女は形容しがたい表情を浮かべている。
「……どうしたの」
「伊織ちゃん……買い出し行ってから、何かあった?」
「…………」
その言葉に、僅かに伊織は目を細めた。
「……ここ最近が忙しかったから、色々考えてた。そしたら今までの疲れが一気にやって来た。……それだけ」
「確かに、伊織ちゃん随分引っ張りだこだったもんねえ」
「そういうこと。……ほら、あんた迎えは良いの?」
「あ、そういえばそうだった!」
慌てて携帯を開く麻子に、伊織は小さく笑う。相変わらず、いつもの麻子はどこか抜けている。
「それじゃ、また明日ね!頑張ろうね!」
「ん。また明日」
そのままバッグを掴んで教室を走り去っていく彼女に、伊織は軽く手を振り見送った。
「(……妙なところ鋭いくせに)」
ピンポイントで指摘してくるから、驚いたものだ。ひとつ息を吐いて、伊織はベランダへごみを運ぶ。これで一応作業は終了だ。完全に片付き、いつでも客を迎え入れられる準備の整った教室を見回して、伊織はぼんやりと、特に忙しかったこの数日間を振り返った。
「工具、返してきたよ」
「!……ん。じゃあ教室締めるから外出て」
誰もいなかった教室に、工具を返しに行っていた楓が戻ってきた。思考が現実に引き戻されて、伊織はベランダの鍵を閉めた。
「……黒崎さん」
静かな教室に、やたらと硬い声が響いた。それに目を瞬かせて、伊織は楓を振り返ろうとした時。
「何か、あった?」
言われたそれに、振り返るよりも先に瞠目した。それは、疑問というよりも、確認のような。不意に、夕方の“あれ”が脳裏に過った。
「……別に、何もないけど」
「……声、違う」
「…………」
指摘されて、伊織は黙り込んだ。そしてひとつ、気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
「なにも、ないよ」
いつもの、抑揚に欠けた口調でそう言うと、伊織はバッグを片手に楓の横を通り過ぎる。
「だから――」
「っ!?」
「何もない、って感じじゃ、ないんだけど」
しかしそれは叶うことなく、タイミング良く右腕を捕えられた。目を見開き、驚愕の表情を浮かべる。
「……しつこいよ」
「ごめん。でも、悪いけど今の君は放っておけない」
あまりにもはっきりと断言されて、伊織は顔を顰めた。麻子も何かに気付いて声をかけてきたほどだ、言うほど普通ではなかったのかもしれない。……それでも、話して聞かせる内容でもないし、何よりそのつもりなど、伊織にはなかった。
「気付いてないの?……腕、震えてる」
「!?」
そう言われ、伊織は今度こそ、言葉を失った。視線を自身の腕に向ければ、確かに、微かに震えていた。あの時を思い出したから、今更震えだしたのか。……否、もしかしたら、あの時から既に、そうだったのかもしれない。
「……少し前の、あの件」
ぽつり、呟くように楓が口を開いた。それに、伊織は楓に視線を向ける。あの件、と言われて思い出すのは、夏休み前に表向きは片付いた、あの騒動。
「あの時は、俺も色々と手を尽くして、なるべく黒崎さんに害がないようにしてた。あれは、俺が原因だから」
「…………」
「実際、階段でのこと以外は、病院に搬送されるような大怪我に至らなかっただけの牽制、出来たんだろうと思う。それでも、結果的に君に怪我をさせることが完全に防げなかったけれど」
そういえば、昔に遭った“それ”よりも、幾分か温いものであったように感じる。楓が事前に行動してくれていたから、その程度であったのだと知って、伊織は形容しがたい表情を浮かべた。確かに、原因である彼が行動を起こすのは正当だ。それに関して余計なことであるとは微塵も思わない。寧ろ助かったと言って良いことだ。だから、それで悔いられるのは違う。
「あの時協力するとまで言ったのに、きちんと守れなくてごめん。……でも、今度こそどんな形であれ、力になりたい。だから今は聞かないけど、見ていられないほどになったら、何が何でも聞き出すから」
「……そんなの、友達の域超えてるんじゃないの」
射抜かんばかりの視線に、伊織は狼狽した。そうして漸く発することが出来たのは、そんな言葉だった。それに楓は、苦笑を浮かべる。
「……そうかも、しれない」
「……じゃあ、なんでそこまで、私に構うわけ。そんなことして、あんたに何のメリットがあるって言うの」
「俺がその顔、見たくないだけ」
示されたそれに、伊織は怪訝な表情を浮かべる。指摘されたことが、良く分からない。そんな表情でいれば、楓は困ったような笑みを浮かべた。
「……佐野さんは、怒るかもしれないけど。ほら、今もしてる。……どうしようもなく泣きそうな、そんな表情」
「……い、み、分かんないんだけど」
「結構前から見て来てたから、分かるよ。それもこれも、全部……」
不意に、真剣な表情になった。月明かりに照らされたそれが酷く眩しくて、伊織は目を細める。……その先に続く言葉が、なんとなく予測出来てしまった。
「俺が、黒崎さんのこと――」
「……三年」
「……え……?」
遮って、伊織は呟いた。それを拾った楓は、目を瞬かせて彼女を見る。その表情からは、何の感情も読み取れなかった。
「三年。……あんたは、私に付き合えるの?」
「な、に……言って……」
「そんな何が起こるかもわからない未来でまで、確かなことなんか言えないのにさ」
「…………」
確証もない、不確かなそれ。確かに、と楓は何も言えなかった。言うに相応しい言葉が、見つからなかった。そんな楓の様子に、伊織は一度目を閉じて小さく息を吐く。
言ってしまえば、もうそこで全てが終わる。……折角麻子以外にも少しは気楽に話せるような相手が見つかったというのに、少し惜しい気もした。それでも、言わないわけにもいかない。
「――だから、もう私に付きまとわないでくれる」
今までにも、何度か言い放ってきたこの台詞。そういうことがないわけではなかったが、どうしても言わずにはいられなかった。
「(……最悪。明日から2日間は文化祭だっていうのに)」
文化祭、楽しみにしていなかったわけではないのに。
そんなことをぼんやりと思った直後、思わぬ一言が飛ばされた。
「……、嫌だ」
「――っ!?」
予想外の返答に、伊織は今までにないほど目を見開いた。弾かれたように楓を見れば、真剣な表情をしている。何も言えずにただ見つめていると、更に楓は続けた。
「そんな理由じゃ、納得出来ない。それに、俺は半端な気持ちで言ったわけでもない」
「……だから、何。あんたのこと、信じろっての。それこそ不確かでしかないっていうのに」
「それでも!」
崩れた表情が、更に伊織を驚かせた。……こんな表情、見たことがない。いつも何を考えているか分からない笑みを浮かべたり、稀に真剣な表情になったりはする。それから、困ったように笑うことも知っている。だから、それだけだと思った。それだけしか、出さないのだと思った。……だと、いうのに。
「それでも……!信じてもらえるくらい、やってみせる。――悪いけど俺、諦めが悪いんだ」
「……お試しで、なんて聞かないよ」
こんなに必死な表情をされて、尚も拒絶の言葉を放つことはこの上なく難しかった。不可能だ、そう感じた。
「そんなこと、言わないよ。……証明して見せるから。三年じゃ終わらせない。その先もずっと。黒崎さんに、認めさせるから。それで、黒崎さんも俺のことを好きにさせるから」
伊織はそれに、暫く黙り込んだ。そうまで言い切ってみせたのは、楓が初めてだったからなのかもしれない。……信じてみても、良いのだろうか。賭けてみても、良いのだろうか。
「……好きにすれば」
やっとの思いで紡いだ言葉は、それだった。




