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いつもの日々

 けたたましく携帯のアラームが鳴った。その瞬間、布団から伸びた手はアラームが最初の一音目を鳴らし終える前に携帯の停止ボタンを押す。

 むくりと男は起き上がり、そっと布団を出る。

 「今日も早いね・・・」

 女の声はまだ眠そうで、ろれつは回っていなかった。アラームの音で起きたというよりは、男の動きで眼が覚めたのだろう。

 「寝てなよ」

 そう言うと、男は寝室を後にして居間に向かう。身支度を済ませ簡単な朝食をとりつつテレビをつける。音量は限りなく小さい。

 男の名前は龍御寺瞬(たつみでら しゅん )冗談のような名前だが本名だった。

 パンを焼かないまま齧り紅茶で流し込むと、カバンを片手に家を出た。静かに、ドアを開ける音すらひっそりと。

 時刻は午前5時。毎日こんな早朝に仕事に行くわけではない。彼の生活はどちらかといえばもっと時間に融通のタイプの生活スタイルである。

 早朝の空気は鼻から肺を駆け抜けて、眠気の残る意識に染み渡った。

 彼の仕事は今の世で何かと話題の「介護福祉士」である。早番と呼ばれる朝一番の仕事をこなす時はこんな早朝から出勤しているが、遅番であれば昼前に出勤したり、夜勤となれば午後5時過ぎだったりと時間はバラバラの生活だった。

 勤めるホームへは徒歩10分で着く。この近さは大変に便利ではあるが、何か不足の事態があればすぐに呼び出しがかかる嫌な面も持ち合わせていた。

 基本的に人手が急遽足りなくなった場合は彼がシフトに組み込まれる。家庭のある他のスタッフは休日に呼び出しにくいという点も考慮されている。

 今現在は女性と同居しているが、正式に結婚している訳でないので扶養扱いにはならず、土日祝日、年末年始、家庭をもつスタッフの代わりに勤務するのが若手の仕事だったりする。

 「おはようございます!」

 ホームに入ると夜勤スタッフがあいさつしてくる。

 「お疲れ様です。何か変わったことはなかったですか」

 「静かな夜勤でした。吉田さんが0時まで起きていましたが、それ以降は良眠されています。朝山田さんが体調不良訴えていまして、どうしましょうか」

 「バイタル計って、お変わりなければ離床促して下さい。いつも通り朝眠いだけでしょう」

 「わかりました!」

 夜勤スタッフは龍御寺よりも一回り以上年齢が上ではあるが、立場上彼の部下という事になる。26歳という若さではあるがホーム勤続6年という彼はここのフロアリーダーという中間管理職のようなものを務めている。

 スタッフルームで着替えを済ませると、勤務が始まるギリギリまで龍御寺はイスに座り、腕を組み目を閉じて無心になる。この6年間勤務前に欠かしたことのない彼なりの精神統一方法だ。

 勤務が始まると怒涛の如く時間が過ぎていく。入居している方の朝の身支度を手伝うモーニングケアに、食堂にお連れして朝食の配膳と下膳。食後薬の内服管理。トイレ誘導。果ては後続で出勤してくるスタッフへの申し送りと龍御寺は一日10分と立ち止り休む暇は無く動き続ける。

 「龍御寺君、おはようございます」

 「おはようございます。ホーム長」

 ホーム長と呼ばれた女性は50は過ぎた年配の上品な女性だ。ホームを取り仕切るボスで、彼の直属の上司になる。

 「今日は職業体験学習で桜台中学校から生徒さんが来ます。龍御寺君に実習指導をお願いしたと思いますが、資料の準備などは出来ていますか?」

 「はい。先日担当頂く教員の方とも電話にて打ち合わせ済みです」

 「それは結構。では、お任せしますね。フロアの取り仕切りは仙石さんに任せて、貴方はそちらメインで一日動いて下さい」

 今日は近隣の中学校より「介護」という仕事を体験するために、生徒の中から志望者が数名ホームに見学に来る。

 朝の騒々しさも程々に、午前10時を過ぎたあたりで遅番勤務スタッフが合流し、ホームはようやく落ち着きを見せ始める。龍御寺の仕事も現場からデスクワークへ移行した所で桜台中学校から担当教諭と生徒2名が到着した。

 「どうも。はじめまして。桜台中学の明石と申します。今日は一日宜しくお願いします」

 担任の明石と名乗った女性教師に続いて生徒達も「お願いします!」と続く。全員女子生徒でその表情には緊張が見られた。

 「こちらこそお願いします。本日は案内と説明を勤めます龍御寺です」

 「たつみでら・・・さん」

 「ハンドルネームみたいですが本名です。実家は宮司ではありません」

 「あ、いえ。そういう意味では・・・」

 この「本名です」のくだりは龍御寺の自己紹介のつかみネタであるが、まともに恐縮されてしまった。

 「まずはうがいと手洗いをお願いします。体調の悪い生徒さんがいましたらマスクの着用をお願いしていますが大丈夫ですか?」

 龍御寺の問いに明石、生徒2名も「大丈夫です」と答えた。

 「では談話室で荷物を置いてください。そこでホームの1日の流れなどを説明します」

 談話室のテーブルに座り資料を渡したところでホーム長も入ってきた。

 「よろしくお願いします。ホーム長の田所順子です。今日は一日、介護についてしっかり勉強していって下さいね」

 「こちらこそ、お忙しい中見学受け入れをして下さってありがとうございます。私担任の明石明子と言います。さ、皆も自己紹介をして」

 明石に促され、女生徒二人がイスから立ち上がってそれぞれ挨拶をした。

 「桜台中学三年、田代由利子です。よろしくお願いします」

 髪の短い、活発そうな子が名乗った。

 「桜台中学三年、岩下果歩です。よろしくお願いします」

 田代に続き、髪の長い眼鏡をかけたおとなしそうな子が名乗る。

 「今日はこの龍御寺フロアリーダーが実習担当をしますので、疑問に思ったことはなんでも質問して下さい。皆さんのように介護の知識の無い人が疑問に思うことを再確認する事で、ホームの体制見直しにも繋がると考えています。そういった意味では、今日は互いに学ばせて頂く日になると喜ばしいですね」

 田所はニッコリと笑顔で生徒2名に語りかけた。

 「では、龍御寺君。あとはお願いします」

 「はい」

 龍御寺はホームの概要や、1日のタイムスケジュールの組まれたプリントを3人に渡した。

 「まずは一日の流れを説明します。説明が終れば昼食までは実際にエントランスでレクリエーションの時間になります。午後からはご入居されている方々と一緒にラジオ体操やお茶会に参加して頂いて、コミュニケーションをとって頂く時間にしようかと思います」

 と、マニュアル通りの用意された言葉を並べて、昨晩用意したホーム説明を伝えて行く。

 午前中はホーム内の設備案内と諸注意、ご入居者挨拶などで終え、昼食の時間になった。龍御寺と明石、生徒2名はテーブルを囲んで食事をした。

 「龍御寺さんは、このホームに勤めて長いんですか?」

 明石が口を開く。

 「かれこれ6年になりますね。ひとつの職場に5年以上は長い方だと思います」

 「お若いのにフロアリーダーとは凄いですよね?」

 「長く居座っているだけですよ」

 おそらく明石という女教師は龍御寺と年代は同じか少し下といった感じだろうか。2人の質疑応答が続き生徒達は緊張してかなかなかしゃべり出せずにいた。

 「お2人はどうして介護施設見学を選んだのかな?興味がありますか?」

 龍御寺はふと生徒2人に声をかけた。

 「私は母親がホームヘルパーをしていて、何か人にしてあげられる仕事に興味があったからです!」

 田代由利子がハキハキと答えた。

 「あ、えっと。私も人の為に何かさせてもらえる仕事に興味があった・・・から・・・です」

 対して岩下果歩はあまり人前で話すのは苦手なようでもじもじと答えた。

 2人で見学希望を出すと言う事は友人なのだろうが、タイプが違い過ぎて仲良く話している姿は想像がつかなった。

 「この仕事も最近の高齢化社会で注目を浴びていますが、同時に過酷で賃金が安いという評価をテレビで取り上げられて、決してなり手の多い仕事ではないので、未来の介護士さんがいてくれるのは心強いですね」

 精一杯の営業スマイルで龍御寺が答えると、それを皮切りに生徒2人から質問が始まった。

 仕事の大変な面に楽しいところ、大変だった経験、様々な話をしていく。慣れてくる頃には時間はあっという間に進み、ホーム見学は振り返りの時間になっていた。

 「今日は一日お疲れ様でした。最後に何か質問などはありますか?感想などでも結構です。是非ご意見をお願いしますね」

 田所が最後の締めくくりに質疑応答の時間を設けると、田代由利子はハキハキと答える。

 「とても勉強になりました。歌やラジオ体操の時間にご利用者様から沢山昔の話を聞かせてもらって、楽しかったです。また機会があればこういう場で介護の仕事に触れ合いたいと思います!」

 「それは良かったですね。岩下さんは何かありますか?」

 田所の笑顔を尻目に岩下果歩は何か言いごもる。

 「どんな事でもいいんですよ?「どうしてこうしているんだろう」とか「なんでこれがあるんだろう」といった事でも、私達には新鮮な意見なんですから」

 「えっと・・・お昼前に、エントランスで杖を突いてベストを着た方が立ち上がった時に「立ったらあぶないから駄目!」と言う職員さんがいました。でももう一度、午後そのおじいさんが立ち上がったら龍御寺さんは一緒に隣で付添いながら歩いていました。立ったら危ない人なのに、いいのかなって思いました」

 急に出てきた質問に周囲が驚いていると、すかさず田所が答えた。

 「それはいい質問ですね、岩下さん。龍御寺君。どうして山田さんへその対応をしたのか詳しく話してあげて下さい」

 「詳しく・・・ですか?」

 龍御寺が突然の事で驚いていると、「背景からそこに至るまで全部です」と付け足された。

 「まず、山田さんは歩行が不安定で、つかまり立ちは出来ますが歩行は困難です。支えがあれば出来るといった程度です。しかし山田さんは認知症がある為、自身で歩行したいという気持ちが強く、制止を振り切り歩行しようとします。スタッフの休憩入れ替わり時間である正午前は人員配置が少なく、静止したスタッフはエントランス見守り担当だった為、山田さんと共に歩行に付添う事が不可能だったのかと思います」

 3人が頷きながら話しを聞いていると、田所はさらに促す。

 「では、どうして龍御寺君は山田さんに付添い歩いたのですか?そこを詳しく教えてあげて下さい」

 「私は本日皆さんの見学担当でフリーで動けていた為、わずかの時間なら山田さんに付添って歩行する時間が出来たと判断し、歩行付添いをしました。一日中制止されていたら山田さんも息がつまるでしょう?」

 そこで更に岩下果歩が質問した。 

 「山田さんみたいに、歩きたい人の為に一緒に付添って上げられる人を増やしたりは出来ないんですか?」

 まさかここまで突っ込んで来るとは思っても居なかった龍御寺だが田所は答える気は無い様子でニコニコ笑っている。

 「入居者とスタッフの介護比率は決まっています、現在当ホームでのスタッフ入居者比率が一対三として―いや、この話は少しおかしいな・・・一日のスタッフ数は決まっていて、山田さんの為だけに一人スタッフを増やして対応するのは今のところ困難です」

 「止める人と歩かせてくれる人がいたら、少し不公平というか・・・山田さんは・・・なんだか納得しないんじゃないかなって・・・その・・・うまくいえなくてごめんなさい」

 岩下果歩が黙り込んだところで田所が話し始める。

 「とてもよい着眼点だと思います。今お話してもらったように、この件に関しては私達も「正解」という答えにはたどり着いていません。山田さんは現状の対応で過ごして頂いていますが、決して解決として終わらせること無く、日々より良い答えを模索しています。龍御寺君のように時間を見つけて付添っているスタッフもいますが、それをしないスタッフが怠慢というのではなく、方針としては安全性を優先している為、制止するのがある意味最善であるともいえます」

 話し終えると岩下果歩はまたモジモジと口をつぐみ「何も知らないのにすみません」と繰り返すばかりだった。

 

 体験学習の3名が帰ると、ホームはまたいつもの静けさを取り戻した。これから夕飯の誘導になればまたバタバタしだすが、今はわずかな休憩時間だった。

 「龍御寺君。これから忙しくなりますね」

 「はい?」

 「さっきのお嬢さんの話。山田さんの歩行に関して更に改善策を打ち出す時期ですよ」

 「今は手一杯です」

 「本当にそう思っていますか?」

 龍御寺は田所のこの見透かすような目が苦手だった。決して嫌いというわけではなく、図星過ぎて何も言えなくなるのが嫌なのだ。

 「14時の共同リハビリの時間にフロアスタッフが対応する手もありますが、歩行させているスタッフと止めているスタッフ間では「歩かせているから立ち上がり欲求が止まらないんだ」という意識の差があります。事実、夜間帯は立ち歩きが頻回で夜勤スタッフが一名ベタ付きで仕事にならないという声もありますので・・・」

 「ので?」

 「この件はまた仙石さんと意見をぶつけないといけないですね・・・」

 龍御寺がため息混じりに言うと、田所は満面の笑みで答えた。

 「貴方達、2人のリーダーの意見交換は私は大好きです。奇麗事抜きにして、このホームがより良い場所になっていく実感があります」

 ホームには龍御寺と同様にフロアリーダーと呼ばれる役職がもう一名いる。仙石良明という龍御寺より一回り年上のリーダーで、2人を中心に現場は動き、どちらかが不在の時はどちらかが指示を出す。

 堅実な意見を出す仙石と、奇抜な意見を出す龍御寺は折り合いが悪く、意見の衝突は日常的になっていた。

 「しっかりとした、無理の無い実行プランを検討しないと彼は落ちませんよ?まぁ、残業しすぎて奥様に怒られない程度に頑張って下さいね」

 田所は龍御寺の同棲相手を「奥様」と呼ぶ。なんとなく否定する気もないので、ホーム全体はそれで落ち着いていた。

 「介護の未来は明るいですよ」

 「はい?」

 「私が現場にいたのは「選択」ではなく「措置」の時代です。入居者に自由はなく、決められた「最善」を押し付けていました。勿論、「最善」が悪いとは言いませんし、体制も否定はしません。ですが、今は「最良」を求める事も出来る時代です。これから歳をとっていく私には、龍御寺君やここの士スタッフ、そしてあのお嬢さん達のような人材が介護業界を支えていってくれるのならば、老いも怖い物ではないですね」

 

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