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第7話 突撃!あきばスクランブル!

仲間達が三組に分かれて走り出したにもかかわらず。

 アンドリューは、その場で身じろぎもせず立っていた。

 足下には、先ほど一発でKOした黒服。

 そして、目の前に体格の良い長身の黒服の男がひとり、ポケットに両手を突っ込んで残っていた。

 アンドリューは目の前の黒服の男に――何故か楽しげな笑みを浮かべている男に向かって、肩をすくめて訊ねた。

「お前は追いかけないのか?」

「ここでお前達を足止めするのが、俺の仕事でね……それと」

 ポケットから男は両手を引き抜いた。

 十二層からなるケプラー素材を重ね合わせた防刃グローブを付けていたが、それは、総合格闘技で使うグラブのような、ナックルガードが付いているものだった。

 男は不敵な笑みを浮かべ、慣れた感じで拳を作る――その姿をみて、アンドリューの眉がぴくんと上がった。

 そして、とんとんと軽くステップを踏みながらアンドリューに向かって言った。


「俺も、ボクシングをやっているんだよ」


 長身を少しかがめるように、左を前にして斜に構える。右腕は顎をガードするように折り曲げ、左腕は脱力した感じでだらんと下げる。

 アンドリューはヒュウとお行儀悪く口笛を吹くと、そんな構えをとった黒服の男をうれしそうに見た。

「ヒットマンスタイルか」

 ヒットマンスタイル――別名『デトロイトスタイル』とも言う、アウトボクシングのスタイルである。

 男はアンドリューの呟きに、ニヤリと笑うことで答えに代えた。

 アンドリューは拳をグッと握り込むと、背を丸めると言って良いほどに身をかがめて、両腕を曲げて拳と腕で顔の下半分をガッチリガードする。

 身体を左右に振ってリズムを取るアンドリューを、黒服の男は相変わらずのニヤニヤ笑いで見た。

「ピーカブーか……良い相手だ」

 ピーカブースタイル――アメリカヘビー級における伝説のチャンピオン、マイク・タイソンがとったインファイトボクサーのスタイルである。

 一発KOの恐れのある顔面をガッチリガードし――ボディは自分のタフネスさを信じて、多少貰うのを覚悟しつつ――身体を左右に振りながら相手の内懐に突っ込んでいく、ある意味男っぽい戦術だ。

 アンドリューが、フットワークを駆使して男に近づこうとする――その刹那、脱力したまま左右にぶらぶらさせていた左腕がまるで鞭のように鋭く、そして素早く唸ってアンドリューを襲った。ジャブ、と言うよりフックの様な軌道を描いてアンドリューのこめかみ……に当る直前にアンドリューは男のジャブをガードした。

 フリッカージャブ……鞭のように腕全体をしならせてスナップを効かせ、変則的な軌道で相手の顔面を襲う、ヒットマンスタイルの特徴的なジャブである。

 体重が乗せにくく、オーソドックスなジャブに比べるとパンチが軽くなるが、とにかく出が早く軌道も読みにくいため、マトモに貰いやすい。

(お前さんはピーカブースタイルからの、典型的インファイターだからな。俺にはかみ合う相手だ)

 心中ほくそ笑んでいる黒服の男の思惑通り、下から上に打ち上げるように飛んでくるジャブの連打を避けるのに精一杯で、アンドリューは男の懐に入れないでいた。

 インファイターであるアンドリューとしては、何とかして懐に飛び込みたい。しかし、下手に突っ込むととんでもない早さのジャブがカウンターで飛んでくる。

 一発一発はスピード重視の軽いジャブであるが、それだってタイミングがあったカウンターで入れば、一発KOすらあり得る怖いパンチ。

 面白いくらいに男が放つフリッカージャブに、アンドリューは翻弄されていた。

 『かみ合う相手』と言っていたが、特に男がインファイターとやるのが得意なのかも知れなかった。

(……くそっ)

 じれたように前進し、ジャブで迎撃され間合いを放す……この繰り返し。

 アンドリューのピーカブーは密着するくらいの所まで近づくための構えであるので、この状況は今ひとつ望ましくなく、表情に焦りが浮かんでくる。黒服の男は、そんなアンドリューを見てニヤリと笑った。

(もっと踏み込んでこい。そしたら――カウンターで仕留めてやる)

 デトロイトスタイルの怖さは、左のフリッカージャブに目が慣れたころ、突然飛んでくる右ストレートである。

 フリッカージャブの連打を嫌った相手が、多少強引に間合いを詰めるべく突っ込んでくるところに、想定外の一撃が入る。

 アンドリューはインファイトボクサーであるが故に、そんなヒットマンスタイルの怖さを熟知している。

 だが――それ故に、対処法も研究していた。

(……行ってみっか!)

 キュキュ、と小気味よくゴム底を石畳で鳴らして、頭を左右に振りながら、アンドリューは男めがけて突っ込んでいった。

 そして、間合いが詰まったところで男はアンドリューのボディにジャブを入れる。アンドリューもこれは嫌がったのだろうか、ガードするように肘をボディに下げる。

(よし、貰ったっ!)

 その瞬間こそが、黒服の男が待ちわびた瞬間……貝のようにガッチリ顔面をガードしていた腕が、下がる瞬間だった。

 顎をガードするため、ずっと折り曲げていた右腕で、体重の乗ったストレートを、ガードの隙間にねじ込むように放った。

 そして。

(――よし!)

 その一撃こそが、アンドリューが誘い、そして待っていた一撃だった。

 ぐいっと、思いっきり身を左斜め下に沈める――ダッキングをして、男の放ったフルスイングの右ストレートをかわしてみせた。

 風の唸り声が聞こえるような強烈な一撃を躱された結果、相手の右脇のボディはがら空きになる。

 そして、そこを見逃すワケもなく……

「ふんっ!」

「ぐっ!?」

 アンドリュー、低い姿勢からの渾身のリバーブローを炸裂させた。

 人体の急所である肝臓に、アンドリューの左拳が突き刺さる。

 そのままウェートを右半身にシフトして、右腕を振りかぶりながら、ガードが開いているみぞおちに狙いをつけた。

(くっ……!)

 男は、ほぼ本能のままに下げた左腕を曲げて、ボディをガードする。

 そこに……

「ふっ!」

「ガッ!?」

 思いっきり低い位置から、一気に拳を突き上げるような右フックが、男の顎を打ち抜いた。

 ガゼルパンチ――かがめた身体を思いっきり伸ばしながら放つ、フックとアッパーの中間のような軌道を描くブロー。

 それはかなりの破壊力で、男の意識が一瞬飛んだ。

(……くそぉ!)

 しかし……流石ボクサーである。飛びかけた意識を根性だけで繋いで、ダウンするのを防いでみせる。

 ただ意識はつながったが、身体がまるで動かせない――そんな瞬間。

 アンドリューが、ピーカプーの体勢のまま、右へ左へ……頭を8の字に振るようにウィービングを始めた。

 左右への高速ウェートシフトを繰り返して、勢いをつけるアンドリューを見て。

(動け、からだ……うごいてくれ!)

 黒服の男は必死で、意識を身体に繋ごうと試みる。

 そこで、アンドリューがひときわ大きく身体を振った。

(あれは……っ!)

 瞠目する男に、渾身の力を込めたアンドリューの右フックが炸裂する。

 そして、振り子のように反対側にウェイトを乗せたアンドリューが、体重をたっぷり乗せた勢いのある左フックを連打で入れる。

 デンプシーロール。

 左右のウィービング――上体の動きで勢いをつけて、体重の乗ったフックを連続で叩きつける。

 元世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーが編み出した、アメリカボクシング界における、いにしえの必殺フィニッシュブローである。

(…………)

 アンドリューが放った、何発めかの右フックで、男の意識は完全に切れた。

 そして、ただ本能だけで立っている男のこめかみに……

「……っっぉおりゃあァァっ!!」

 雄叫びと共に、渾身の左フックが炸裂し、黒服の男は文字通り吹っ飛んだ。

 殴り飛ばれた勢いのまま、歩道脇のツツジの植え込みにめり込むように倒れ込む。


 名誉のために言うが、黒服の男は決して弱くなかった。

 が、惜しむらくは――彼はオタクでは無かった。

 もし、彼がオタクならば……きっとボクシング漫画を読んでいたであろうアンドリューが、両手をだらんと下げてクロスカウンターを狙わなかった時点で、次に警戒すべきはデンプシーロールだと気がついたかもしれない。

 だが、そんな発想がない以上、そこに気がつくこともなく。

『リバーブロー→ガゼルパンチ→デンプシーロール』

 という、とんでもない威力の三段ブローを食らう羽目になってしまったのである。


 アンドリューは、茂みの中から黒服の男を引っ張り出し、呼吸や脈拍を確認してからバンデージ代わりに使っていたハンカチで手足を縛り上げる。

 そして足下に、縛られて気絶している二人の男達を転がして。

(まあ……とりあえず、取引材料にはなるか)

 と、心中で呟き。車が走り去った方向を見て、誰にともなく呟いた。

「あとは、うまくやれよ……」

 アンドリューは遙かな青空を見上げたのだった。


 一方、体育館の中に逃げたジョンスとシュエランだったが。

「まったく……走らせやがって」

 と、毒づいている黒服の男に、今まさに追い詰められたところであった。

 こちらの男は、中肉中背であるが実に俊敏なフットワークの持ち主であり、割と足が速い部類に入るジョンスも、シュエランをかばいながら逃げ切ることはできなかったと見える。

 ジョンスは男のボヤキに対して、器用に左肩だけをすくめてみせた。

「別について来なくても良かったのに」

「そうはいかない。仕事だからな」

 ふう、と。

 深く呼吸をして、息を整えた男は落ち着いた表情でジョンスを見た。

「十分間お前達を足止めする――それができれば、別に危害を加える気はない」

 言いながら、男は静かに近づいてきた。ジョンスはその様子をじっと見ている。

 5メーターくらいの間を空けて、ジョンスと男は向き合った。ジョンスの後ろに、無言で不安げな表情をしているシュエランがたたずむ。

 時計の分針が、音もなく一目盛り進んだ。

「さあ、さっきの場所に戻ろうか」

 促す男に、ジョンスは柔らかい微笑みを見せた。

 それは、暖かみすら感じる、おだやかさを秘めていた。

 だが……ジョンスの口から出た言葉は。

「いやです」

 と、男の眉根に皺を寄せるのに足る内容であった。

「僕はあなた方の雇い主の言い分とやり方が、どうにも納得がいきません」

 なおも微笑みを浮かべ、後ろで目を丸くしているシュエランをかばうようにジョンスは立っていた。

 黙って――少し据わった目で自分を見る男に向かい、ジョンスは堂々とした口調で、さわやかな笑顔のままこう言った。

「ローハンを連れ戻すために……僕たちはあなたの言うことを聞くわけにいかない」

 そうか、と言い置いて。

 黒服の男は、突然上着を脱ぎ、次いでシャツも脱いで上半身裸になった。

 あいやっ!? と言うシュエランの恥じらい混じりな驚きの声を背に、ジョンスは目を細めて男を見る。

 隆々と盛り上がる筋肉と、尋常ではない拳タコ、そしていくつかの古傷の痕――それらが、男が何らかの拳法の使い手であることを、無言で、だが雄弁に語っていた。

 それに対して。

 ジョンスはまず上着を脱ぎ、トートバッグと一緒に

「すまない、持ってくれないか?」

 と、シュエランに渡した。

 わかったヨ、と。受け取るシュエランの目の前で、ジョンスはおもむろにセータを脱ぎ去った。

「あいやあっ!?」

 いきなりの不意打ちに、赤面して驚きの声を上げるシュエランをよそに、ジョンスも上半身裸で男と対峙した。

 見事に6パックに割れた腹筋、絞り抜かれた『スジ筋』の見事な肉体が披露された。方向性は違うが鍛え抜かれた肉体を見て、黒服の男がほお、と関心げな声を上げた。


「なんで、脱ぐノー!?」


 そんなセーターを受け取りながらのシュエランの大声に、ジョンスはにっこりと微笑んで見せる。

「トレーニングしているんだ。歌もアクションも出来るようにしないといけないからね」

「理由になってないダカラ!!」

 顔を真っ赤にしたシュエランの抗議を、ジョンスはまるっと無視して男を睨み付ける。

「シュエラン……危ないから、離れて」

「わ、わかったヨ……」

 まだ、何か言いたげであったが。

 張り詰めた空気を感じたのだろう。シュエランは、ジョンスの荷物と服をもって、とととっと、数メーター後退した。


 それが、合図になった。


「ハアッ!!」

 気合い一声、男がジョンスめがけて走り込んできた。

 走り込むと言っても、歩数で言えば三、四歩。感覚としては一瞬のこと。

 男はそのままジョンスのみぞおちのあたりをめがけて、渾身の跳び蹴りを見舞った。

 それはまるで水が流れる様にスムーズな動きで、かなりのレベルの武術のスキルを持っていることが推察される。

 その跳び蹴りが狙い通りに命中した――と思った瞬間、ジョンスはステップを踏むように軽く後ろに飛びずさった。

 いや、軽くジャンプしたように見えたジョンスだったが、次の瞬間にワイヤーアクションで三、四メーター上空に高々と舞い上がる。そして、少し離れた場所に柔らかく着地したジョンスを見て、男は少しうれしそうに笑った。

「……やるな」

「ありがとう」

 余裕の笑みを浮かべたジョンスを見て、男はさらに構えを固めた。

 たんたんたん、と小刻みにステップを刻む男の足音が微かに響く。

 ジョンスは首にかけていたオレンジ色のマフラーを取り、ふわっと男に向かって投げた。

 それはまるで羅稜――上等な薄絹の如く、ゆっくりと宙に舞った。

 そのマフラーに、男の視線が奪われた一瞬――!

 ジョンスは地面すれすれの所を飛ぶように、ワイヤーアクションで男との間合いを一気に詰めた。

 そのまま着地せずに、風車のように回転しながら黒服に蹴りを放つ。とっさにガードする男に、ジョンスは二撃、三撃と連打を加える。

 さながら韓国アクション映画の名作『火山嵩』の如きジョンスの苛烈な攻撃を、さしもの肉体派黒服も防ぎきることはできず。

 ジョンスの何発目かの蹴りが、男の肝臓の辺りに突き刺さった。

「ぐはっ!?」

 男は派手な砂煙を上げて、地面に倒れ込み……そして、そのまま動かなくなった。

 倒れ込んだ男の上に、放り上げたマフラーが音もなく落ちる。

 ふう、と。安堵のため息を吐いたジョンスは、男を見下ろしながら軽く髪をかき上げた。

 その横に、おそるおそる近づいてきたシュエラン。最前からの疑問を口にする。


「……『ワイヤーアクション』って、どういうコト?」


 怪訝そうなシュエランに向かって、ジョンスはにっこりと微笑みを見せた。

「勝てたのは君のおかげだ。感謝してるよ」

「ウチ、何もしてないヨ!!」

 そんなシュエランの言葉に特段のリアクションを示さず、ジョンスは自分のマフラーで男を縛り上げる。

 困惑の表情でたたずむシュエランから受け取ったセーターと上着を着て、ジョンスは遠くを見るような目線になる。

 あきれかえった様に無言でたたずむシュエランに豆乳を渡して、ジョンスは自分でも豆乳のパックを手に取りながら誰にともなくこう言った。

「あとは、うまくやってくれよ……」

 春の日差しが柔らかく辺りを照らし、何事も無かったように穏やかな空気を漂わせる、そんな昼下がり。

 さわやかに微笑むジョンスと、終始得心がいかなげなシュエランの髪を、さわやかな春風が揺らすのだった。


 そんな中、校舎内めがけて走ったエリーズとリューシャは、ピンチに陥っていた。

「おとなしくしてくれ。我々は10分間、君たちを足止めするだけで良いんだ」

 と言う、前方に立ちはだかる黒服の男の手には、『く』の字型に湾曲した内反りの刀身を持つ、刃渡り二十数センチのナイフが握られていた。

 ククリ――『グルカナイフ』とも呼ばれるこのナイフは、男がネパールの山岳民族『グルカ族』出身者で構成される戦闘集団『グルカ兵』である証である。

 グルカ兵は勇敢さと精強さについて世界でも有数であり、第一次インド独立戦争や第二次大戦において、その勇名を轟かせている。

 また近年では40人の武装強盗団に乗っ取られた車内で、たまたま乗り合わせたグルカ兵の隣に座っていた少女が強盗団に暴行されそうになった際に、そのグルカ兵が複数の銃器や武器で武装していた強盗団に腰のククリ一本で立ち向かい――強盗団のうち3人を殺傷、8人を負傷させ、残りの強盗団を列車からたたき出し、見事に少女を助け出したと言う、ヒーローアクションそのものの大活躍をした事が話題になった。

 そんな戦闘民族であるグルカの男は、ククリの背でとんとんと自分の肩を叩きながら

「だから、君たちを不必要に傷つける必要はない。平和に事が済むなら、それでいい」

「そんな物騒なモノを構えながら、平和を語っても説得力ないわね」

 そういいながら、エリーズはポートフォリオの中を探り、おもむろに何かを引っ張り出した。


「『目には目を、刃には刃を』だったかしら?」


 ずらり、と。

 ポートフォリオから取り出したのは、刃渡り1メーター弱の剣。

 フランベルジェ――『炎の剣』と呼ばれる、波打つような刃を持つ片手持ちの両刃の剣は、その見た目の美しさと裏腹に大変恐ろしいもので。波打つ刃で切られた――というより引き裂かれた傷口は複雑でふさがりにくく、中世のころはその傷口から破傷風などにかかって死んでしまうと言う『死より苦痛を与える剣』として知られていた。

 目の前の文学少女が、よもやそんなモノを持っているとは知らず――というより、それ以前の問題に瞠目して、グルカの男はエリーズに言った。

「どこから取り出した!?そのポートフォリオよりも長いだろう、それは!」

「それは乙女の秘密☆」

 レディの持ち物を詮索するのはマナー違反よ、とたしなめながら。

 ひゅん、と鋭い風切り音一発。エリーズはフェンシングの構えをとった。

 その構えには全くの隙が見当たらず、男の顔色がみるみる青くなる。


 まあ、考えて見れば。

 どう見ても、二人は普通の女学生である。ククリを――刃渡り30センチの巨大なナイフをちらつかせればおとなしくなる計算だった。無論、自分がグルカで、グルカがククリを構えている意味を知っていれば、恐ろしさのあまり全面降伏もありえる事態だった。

 だが。

 降伏どころか、女学生のひとりが自分のククリに対抗して中世のパラディンが愛用していたような、刃渡り1メーターはあろうかと言う長剣を、横65センチ、縦47センチ、奥行き4センチのポートフォリオから――物理法則とかいろいろなモノを無視する魔術とか秘術とかをもって――取り出し、自分に立ち向かってくるという予想外の事態に、男は大いに困惑した。


 無論、男もグルカである。目の前のフランベルジェを持った女学生を警戒こそすれ、恐れることはない。

 だが、ククリでフランベルジェの相手をするには、到底手加減などできないだろう。

(ここで、この娘に怪我を負わせてしまうと、後々面倒なことにならないか?)

 ――これを、恐れた。


(どうしたものか……)

 と、エリーズから目線をそらした男の目の前に――リューシャの姿が映った。

(――あの子を人質にするか)

 目の前で、フランベルジェを構えて軽やかなステップを刻んでいる気の強そうなフランス女に比べて、人形のようにおしとやかで――先ほどから一言も口をきかないほど――おっとりとしている彼女はとても与しやすく見えた。

 そして、彼は目標を変更した。

 エリーズを牽制しながら回り込むようにダッシュして、グルカの男はリューシャに自慢のククリを突きつけようと試みる。エリーズも油断したのか虚を突かれたのか、まんまと男がリューシャの前まで走り寄るのを許してしまった。

「……卑怯者!」

 男の考えが読めたのだろう、ククリに対抗する術を持たないであろうリューシャに向かうグルカの男に、エリーズは鋭い声を浴びせた。その一喝に、まるで動じた様子も見せずに。

「動かないで貰おうか」

 と、グルカの男はククリをリューシャの首筋に突きつけて、エリーズの方を見た。

 このククリは、第二次大戦の時に彼の祖父が日本軍と戦ったときに使ったもので、よく見ると無数の刃こぼれや損傷が見える。そんな、幾人もの血を吸った使い込まれたククリを男がリューシャの頸動脈のあたりに突きつけた――その時。

「……えい、なの」

 ゆっくりと、だが無駄のない動きで、リューシャは相手の右手首――彼女の首に突きつけたククリを持っている方だ――を左手で掴み、肘に手刀を叩き込んで強引に腕を曲げさせた。

 そのまま、手首を掴んだ左手と二の腕を掴んだ右手にぐいっと力を入れ、簡単に相手の右腕を背後にひねり上げ肘関節と肩関節を同時に決めてしまう。

「があああああ!」

 あまりの苦痛に、男の口から苦悶の叫びが漏れた。


 それはロシアの軍隊格闘術――コマンドサンボの基本ムーブであった。

 技の名前は『スタンディング・アームロック』。

 格闘技フリークには『ヴォルク・ハンのアレ』、コミック好きには『ゴローちゃんが洋食屋のマスターに決めたアレ』と言えば、おおよそのイメージが沸くかもしれない。

 完全に油断をしていたグルカの男をアームロックのまま地面に押さえつけたリューシャに、エリーズは惜しみない賛辞を送る。

「すごいわね!」

「そんなことないわ~。レディのたしなみなのよ……」

 消え入りそうな声で、そう言うと、リューシャは恥ずかしそうな表情で赤面する。

 まあ、その下では『お、折れるぅ~~~~』と、なおも男が呻いているわけであるが。

 エリーズは――いかなる手妻をもってしてか不明だが――ポートフォリオにフランベルジェをしまいながら、リューシャに満面の笑顔を見せた。

「いずれにしても、私だけじゃあのまま手詰まりだったわ。ありがとう」

 そして、ポートフォリオから取り出したナイロンの紐で、倒れているグルカの男を縛り上げる。

 ご丁寧に、腰の後ろに付いている鞘に、地面に落ちていたククリを納めてストッパーまでかけるのも忘れない。

 完全に男を無力化してから、エリーズとリューシャは、どちらとも無く安堵のため息をつく。


「あとは、うまくやってくれるかしら」

「きっと大丈夫なのよ……」


 それは、誰に向けての考察なのか。

 そんなことを考えながら、二人は遠くの空を眺めたのだった。


 そして、いかにも運動神経がなさそうな最後の一組――みつばところねのペアは、案の定、追いかけてきた黒服の男に追いつかれて、先に回り込まれてしまっていた。

「すまないな、足止めをしろと言うご命令だから。大人しく元のところに戻ってくれないか?」

「冗談じゃないわ、そこをどいて! ローハンをあんな乱暴なやりかたで連れて行くなんて、許さない!」

 憤慨の表情のまま、無理矢理脇を抜けようとするみつばだったが、無造作に男の腕で払われて尻餅をついた。

「なにするの!?」

 みつばを助け起こしながら、ころねは男に文句を言う。

 だが、別段動じた様子もなく、極めて冷静に二人に言い聞かせるよう話した。

「動かなければ、怪我もしない。利口にしてくれ。お望みとあらば『Please』を付けても良い」

 どうでも良さそうに呟く黒服に――カチンと来たのだろう――瞬時に立ち上がったみつばは、制止するように肩に回されたころねの手を払いのけて、勢いよく黒服に食ってかかった。

「ローハンは……子供のころの夢を叶えたいんだって! ロボットを作りたいんだって! 秋葉原にいたいんだって、言ってた!」

 そんな必死の訴えに、男の眉が少し動く。

 みつばは男の脇を通ろうと暴れながら、至近距離から大声で叫んだ。

「それをこんな一方的なやりかたで連れ帰るなんて……とても見過ごせないよ! いいから通して!!」

 それを黙って聞いていた黒服の男だったが、ややあって、諦めたようなため息を吐く。

「仕方ないな……」

 ぐい、と。

 男は、自分の上着を掴んでいたみつばの腕を捻り上げた。

「きゃ!」

 肘と手首から電流のように走る痛みに、みつばは思わず顔をしかめる。

「ちょっと、乱暴はやめて!」

 そう言ったころねに向かって、男はみつばを無造作に投げ渡した。

 軽く放ったように見えたが、思ったより勢いがあったものか、ころねはみつばを受け止めきれず、その場で尻餅をついて倒れてしまう。

「これ以上言うことを聞かないのなら、痛い目にあってもらうしかないけれど……どうするんだ?」

 冷ややかな目で、二人を見下ろしながら男が歩み寄ってくる。

 決して大柄なわけでも無いが、やはり格闘術の心得があるのだろう。運動の素養がなさそうな二人に引けを取るわけもない。

 絶望と悲しみがないまぜになったような表情で、立ち上がることもできないまま、みつばは黒服の男の顔を見た。

 ようやく諦めてくれたか、と。

 少し安堵の表情を、男は浮かべる。

 そこに――


「オラァ!!」


 まったく突然に、渾身の力で背中を蹴られて、黒服の男は吹っ飛んだ。

 なんとか踏ん張って、倒れることは阻止した男が、驚愕と困惑の表情で振り返る。


「お前、なにしてくれちゃってンのよ?」

「さっきから見てれば、気分悪いわー」


 そこには、みつばやころねに比べると、遙かにケンカ慣れしていそうな二人の男達が立っていた。

 言葉通りに不機嫌な表情で、みつばたちと男の間に割ってはいる。

「あ、あなたたち……」

「あの時の……!」

 あまりに予想外の人物の登場に、みつばところねの目が丸く見開かれる。

 二人の男達――いつぞやのヤンキーのお兄ちゃん達は、なおも不機嫌そうな表情でみつば達を見る。

「その兄ちゃん、ムカツクわ。何様よ?」

 なんと説明したらよいものやら……?

 困惑といまだ現状を把握しきれないまま、ほおけたようにへたり込んでいるみつば。

 もう一人のヤンキーが、黒服の男の向こうを顎で指した。

「さっき、そこでデカイ車にひかれそうになってヨ――なんか、カンケーあンだべ?」

 その言葉に反応したころねが、咄嗟に答える。

「その車に、ローハンが……連れ去られた子が乗ってるの!」

「私たち、その子を連れ戻したいんだけど……その人が」

 みなまで言うな、と。

 ヤンキーの一人が、やや力尽くで地面に座り込んでいた二人を起こし上げた。

「追いかけろ追いかけろ! まだ遠くまで行ってねぇべや」

 気がつくと――多分、男が蹴り飛ばされたせいだろう――充分通れるだけの空間が、行く手に開いていた。

 それに気がついた黒服の男が、慌てて動き出す。

「待て、ここから行かせるワケには……」

「ッせェよ!」

 どん!

 思いっきり胸を突き飛ばされて、格闘技の心得があるはずの男がよろける。

 ヤンキー達は二人とも体格が良く、見るからにケンカが強そうである。

(私、こんな人たちに向かって文句を言っちゃったんだ……)

 あらためて、自分がしでかした事の無謀さに顔を青ざめるみつばを余所に。

 黒服を突き飛ばしたヤンキーは、今までの不機嫌そうな表情を崩し、ニヤリと笑いながら黒服の男に言った。


「お前を止めないと、またあの子に説教されっからよ」


 思いもよらぬ一言に、みつばところねはフリーズする。

 その二人を助け起こした、もう一人のヤンキーが、少しバツが悪そうな口調で語り出す。

「始業式の日にお前ェに説教されたベ? その後で、なんか気になって街を歩いてみたのよ」

 フリーズしたままの二人に、ヤンキー兄ちゃんは話す言葉を探しながら、訥々と話し続ける。

「確かに、オタクの奴らは多いけど……よく見ると、結構楽しそうなトコあンだよな」

 ゲームセンターはもちろん、カラオケ、ダーツバー……飲み屋も結構ある、そんなことを語った後。

 その兄ちゃんは、はにかんだような笑顔を初めて見せた。

「ガッコーある街なのによ。決めつけてばっかで、今までロクすっぽ見てなかったンだな」

 そこまで話したとき、黒服の男の前に立つ――こちらの方が、ガタイが良い――ヤンキーの兄ちゃんが、ぼそっと言った。

「行けって」

 黒服の男を――おそらく、プロのボディガードを二人で食い止める。そんな意思を込めた一言だった。

 みつばところねは、一礼した。

「ありがとう……」

「じゃあ、行くね」

 へっ、と。

 笑いながら、ヤンキーの兄ちゃん達はみつばの顔を見た。

「今度、遊びに行くべ」

「面白いとこ、教えてくれ」

 それを聞いて、みつばは満面の笑みで答えた。

「うん、わかった!」

「いこう、みつば!」

 あとは、振り返らず。

 一目散に、この場を走り去った。

 そこに慌てた口調の、黒服の男の声が響く

「この……待て!」

「この、じゃねェんだ、タコ!」

 最後に視線をよぎったのは、ヤンキーのふたりが黒服の男の前を壁のように遮っているところ。

 そして。

 建物の角を曲がったみつばの耳に――どちらかは分からないが、ヤンキーの怒号が聞こえた。


「アキバ、ナメんな、コラァ!!」


 その声を背に、必死で走って数分。

 息を切らせながら、ふたりは電子工作研究会の部室――というか、作業用のバラック――に到着した。

 上がった息を整えるのももどかしく、ころねはPCと制御機械をいくつか立ち上げる。

「ころねが、ローハンを連れ戻してくるよ」

 ダダダダダダ。

 マシンガンもかくやと言う勢いでキーボードでコマンドを入力しながら、ころねはみつばを見ずに言う。

「その時、ここに戻るから……みつばは、ここで待ってて」

 ――ッターン!

 最後にエンターキーを押して、何かのスクリプトを実行したころねは、いかにも手作り感の漂う制御パネル――おそらくアーケードゲーム筐体の流用品――をみつばに向かって指し示した。

「そして、ころねが合図したらこのボタンを押してこのレバーを引いて」

 ボタンには『起動』、レバーには『解除』と。なんとなしに味のある書体で書かれたパネルが付いている。

 ボタンを押して、レバー……とメモっているみつばを余所に、ころねは巨大なブルーシートを一挙動でばっさあ、とはぎ取った。

「そしたら、アレが動くから」

 ころねが説明した『アレ』をみて、みつばは思わず絶句した。

「いつ、こんなの作ったの……」

 想像力の遙か外にある『アレ』を、信じられないように見るみつばに向かって

「まだまだ、完成には遠いけどねえ」

 という、答えにならない答えをころねは返した。

 それから、もう一つ立ち上げた装置の設定を速攻で行いながら、ころねは説明を続ける。

「操作はセミオートだから、動いた後は自律補正しながら動作すると思う」

 それを聞いて、みつばはうんうん、と頷いた。

(こんなもの……自分で全部動かせって言われても困る……)

 まだ、圧倒された感じで突っ立っているみつばを余所に、ころねは自転車――には到底見えないマシンにまたがった。


 ころねの開発しているこのマシンなら――きっと、ロールスロイスに追いつくことが出来る。

 これこそが、打ち合わせもなにも無しで、皆が陽動役に徹した理由であった。


 ころねはトグル式のスイッチをいくつか指ではじいて、メインシステムを起動した。バイクならばメーターベゼルが存在しているであろう箇所に付いた、ナビゲーションシステム兼コントロールパネルがシステム起動完了を告げる。

「じゃあ、ローハンつれて帰ってくるからね」

「気をつけて、ころね!」

「うん、ありがと――危ないから離れてて、みつば」

 みつばが言われたとおり数メーター後ずさるのを確認してから、ころねは妙にクラシカルなデザインのゴーグルをかけ、スイッチをオンにする。一瞬のラグの後、Buletoothでメインシステムと接続されたゴーグルが、HUDよろしくゴーグル内部に情報を投影する。

 電圧正常、充電状態100%、冷却剤満タン……

 全てのチェック項目が緑色の文字で表示されているのを確認して、ころねは満足げに大きく頷いた。


「オール・グリーン! ――『ころね号メガドライブ』、いきまーす!」


 ドライアイスの煙がわき上がり、自転車を乗せた超伝導リニアカタパルトがころねの声に反応して作動する。

 そして、次の瞬間。自律走行可能なハイパワー電動自転車――『ころね号メガドライブ』は、文字通りはじき飛ぶような勢いで、電子工作研究会の部室を飛び出した。

 冷却媒体であるドライアイスがもうもうと立ちこめる煙の中。

 もう、点のように小さくなったころねをみつばは見送った。

「大丈夫、絶対にうまくいくから」

 自分に言い聞かせるように、独白した後で、みつばはバラックの中を振り返る。

 自分だけ残された部室の中で、ごんごんと謎の作動音を発している機械と、用途すら判然としない機械が、見方も不明なインジケーターを点滅させている。

「――大丈夫、だよね?」

 ひとりごとの自信レベルを、若干低下させながら。

 みつばは、全てうまくいきますようにと、広がる青い空に向かって祈ったのだった。


 そして、カメラはロールスロイス・ファントム・ドロップヘッドクーペに切り替わる。

 深紅のファントム・ドロップヘッドクーペは、中央通りを右折。靖国通りを九段方面へ曲がった。

 道は決して混んでいるわけではないが、日中はそれなりの交通量をキープする主要幹線であり、信号とちょっとした通行量過多のボトルネックによるプチ渋滞とで、ストップ&ゴーを強いられていた。

 インドと日本の時差は三時間半で深刻な時差ぼけが起こるほどでもない。

 だが、のどかな陽気のせいだろうか、ローハンの父親は大きなアクビをした。

 その時、その横に座っているローハンが

「う、うん……」

 と、覚醒の呻きを漏らした。

 ややあって、うっすらと目を開け……日差しのまぶしさに、思わず眉をしかめる。

「ここは……!?」

 起きたばかりで、いまひとつ状況が把握出来ない。

 ようやく焦点が合ってきた瞳で、ローハンはあたりを見回した。


 ――どうやら、自分は車に乗っているらしい。

   どうやら、大きな通りを走っているらしい。

   どうやら、今の景色は色々な店が並んでいるところ――犬のマークのドラッグストア、大きなスキー用品店……

   どうやら……神保町のあたりらしい……!


「父さん!?」

「目を覚ましたか、ローハン?」

 自分の横に、父が座っているのを把握して、ローハンは目を見開いた。

 そして、徐々に記憶が整理されてくる――突然、黒服の男達に囲まれて、薬品をかがされて意識を失ったことを。

「何故、こんなことを……」

「力尽くで、と言ったはずだ」

 父親の議論の余地を含ませない即答に、ローハンは次の言葉を失ってしまう。

 だが、気持ちを切り替えるべく頭を数回振り、父親に向かってローハンは強い口調で訴えた。

「車を止めてください! 帰ります!」

「だから、帰っているだろう――ムンバイに」

 そんな訴えにもまったく動じない父親に、ローハンの気持ちが萎えそうになる。

 みつばの『逆切れ超説教モード』も聞き流すメンタルの持ち主。

 そんな相手に――それも子供のころから、従っている相手に必死で訴え、それをにべもなく却下される。

 ローハンの心は、まさに折れかかっていた。父親の顔を――冷酷な瞳から無意識に目線をそらそうと、きつく瞳を閉じる。


 だが。

 目を閉じたローハンの脳裏に浮ぶのは――秋葉原の仲間達だった。

『よお、元気か!?』

 どしっと、背中をどついた陽気な友人に、ローハンは脳裏で思わず言った。

(――なんで、真っ先にキミなんだ!?)

 父親とは違う意味で、各所が色々と折れそうになりながら、ピンクの髪の大男の重圧を押しのけた先にいたのは。

『やっほー! ローハン、見てみて! 新開発!!』

 と、謎のメカを片手に満面の笑顔を見せるころねだった。

(次はキミなのか――まったく、騒がしいことこの上ないな、僕の秋葉原は)

『なんで? 賑やかなのは、楽しいよ!』

(……まったく、考え事をするのはもう少し静かな方がいいんだ)

「ろーはん!」

(だから、静かにしてくれ……)

「ローハン!!」

(……あれ?)


 そこはかとない違和感を感じ、ローハンは目を開ける。

 まだ、睡眠薬の効き目が残っていたのか、うとうととしてしまったようだ。

 そして、次に聞こえてきたこの声は……


「ロォーハァーン!!」


 この――ころねの叫び声は、ローハンを一気に覚醒させるインパクトを持っていた。

 一挙動で声の聞こえてきた方を振り向くと、靖国通りの混雑の中、車をジグザグにかわしながら、自転車――らしき物が、自転車にあるまじき速度で迫ってくるのが見えた。

 そして、ころねの方でもローハンが目を覚まして振り返っているのを確認したのだろう。

 それはもう、ちぎれんばかりに手をブンブン振ってから、ころねは立ち漕ぎの体勢になり

「こっちにきて!」

 と、手をさしのべた。

「なんだ、あれは……?」

 怪訝な顔で、一瞬現状を認識できない父の横で、ローハンは素早く起き上がった。

 そして、オープンのまま走っていたドロップヘッドクーペの、1930年代のアメリカズカップに出場したクラシックヨットからインスピレーションを得たと言われる、チーク材でできた甲板のようなリアデッキに、足をかけて立ち上がる。


「ローハン!」

「帰ります――秋葉原へ!」


 そのまま、寸毫の迷いも見せずに。

 ローハンはころね号めがけて、ジャンプした。

 一瞬、大いに焦った表情になったころねの伸ばした手に何とか捕まったローハンは、地面にたたきつけられる寸前でころね号に引き上げられる。

 思いっきりバランスを崩しそうになるころね号だったが、オートバランサーが作動して、なんとか転倒を免れた。

 そして、自分を片手で引っ張り上げた、ころねのあり得ない力に驚くローハンに

「びっくりしたあ~!」

 と、同じくびっくりしちゃっているころねが笑顔を向けた。

「下に強化人工筋膜のスーツを着てるから良かったけど、そうじゃなかったら、ちょっとした大事故だよ!」

 『ちょっとした大事故』と言うのは、明らかに矛盾しているだろう、と思ったが……そういえば、以前強化スーツの話を聞いたなと言うことと、確かに自分の行動が無謀だったなと思ったので、ローハンは反論を控える事にした。

 ふと気がついて周りを見回すと、併走しているドロップヘッドクーペの後席で、これまた驚きに目を丸くしている父親と目があった。

 何か言おうと口を開いたその刹那。

「ローハン、飛ばすよ! ころねの腰に捕まって!」

 と、ころねの鋭い声が飛び、あわててローハンはころねの腰に腕を回してしがみついた。

 そこで、ローハンは……見た目から想像するとガリガリで骨張っていると思われたころねの身体が、実に柔らかかったことに、ちょっとした驚きを覚えた。

(そうだよな……ころねって、女の子なんだよな)

 例えるならば子猫のような、ガリガリに細いけれども、なんともふんわりとした感覚――それは、決して男性ではありえない繊細さと柔らかさ――を認識しちゃった途端に、ローハンは自分の意思とは無関係なところで顔が猛烈な勢いで火照ってくることと、鼓動が不必要に早くなるのを感じて、困惑した。

(顔が赤いのは見えないとして……この鼓動はバレないだろうか……?)

 この非常事態に、一般的にはどうでも良い事を思い悩むローハンを後ろに乗せて、ころねは景気づけに叫んだ。


「ヒーッハアァーッ!!」


 ローハンが感じた女の子らしさを一撃で粉砕するかのごとき、テキサスカウボーイもかくやと言う勢いの威勢の良い雄叫びを上げて。ころねはリアブレーキをロックさせるや、強引にブレーキターンをかまして進行方向を真逆に変える。そして、すかさずモーター出力のモードレバーを『強』から『ハルマゲドン』にたたきこんだ。

 一拍の間。

 ハイフロイドを全力噴射して急速冷却しながら、ホイール内の超伝導モーターがフルパワーで駆動する。

 それに伴い、メインモーターもまるでガソリンエンジンの様な勇ましい高回転の雄叫びを上げ、ただでさえ自転車ではあり得ない速度域で走行していたころね号を、ロケットで打ち出したような勢いで加速させる。

 ハルマゲドンモード――連続駆動時間を大幅に削りながら、機械的に最大のパワーを出し続ける、ブーストモード。

 あっという間に靖国通りを淡路町まで駆け抜け、これまたブレーキをフルロックさせて交差点を左折。秋葉原方面めがけてころね号はフル加速する。

 血液ごと脳を後方へ持って行かれそうな感覚を覚えて、気が遠くなりそうなローハンの耳に、ころねのハイテンションな解説の声が聞こえてくる。

「ころね号メガドライブの出力は、高出力ブラシレスモーターに超伝導インホイールモーターを同時駆動させることにより、通常の三倍になったんだよ! マーク3とは違うのだよ、マーク3とは!」

(ああ――マーク3の次だから、メガドライブか)

 と、冷静に納得するローハンにむけて、ハイテンション解説はなおも続く。

「フレームはチタンで補強を入れて、ドライブシャフトはカーボンコンポジットの強化軽量素材のものにスワップ。カウル形状と底面構造を吟味して、ゼロリフト達成! 高速ツアラーに生まれ変わったんだよ!」

 ツアラーというより、ドッグファイト前提のレースマシンだろうと思ったローハンだったが。この解説で触れられていない、彼的に実に気になる部分のスペックをころねに尋ねた。


「で、ブレーキは?」

「そのまんま」


 永遠と思われる一瞬の時が流れ。

 ローハンの悲鳴にも似た叫びが、神田川に響き渡った。


「おろしてくれーーーーー!!!!」

「だが、断るーーーーーー!!!!」


 岸辺露伴の名台詞を高らかに叫びながら。

 ころねはころね号メガドライブを、通常の三倍のスピードで爆走させた。


 そして、不意にゴーグルの警告表示が赤く点滅する。

 次の瞬間、後方から近づいてくる、30mmバルカン砲の斉射音の如きエンジン音。

 ローハンが振り返ると――思ったより近くに、ロールスロイス・ファントム・ドロップヘッドクーペが猛追してきていた。

「追いついてきたぞ!」

「そんな……車重2.7トンあるファントムが、460馬力の6.75リッターV12でこんな加速するはずない……」

 実は、事前にドロップヘッドクーペのスペックをデータとして入力していたころね。そこから導き出される加減速数値から、ハルマゲドンモードで走行するころね号を、秋葉原の一般路上で捕らえることは不可能という数値を算定していた。

 しかし、実際は秋葉原に入る手前ですでに追いつかれている。

(何がいけなかったんだろう……数値が間違っていたのかな……?)

 色々と考えながらころね号を運転するころねに、ローハンは申し訳なさそうな口調で、こう告げた。


「すまない、ウチのファントムは、V12じゃない……V16エンジンなんだ」


 ロールスロイスの自動車部門がBMWに売却されたのは、2003年の事だった。

 それまでもエンジンの供給をしていたBMWが車体を含むロールスロイスの生産・販売に乗り出したのは、ひとえにBMWと言うブランドの、超高級車域でのプレミアム感の不足を補う為であった。

 そして記念すべき第一弾として、BMWは生産中止になって久しいロールスロイス伝統の高級車――『ファントム』を蘇らせることにした。

 『21世紀を象徴する超高級車のアイコン』として、BMWは当初計画していた6.75リッターのV12エンジン――これは3.5リッターの直列6気筒エンジンを二つつなげた物だ――ではなく、他のメーカーの追随を許さない、ロールスロイスにのみ許される、究極のエンジンを開発することを決定した。


 それが、4.5リッターV8エンジンを二つつなげた――9リッターV16エンジンである。


 出力は未公開ながらも、元になるエンジンが300馬力クラスのV8エンジンであることから、推して知るべしである。

 度重なる性能テストを経て、V16エンジンはとてつもないパフォーマンスを発揮したと言われる。

 そして――欧州のみならず、世界中を覆った――地球温暖化にともなう環境問題が、その原因の一つである自動車業界を直撃し……

『V16エンジンは「やりすぎ」である』

 と、市販レベルの完成度に達していたにもかかわらず、封印。結局、市販車は既存のV12エンジンを改良した物を採用することとなったのだった。


「なんで!? あれ、世界中探しても、BMWの本社に保管してる3機だけしかないんでしょ?」

 完成した試作機3機のみが、今もBMWに保管されていることを含めて、このエンジンに関しての逸話はメカオタクのころねには周知のことがらであった。

 驚きと困惑が混ざったような感じのころねの質問に、ローハンはちょっと困った様な口調で言った。

「うちの父は『ストーリー性のある限定品』に弱いんだ」

「え!? そういう問題なの!?」

 にわかに信じがたい話であったが、後ろに迫るドロップヘッドクーペの加速性能と、V12エンジンのモーターのような高音域のハーモニーとはまるで違う、V8エンジンのビートを洗練して増幅したような低音ベースのエンジンサウンドが、ローハンの話を雄弁に裏付けている。

「ローハン、学校に入るよ!」

 ころねは、実はかなり弱っているブレーキに最後の鞭を入れて、ブレーキドリフトで強引に曲がりながら正門をくぐった。一拍おいて、もの凄い勢いでドリフトをかまして、ドロップヘッドクーペが続く。

 そこで、ころねのゴーグルに内蔵している骨伝導ヘッドセットのスピーカーから、警告音が鳴り響いた。

 凍結冷媒……ハイフロイドを使い切り、超伝導モーターの出力が低下するという内容だ。

 システムはインホイールモーターとリンクしているメインモーターの出力低下を避けるため、インホイールモーターの出力とリンクをカットしたが、いずれにせよ急激に出力が落ちてしまい、大柄な自動車では速度の出せない学内でのアドバンテージを大幅に失ってしまう。

 多くの学生が驚いて脇に避け――さながら、モーゼの十戒の様な光景であった――道が開いたメインストリートを駆け抜け、そのまま裏庭に。

 おそらく、後席に座るローハンの父から『追え。逃がすな』と言う命令を下されたのだろう。律儀に追いかけてくるドロップヘッドクーペをリアカメラで確認しながら、ころねはインカムのスイッチを入れた。

 裏の部活棟前で、そこそこ広い直線路になり、V16エンジンのノイズが急速に迫ってくる。

 腰に回ったローハンの腕に力が入るのと、ローハンの鼓動が早くなるのを感じながら。

 ころねは、インパネに急設したとおぼしきトグルスイッチをオンにする。

 リアカメラの横に付けてある大型のレーザーポインタが、ドロップヘッドクーペのボンネットあたりをポイントする。

 それをカメラで確認したころね、インカムのマイクに思いっきり叫んだ。


「みつば、スイッチオンーっ!」


 叫んだ瞬間、ころね号は電子工作研究会のバラックの前を駆け抜けた。

 その直後に、ドロップヘッドクーペも駆け抜ける――と思われた刹那!


「な、なんだ!?」


 突然、もの凄い力で。

 車重3トン弱の、ファントム・ドロップヘッドクーペが――持ち上げられた。


 直後に、ゴーグルに鳴り響く警告音。そして、こんな警告表示。

『Battery LOW』

 ハルマゲドンモードの急激な電力消費により、突然事切れたバッテリー。

 その結果として、ころね号は残された予備バッテリーの容量を使い切る勢いで緊急停止した。

 バッテリーを失うと3桁キロの速度で走る、ただの重たい自転車になるので、安全システムの思想上、何をおいても停止させなければならなかった。

 もともと速度が落ちていたことも幸いして、思ったより短い距離でころね号メガドライブは停止した。

 ころねとローハンはころね号から降り、後方を振り返った。

「――なんだ、あれは?」

 呆然と呟く、ローハン。

 それに対してころねは、あははと笑って返した。

「うまくいったね」

 信じられないものを見る目でころねを見てから、同じ目でローハンは父親の乗るドロップヘッドクーペを見た。

 ドロップヘッドクーペは自分たちの後方十数メーターのところで――バラックから伸びる巨大な腕に捕まえられ、そして持ち上げられていた。


『いつか、秋葉原の高層ビルを使って、巨大変形ロボをつくりたいんだ』


 言った。

 確かに、ころねはそう言っていた。

 それは、夢とジョークが混ざったようなものだと思って、ローハンは聞いていた。

 だが、目の前で父親の車を捕まえているものは、明らかに『巨大ロボットの右腕』と言って良いものであった。

「こんなもの……いつ作ったんだ?」

「いつか、全身を作ろうと思って……ちょっとずつ作っていたんだよ」

 ――手編みのセーターを少しづつ編むのと、ワケが違うんだぞ。

 そんな読者の皆さんと同種類のツッコミを心中でかましてから、ローハンはふうと呆れたようなため息をついた。

「3トン弱を持ち上げるロボットアーム、か」

「最終的には落下するコロニーを受け止められるくらいにしないといけないからね」

 作りたいのはライジンオーなのかガンバスターなのかνガンダムなのか。

 言葉を失いながら、ローハンは頭上の父を見上げた。

 ――父も、あまりのことに言葉を失って、後部座席に呆然と座っていた。

 そのローハンの横に走ってきて、頭上を見上げてみつばは父親に呼びかけた。

「ローハンのお父さん! 私たちの話を聞いて下さい!」

 呼びかけられて、我に返った父は、ゆっくりと地上を見下ろした。

 ローハンと、ローハンを『奪還』した少女。そしてその後ろに――ロープで縛られた黒服の傭兵達が見事に全員転がっている。

 事態を全て悟ったローハンの父、重く長いため息をついた。

「……わかった。話を聞こう」

「ありがとうございます!」

 みつば、満面の笑顔で言った後、困った顔になる。

 背後のころねを振り返り、困惑の表情のまま頭上を指さす。

「どうやって降ろすの、ころね?」

「いい、いい。ころねがやるから」

 ノーマルで六千万円、しかもエンジンがアレである。

 仮に、BMW7シリーズ用のV8を2機使って作ったワンオフのレプリカエンジンであったとしても、少なく見積もってプラス一千万円だろう。

 まして『本物』だった場合は――高級マンション一棟くらいの値段だろうか?

 その価格を鑑み、万が一『落っことした』時のことを考えると、さすがのころねも血の気がひくのを感じた。

(よかった……手のひら側に滑り止めとクッションを兼ねて、低反発ウレタンコーティングしておいて)

 胸をなで下ろしながら、ころねはコントロールパネルに制御コマンドを打ち込み始めた。

 低いシステム作動音のあとで、超伝導モーターを応用したアクチュエーターの甲高い作動音が響き、ゆっくりとドロップヘッドクーペを地面に降ろす準備が始まる。

 コントロールパネルの前でほっと安堵の息を吐くころねの横に、みつばは静かに並んだ。

「ころね」

「ん?」

 一拍の間。

 みつばはにっこりとサムアップした。

「やったね」

「ありがとね」

 笑顔でそう言い置いて、ころねは次の制御コマンドを打ち込み始める。

 そしてみつばは、呆然と頭上のファントムを見上げているローハンの肩を叩き、満面の笑みで言う。


「お帰り、ローハン」

「ああ……」


 ローハンは、ゆっくりとみつばの方を振り返った。

 そして、次の瞬間――みつばの後ろから、ローハンに次々に声がかかった。


「無事だったんだね、よかった」

「あいや、良かったヨ」

「さあ、お父様をこれから説得しなくちゃ」

「大丈夫……なのよ」


 特に誰の台詞とは書かないが、みんな笑顔でローハンを迎えていた。

 ローハンはうれしそうに笑うと、

「みんな、ただいま」

 と、言って頭を下げた。

 そんな、和やかな空気の中――突然、ローハンにガッシリと決まるヘッドロック!


「心配したぞ、ローハン!」

「うわあ!」


 きわめていつもの調子のアンドリューとローハンを見て、皆が笑う。

 そして、ゆっくりと、ファントム・ドロップヘッドクーペは地面におろされたのだった。


 ――憮然とした表情で後席に座る、ローハンの父を乗せたまま。



※この小説に関する著作権はHP:AKIHABARA OMOTENASHI PROJECTの著作権管理規約に則っています。 


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